NO. 412 ひとりはとられ、ひとりは残される


テキスト:”マタイ24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
48 ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、
49 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
50 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
51 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”
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本日は、「ひとりはとられ、ひとりは残される」という題でメッセージしたいと思います。

テキストはマタイ24章、有名な再臨に関する箇所です。」

この箇所において、「二人が畑にいると、一人は残され、ひとりはとられる」とは、
一般的に、携挙のことをいっているといわれています。一人は携挙され、一人は残されると言うのです。
しかし、よく見ていくとそうではない様に思えます。このことを見ていきたいと思います。順に見ます。

”37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。”

この「一人はとられ」の箇所の前にノアに関する記述があります。ノアは洪水の時の人であり、
洪水は終末に起きる霊の洪水、悪霊の洪水をたとえます。
今、世界中の教会にリバイバル待望論があるかもしれませんが、しかし、吟味が大切です。
聖書にないことば「リバイバル=再び生きる」:とは、悪霊の復興かもしれないからです。
何故なら、聖書は、明らかに終末の日の悪霊の復興、大洪水を語っているからです。

「人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」

これは教会生活のたとえと思われます。
食べ飲みは、聖餐式のパン、ぶどう酒に対応し、めとりとつぎは、キリストの花嫁となる、
クリスチャンになることのたとえです。

”39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。”

さて、それらの教会の日常生活のまっただなかに「洪水の日」が来ます。
しかし、悲しいかな、その終わりの日、教会の人々は、「洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。」
ですから、終末の日の大洪水の特徴は、「わからなかった」すなわち、誰も理解しない、悟らないことに特徴があります。

かつてノアの日において、山の上に住み、「まさか山の上までは洪水は来ない」と
思っていた人にも水が襲いました。同じ意味あいで否、さらに深刻な意味あいで、
この洪水は、キリスト教会を被いつつあります。
そして、しかも誰もきがつかないのです(!!)

多くの人が金粉金歯のリバイバルにだまされ、「偽預言者がしるしを行う」との聖書の警告を
ないがしろにして、ベニーヒン、ラインハルトボンケ等怪しい面々に
ついて行き、悪霊の洪水に押しながされています。しかも「誰も気がつかない」のです。
「すべての物をさらってしまう」とのことですが、この第3の波系のリバイバルは、ペンテコステ、また
カソリックカリスマそして、福音派をもすべてをさらおうとしています。

”40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。”

さて、ここで「一人は取られ」と書かれています。
ここを解釈する前に見ておくことがあります。
それは、「取る」ということばです。このことばの原意は、「受け入れる、連れていく」というニュアンスがあります。他の箇所では、以下の通りに使われています。

”マタイ1:20彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを<迎えなさい>。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。”

”マタイ12:45そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ<連れて来て>、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」”

ここでいう「ひとりは取られ」という節のすぐ前にノアの洪水でさらわれてしまうことが書かれているので、この箇所もノアの洪水と関係あると思ってさしつかえないと思われます。
絶対そうとまで、断定できないのですが、「その可能性が高い」とは言えるでしょう。

さて、そう考えると、この箇所でいう「ひとりは取られ」の意味がわかる様な気がします。

すなわち、ここでいう「取られ」てしまう人とは、要するに洪水、終末の霊の洪水に取られ、
飲み込まれていく、または表現を変えるとこの怪しいリバイバルの霊を「受け入れてしまう」人々と思われるのです。

そう理解するとこの箇所は、携挙のことなど、何も語っていないことがわかります。

畑は、麦すなわち、みことばを蒔く場所として、麦すなわち、クリスチャンが育つ場所として、
教会を表すと思います。すなわち、同じ教会に属していても一人はこの悪霊のリバイバルを受け入れ、
その中に取り込まれる。他の一人は残る。ですから、この箇所では、残る人にみこころがあるのです。
残る人こそ、聖書でいう「残りの者」なのです。

携挙に取り残されたら大変だなどと恐怖心をあおり、偽りを浸透させる「レフトビハインド」等の大嘘に騙されてはいけません。

”41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。”

女は教会のたとえでしょうか。臼は、麦と関係し、麦はみことばのたとえです。
臼をひくのは、麦を食べやすく加工しているわけです。
すなわち、みことばを語る備えをしているわけです。
このことは、教会のつとめであり、良いことです。しかし、その様な教会として、
通常の歩みをしていながら、なおかつ、一人は(悪霊の洪水に)取られ、そして
一人は残ることができます。

ですから、これらのことばが語るのは、終末だからといって、何か全面的に聖書を読んだり、
キリストを信じてはいけないと禁止される日のことではないのです。
むしろ、普通の教会生活があるその日の中に洪水があり、そして、それに飲み込まれてもわからない、
悟らない、そして、同じ教会の中でもある人は飲み込まれ、ある人は残ることができる、その様な区分がある、そのことを語っているのです。

