NO. 413 タラントのたとえ


”テキスト:マタイ25:
14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。”

本日は「タラントのたとえ」を考えてみたいと思います。

テキストを順に見ていきます。

”14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。”

ここでしもべについて書かれています。しもべとは誰か?
しもべは主人を持つものです。「主よ」ということばをよく語るクリスチャンこそ、主である
キリストのしもべなのです。ですから、これはクリスチャンに関することがらと思えます。
「自分の財産を預け」と書かれています。これもクリスチャンの実態を表しています。
我々クリスチャンは神の財産を預かっているのです。
聖霊は教会に与えられ、また神のことばも教会に与えられています。
我々は救いを受けています。これは財産です。

「旅に出て行く人のようです。」

旅に出いていった人はその家にはいません。同じく主であるキリストは昇天しており、
後の日に再臨するでしょうが、今は不在なのです。それで、我々は主の
心にかなった働きをし、かの日に主に喜ばれるべく、働きにつくべきことがわかります。

15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。”

1タラントは、6000デナリ、また1デナリとは労働者の一日の賃金ということですから、
1日、一万円かせぐとしたら、6000万円にも相当する結構な額となります。
それぞれの能力に応じて、五タラント、二タラント、1タラントと渡されています。
それで、主は私達の能力には差があることを御存じだということがわかります。
伝道には話すことが大事ですが、話のうまい人もいれば、下手な人もいます。
それぞれの人が阿多えられたタラントを増やすことを主は望んでいるわけであり、
理不尽な要求を主はされません。

注目すべきことは最低の人でも1タラント与えられているということです。
ですから、自分には何も与えられていないから、増やすことは不可能だということは
あり得ないのです。

”16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。

5タラント預かった人は商売をしてもうけました。この人は後で主人が帰って来た後、ほめられています。
それで我々も彼の様にすれば、主であるキリストの再臨後ほめられることがわかります。
是非彼の様にしたいものですが、さてところで、ここでいう「商売」とは何をさすのでしょう?
このことがわからないと我々が一体何をすべきなのかはわかりません。

教会でバザーでもすることか、それともお店でも開くべきなのか?
否、これはたとえなのです。
商売のたとえは何でしょう?
考えてみるなら、商売とは要するに売り買い、売ったり買ったりであることがわかります。
売ったり買ったり?聖書の中で売り買いに関係することばがあります。
それは購いのことであり、その意味は買い取るという意味あいです。

商売とは実はあがないに関することに従事すること、具体的にいえば、伝道に従事することを
さすと思われることがわかります。

「すぐに行って」

この5タラントかせいだ人が一番かせいでいるのですが、彼に対して、
「すぐに出ていって」と書かれています。
行動が敏速であり、すぐ行動に移していることがわかります。これが稼ぎ頭、5タラント稼ぐ人の
基本です。

主の命令は明確であり、はっきりと示されています。
それは、商売をすること、すなわち、人を購うこと、救われることに関する仕事に
従事することです。理屈をとなえず、いいわけをせず、すぐに出ていってこの仕事に入る人は
その酬いを得る様になるでしょう。

ただ、すぐに出ていくと言っても皆が牧師や伝道士になるとは限らないかもしれません。
どちらにしても、自分の置かれている環境の許す中で、「商売」すなわち、購いや
救いのために一歩でも働くことが大事なのかもしれません。
今の時代、ネットを通して等色々な方法があります。また、トラクト一枚配ることだって伝道です。

”17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。”

2タラント預けられた者は2タラントもうけました。
彼は5タラントの者より、少ないですが、しかし、自分の物に忠実でした。
商売ということを考えてみましょう。普通の商売は、
少ない利益を少しずつ何度も何度も商いをくり返してそして、増やしていくものです。
一個10円の飴を売って、利益が1円だったり、2円だったり。
そんな小さな商いをくり返していくものです。
でも商いを続けていく時、いつしか、それは報われ、利益は増えていきます。
主の購い、救いを伝えることも同じ様なものです。いやっという程、トラクトを配っても誰も来ないかもしれませんが、しかし、あきらめずに地道にくり返していきます。

”18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。”

さて、ここに問題がある人がいます。彼はタラントをもらったのはいいが、それを地に隠し、
用いようとしませんでした。また、商い、すなわち、購いや救いに関する仕事には
一切関わらなかったのです。自分の金、すなわち、購いだけはしかし、維持しようとしたのです。
しかし、彼は後に叱責されます。

”19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。”

よほどたってから帰る主人とは、再臨するキリストをあらわしているのかもしれません。
その日、再臨した主はそのしもべと清算します。ですから、我々はその日、私達の働きに関して、清算があることを知るべきです。私達はしもべであり、しもべは主人と清算をするものなのです。
 

”20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』”

このしもべは「わずかな物に忠実だった」ことをほめられました。
誤解を恐れずにいいますが、まことに我々が受けているものは「わずか」です。
私達に与えられている福音を伝える機会は少なく、方法も少なく、
耳を傾けてくれる人も少ないのです。また、まわりには大いに圧迫があり、
平たんではありません。

しかし、それは誰も同じであり、私達誰も彼も「わずか」なものしかないのです。

”あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』”

わずかなものに忠実であったしもべは、大きな酬いを得ました。これは当然といえば、当然です。

人間の会社でも忠実に業績をあげ、大きな利益をもあたらした社員は、多額のボーナスをもらったり、
地位があがったりします。逆に会社に損害をかけたり、ろくに出社しない社員は減額になったり、首になります。世の中もそうだし、神の前でもそうなのです。
しもべとして、主人のいいつけに忠実な者はその日、誉れを受けるでしょうし、
主人の心を知りながら、たださぼっている人は叱責を受けるでしょう。
これは、聖書の中にある「常識」です。