”42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、<どろぼう>が夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。”

ここにある「どろぼう」という原語は以下のことばと同じです。

ヨハネ10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
8 わたしの前に来た者はみな、<盗人>で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10 <盗人>が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

ですから、ここでは、終末の日に教会に入り、羊を盗み、殺し、滅ぼしに来る「盗人」について語っているのです。
そして、これらのどろぼうにきづかず、「おめおめと自分の家に押し入られ」てしまう、愚かな
教会について語っているのです。

このことばは我々の目の前で成就しており、今の日本のプロテスタント神学校や、福音派、等は、
何もきづかず、「おめおめと自分の家(教会)に押し入れられ」ています。

怪しい「盗人」はあの獣のリバイバルを提唱するピーターワグナーを始めとする人々であり、
愚かで、盲目で、聖書も神の力も知らない、日本の役立たずな神学校では、フラーを始めとする
怪しい神学校の人々を招き、「ポストモダンにおける宣教のパラダイムシフト」などと
もっともらしい名前をつけた嘘話を宣伝しています。

パラダイムシフトとは軸を変換する、すなわち、今迄の聖書信仰と違う信仰へと変えてしまうぞとの
意味あいのあるトンデモない試みなのですが、「どろぼう」も「紳士」も見分けのつかない
この国の教会の門番は、愚かにもこれらの怪しい面々をもろてで歓迎、宣伝をしています。
彼等はまことにまことに役立たずの盲人です。

ですから、ここで書かれていることは、「どろぼうに注意しなさい。わかっているはずでも、
しかし、あなたの教会はその日、どろぼうにはいられてしまうでしょう。」との警告です。
そして、このことばは確かに成就しているのです。

”44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。”

「人の子は、思いがけない時に来る」ことがくり返されています。ですから、多くの人にとって、
その日は思い掛けない日でしょう。リバイバルが進み宣教が大きく進み、「反キリスト」が撃滅されていると思ったその日に主は来られるのでしょう。今、彼等第3の波の偽りを見抜けない人々にとって、
その日は「おもいがけない時」なのでしょう。

”45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。”
 

さて、主の再臨と関係してここで、「思慮深いしもべ」について書かれています。これらは
関係があるのです。「食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべ」とは、
何か?思慮深いしもべの「思慮深い」とは以下の原語と同じです。

マタイ7:24だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた<賢い>人に比べることができます。”

”マタイ10:16いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のように<さとく>、鳩のようにすなおでありなさい。”

”マタイ25:2
そのうち五人は愚かで、五人は<賢かった>。”
 

ですから、ここでいう「思慮深いしもべ」とは要するに岩の上に家を建てる賢い人であり、また、蛇の様に聡い人であり、また再臨の主を迎える賢い花嫁なのです。

「食事時には彼らに食事をきちんと与える」と書かれていますが、食事とは要するにパン、みことばを与えること、また水すなわち、純粋な聖霊の働きをなすことです。
「食事時には彼らに食事をきちんと与える」のは当たり前の様にも思えますが、終末には、当たり前のことも当たり前ではなくなります。今迄は教会で聖霊の働きがあるのはとうぜんだったのですが、
その日は悪霊、金粉や金歯の霊、怪しい霊ばかりになるので、正しい聖霊の働きがあることは、
あたりまえであるが、しかしまれになります。
同じく聖書の教理も今迄は教会の中で、聖書通りのことを信じ語るのは当たり前でしたが、これからはそうもいかなくなります。

キリストが「肉体をもって」再臨し、その時、我々の「からだ」は携挙されるとは、今迄、
どこの教会でも信じていた、伝統的な教理、また定食の様なたべものだったのですが、第3の波系の人々によると、これからはそんな教理、食物を食べてはいけないらしいのです。
聖書でいう「携挙」とは、ようするに心が昂揚することであり、肉体が挙げられることなど意味しない。肉体が携え挙げられるなどと
信じている人々は古い教理に固執している頑固なパリサイ人の様な人々であり、削除(!!)の対象だというのです。
またキリストの最初の再臨も霊として来るというのです。

「忠実な」思慮深いしもべという表現も暗示的です。
何故なら、終末の日は、これらの偽りの教理がさらにまんえんし、
主のことばに忠実に立つのが困難になる時代だからです。
しかし、そしてだからこそ、「忠実な」というひとことが加わっていることを知るべきです。
何も問題がない時には、その人が主のことばが忠実であるかどうかはわかりません。
しかし、一度主のことばに忠実であると、危害や問題が起きてくるとき、それぞれの人の真の歩みが
判明してくるのです。

46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。”

しかし、これらの毒だか、害だか、何しろろくでもない教理、霊を下す教会、しもべにみこころがあるのでなく、きちんとした食事を与える人、堅く正しい位置に立ち続ける人にみこころがあります。
そして、その様にしている人々は再臨した主の前で幸いを受けるのです。

47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。”

この忠実なしもべとは、別の表現でいえば、大艱難の中でも最後まで、
主のことばに忠実な人々のことです。彼等こそみ国を受け継ぎ、主人の全財産を任せられる様になる
人々です。

48 ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、
49 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、”

さて、一方で主のことばに最後まで忠実なしもべがいるとともに他方、多くの
しもべは、悪いしもべになります。
彼等はまず、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思います。
何故そう思うかと言うと、終末のガセネタ教理を受け入れ、すっかり嘘を信じ込んでしまうからです。
ピーターワグナー等のいう、「まず、地上に神の国が来なければ鳴らない」「地が清められ、反対者が
削除されないと肉体を持ったキリストの2度目の再臨はない」なとという大嘘をすっかり信じ込み、
「まだまだ反対者がすべて削除されていないので、再臨はまだだ」などと思い込んでいる
そのまん中に主の再臨があるのでしょう。

「その仲間を打ちたたき」

その仲間とは、他のしもべのことであり、ですから、ここには片方のしもべが
他方のしもべをうち叩くということが起きると預言されているのです。
僕とは何をさすのかと考えれば、食事を用意する者、すなわち、
神のみことばに従事する今の牧師、神父、伝道者等のことだとわかるのです。

欧米では、例の第3の波の浸透とともに、このしもべをうち叩くということも起こりつつある様です。
すなわち、この第3の波の論調に賛同しない、またエキュメニカルに賛同しない人々を、
古い教えに固執しているイエスの時代のパリサイ人の様な人々、彼等は反キリストの霊にやられた人々なので、削除しなければならない、などと語っているのです。

ここでうち叩くしもべとは、「その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると」と
書かれている様に、酒のみと関係があることがわかります。
酒のみとは、今盛んにリバイバルの酒、新酒の味わいなんていっているロドニーハワード
を始めとするトロント、ペンサコーラ系、第3の波系の怪しい人々と関係しているのでしょう。

こんな怪しい人々の集会にせっせと通っている人々こそ、「酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めている」人々なのです。
そして、この第3の波系の流れの中には、ヨエルの軍隊などというクリスチャンのグループがあり、
キリストの敵、すなわち彼等の論調に賛成しない人々を、絶滅するとのことです。
まさに「その仲間を打ちたたき」とのことばは我々の目の前で成就しつつあります。
今これは欧米で起きつつあることですが、いずれ日本もそうなるでしょう。

悪霊も聖霊も区別のつかない、また聖書のことばも読むことのできない、まことに愚かな、
「酒のみと飲んだり食べたりしている悪いしもべ」が、主につく人々を非難する日は来ようとしています。彼等は聖書に書かれた様にやってきます。そして、その結末も聖書に書かれた様になるでしょう。
すなわち、泣いたり歯ぎしりして悔しがる様になるのです。
ですから、「今」私達の目が開かれていることはいかに大事なことでしょうか。

”50 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。”

この様な悪霊のリバイバルやそのインチキ教理に惑わされている人々にとって、
主人すなわち、イエスの再臨は「思いがけない日の思わぬ時間」になります。

今ピーターワグナー等の嘘つきどもが熱心に繰り広げている教えは、地上が清められ、反対者が
削除されなければ、キリストの2
度目の再臨はない、という大嘘です。その様にして、彼等は主につく人々、聖書に堅くつく人々を
削除しようと願っているのです。

しかし、悲しいかな、聖霊と悪霊の区分もできない、嘘つきの教理も見破れない、愚かで盲目な
クリスチャンは、こんな子供だましの教理もすっかり真に受け、主のしもべを「打ちたたき」はじめるのでしょう。彼等が「自分は神のために働いている、イエスの敵を排除しているのだ」と思い込んでいる
まさにその日、イエスは再臨し、わるいしもべはその日、裁かれます。
 

”51 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”

今、ピーターワグナー、ベニーヒン等の嘘を見抜けず、その嘘につき従った人々は、その日、罰せられるでしょう。「彼をきびしく罰して」と書かれている通りです。そして、彼はこの思いもかけないことに
「そこで泣いて歯ぎしりする」のでしょう。

愚かな盲人が舞い上がる日は近付いており、偽りのリバイバルもさらに燃え上がろうとしています。しかし、これにつき従う者の末路は明確に預言されており、
彼等は「そこで泣いて歯ぎしりする」様になるでしょう。耳のある者は幸いです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
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