惑わされてはいけません。私達はしもべであり、ある日、私達は自分の仕事の成果を
主人である主に報告する様になるのです。

”22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』”

二タラントの人も主にほめられました。「5タラントの人より少ないじゃないか」などとはいわれなかったのです。この人に対してほめられていることばは、5タラントの人へのことばと全く同じです。
ですから、主は我々個々の人の能力が異なることを御存じであり、ただ、我々が自分に与えらた物に忠実であることを求めておられるのです。

私達の環境は異なり、能力は異なり、方法も異なります。しかし、
大事なことは与えられたわずかな物に忠実ということでしょうか。
後の1タラントの人は叱責されていますが、もし、彼が忠実になるなら、
1タラント得られるはずであり、それを主はほめられたでしょう。
主は私達が忠実なしもべであるかをごらんになります。
 

”24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』”
 

さて、問題は1タラントの人です。彼は失敗例であり、
まねてはいけないタイプです。
彼の問題点とは何でしょう?彼は金はもらったが、要するに何の仕事もしない、奉仕もしない、
結果として一円ももうけていない、なまけもののしもべであったということです。
この様なしもべは叱責される、それのみか、自分の持っていたものも取られてしまう(救いのことか?)
このことを覚えておいて下さい。

「あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」とは具体的にはどういうことをさすのでしょう。
誰にきかれても決して自分はクリスチャンであることを語らない、証さない、もちろん、
誰にも救いの証しなど決してしない、そんなクリスチャン生活をさすのでしょうか。
そんな生活はかの日に、ろくな結果をもたらさないことを知りましょう。
 
 

”26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。”

”私の金を、銀行に預けておくべきだった”とは何をさすのでしょうか。
銀行とはたくさんのお金が集まっているところです。
個人個人のお金が集まるところです。その意味から察するなら多くの人が集うところ、教会のたとえかもしれません。

ですから、ここでは「教会に加わるべきだった」といっているのかもしれません。
教会は銀行の様なものであり、銀行はお金を置いておくだけで、自然に利子がつきます。
教会もそうであり、私達が教会に出席し、行事に参加し、献金を捧げているだけで、各自は自然に
このこと、利子を増やすこと、すなわち、人の救いに貢献することになります。
「みんなで配りにいこう」とトラクトを配るのはもちろん伝道だし、出席した礼拝で
始めてきた人に親切に接するのも伝道であり、救いに関係しています。
いえ献金することも伝道なのです。そのお金が人の救いにつながるのですから。

ですから、基本的に聖書は教会に連なることを語っていることを知ってください。
もちろん、色々な事情がありますから、一概にはいえないかもしれませんが。

”28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。”

1タラントをとりあげられるとは何をさすのか?これはこのしもべのなけなしのお金です。
私はもしかすると、救いさえ取り上げられてしまうことをさすのではと思っています。
しかし、そうだとしたら、元も子もないことになります。

ですから、そんな危険があるので、私達はしもべとしての位置に徹し、
クリスチャンとは主人(主)を持つ存在であり、しもべであり、
仕事をするものであるとはっきりと認識しましょう。

何にも仕事をしなくても主人は喜んでくれるなどとは、何かの妄想であり、何かの思い違いをしているのです。多くの勘違いしたクリスチャンがいますが、しかし、
主を恐れましょう。

仕事も習慣になれば苦になりません。たとえば、私は
あるメルマガを何年か発行しています。これもそれなりに伝道になるようで、
これを通してキリストを知るようになったり、教会へ行くようになったという人も何人か
聞いています。
こんな奉仕も習慣になれば何とか続けられるものです。
 
 
 

”30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。”

この1タラントのしもべは主のしもべであり、すなわち、クリスチャンであるのに、
外の暗闇に追い出されました。外の暗闇とは何でしょう?
少なくても天国の中ではないように思えます。すると、このしもべは天国に入れない、
み国に入れないということになります。
せっかくクリスチャンになってもみ国に入れなければ本当に失敗です。
このしもべが追い出される「外の暗やみ」とは一体どんなところなのでしょう。
「暗やみ」に関して、書かかれている箇所を見ていきましょう。

”使徒の働き 26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』”

暗闇は「サタン」と関係ある場所であることがわかります。

”ペテロの手紙第二 2:4 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。”

ここでは、「暗闇」は、罪を犯した御使いたちが閉じ込められるところだということがわかります。
それで、何と、この1タラントのしもべ、怠惰なしもべが受ける罰は、何と、罪を犯した
み使いと同じ様な罰であることがわかるのです。恐ろしいことです。

くり返しますが、
我々はイエスキリストを主と呼ぶ時、私達は「しもべ」、働く者としての立場にいることを
決して忘れてはいけません。社長、社員ということばが、片方は、雇うもの、他方が雇われている者を示す様に、我々はイエスキリストを主と呼ぶその時、自分はしもべ、働く者であると認めているのです。
そして何にも仕事をしない社員が,
社長から叱責される様に
私達がしもべとして全く働かないのなら、決してその日主から誉れを受けることはできない、逆に罰を受ける可能性があることを知りましょう。

そんなわけで、たとえ私達が1タラントしか、もっていない者であっても、
何とかして、少しでも商売することを心掛けるべきなのです。

まどわされてはいけません。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー

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