NO.411 しもべを打ちたたく

”テキスト:マタイ24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
48 ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、
49 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
50 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
51 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”

本日は「しもべを打ちたたく」として、終末の日に「自分の仲間を打ちたたく」愚かなしもべに
ついて見ていきましょう。

人にとり難しいことは、未来を前もって見ることです。
これは、人だけでなく、み使いにとっても難しいことであり、
それゆえ、悪霊の預言は、マリヤの予言、ベニーヒン、ピーターワグナーと次々と外れています。

さて、この様に人やみ使いにとり、未来を知ることは難しいのですが、しかし、
一人未来を正確に知っている方がいます。
それは、神御自身であり、そして神はその未来に関して聖書の中に記しました。
聖書の中に書かれているのだから、誰でも読めばわかりそうですが、しかし、ここに
不思議な神の知恵があり、聖書の予言、得に終末の預言は、たとえや謎の中にあり、
そのまま読んでも今一つわかりません。
しかし、そうではあってもこの神のことばの中にこそ、唯一終末に関する正しい記述があること、
警告が隠されていることを知るべきです。

その様なわけで主が終末に関して与えておられる警告に関しては真摯に受け止めていきたいと
願っていきたいと思います。
テキストを順に見ます。

”42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。”

ここでは、どろぼうが家に押し入ることについて書いてあります。
終末の日の一つの特徴は、どろぼうが家、すなわち、教会に押し入って来る、このことです。
そして、それが夜であり、主人も誰も気がづかないので、おめおめと押し入れられてしまう、このことなのです。

ここでいうどろぼうということばは、以下のことばと同じです。”ヨハネ10:8わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。”

ですから、この箇所は、終末の日に起きる羊、クリスチャンに対する、盗人で強盗に関する話と思えます。
どうも主は終末の日にひそかに教会に忍び込む強盗、盗人について語っている様に思えます。

ここでどろぼうが夜家に入り込むことについて語られています。
家は教会のたとえであると思うなら、これは、教会が終末の日にどろぼうの様な人々に荒らされることについて書かれていると思ってよいでしょう。
それでこの「打ちたたくしもべ」が現れる時は終末の時であり、また家すなわち、教会にどろぼうが入り込み、これを変質、教理を変質させる日のことです。
これらの変質した教理をうのみにした愚か者が「仲間を打ちたたくしもべ」なのです。
それはまた、「あなたたちを殺す者が自分は神に仕えていると思うとき」でもあります。
彼等は巧妙に変質、変換された教えに盲従し、神のことばをないがしろにする愚か者です。
変質、変換とは、今しきりにピーターワグナー等、第3の波系の人々がいうトランスホーメーション、パラダイムシフトとかいう運動のことと思われます。

”45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。”

さてここでは2種類のしもべについて描かれています。
一種類のしもべは、忠実なしもべであり、他方のしもべは「打ちたたくしもべ」なのです。
もちろん、忠実なしもべにみこころがあります。

「主人から、その家のしもべたちを任されて」

終わりの時、主人すなわち、キリストからその家すなわち、教会をまかされるしもべがいます。
これは、大変光栄な奉仕です。

「食事時には彼らに食事をきちんと与えるような」

ラーメン屋に行けばラーメンが出てくることは当たりまえ、また定食屋に行けば定食が
出てくるのは当たり前です。しかし、終末の教会においてはこの当たり前のことが
中々大変なことになります。教会へいってもちゃんとしたものが食べられない、
きちんと食事が出ないのです。その時、きちんとみことばのパンを供給するしもべはほめられます。
終末の教会においては、常識が通用せず、聖書は「他の聖なる書物と同じ様に誤りがある」「
キリストは実際は復活しなかった」等のトンでも話、トンでも教理が横行します。
その中で、主のみこころの命のパンを供給する人々には大きなポイントがあります。

「忠実な...しもべ」

終末の日、主人のみこころを行いつづけるしもべの一つの特徴は、「忠実」であることです。
忠実とは、書かれたこと、また主にいわれたことに忠実であるということ、また
勝手に書きかえたり、言い換えたりしないことです。

聖書に書かれているキリストの再臨に関する記述に「少し」書きくわえて、「実はもう一回秘密の再臨があるんです」などという怪しい2段階軽挙説は、ただただ、不忠実な冒涜者が描いた空想話に過ぎません。

これを前提にしているレフトビハインドなどは、聖書の実際の主張とは何の関係もない、
空想話に過ぎません。まともに考慮するほどのものではありません。

「思慮深いしもべ」

思慮深いとか、知恵あるとかいうことばは、ダニエル書によく書かれていることばです。
終末の預言を悟ったダニエルは、知恵ある者、思慮深い者と呼ばれました。
ですから、ここでいう思慮深いしもべとは、実は終末の預言を理解し、悟り、それを
人々に伝える者達をさすのかもしれません。


46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。”

主人とはもちろんキリストのことであり、これは再臨の日のことをさしています。
ですから、主の再臨の時、幸いなしもべとは、すなわち、終末の偽りの攻勢の中でも引かずに最後迄、みことばに忠実であり、ピーターワグナーを始めとする教理を改ざんしようと志す偽り者に同調しない忠実な人々、また終末のみことばを解きあかす思慮深いしもべのことなのです。

”47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

主の再臨の時は、道が曲げられ、真理が曲げられ、またみことばに忠実になろうとすると、迫害に会う日かもしれませんが、しかし、その中でも忠実なしもべは、その日、返ってきた主人、すなわち、来臨のキリストから栄誉を受けます。「主人の全財産を任せる」とは、父アブラハムの全財産を受け継いだ、一人子イサクに似た栄誉です。ですからこの様な忠実なしもべこそ、主人であるキリストから栄誉を受け、その財産をまかせられるもっとも光栄なしもべなのです。

”48 ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、”

さて、もう一種類のしもべが主人が帰る頃、すなわち、キリストが再臨されるその頃現れます。
これら2種類のしもべは対照的であり、かつお互いに影響を及ぼしあい、関係しあっていることが
想像されます。

この悪いしもべの一つの特徴は、”『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い”すなわち、
キリストの来臨はまだ先であると思っていることです。
何故彼はそう思ってしまうのか、思い込んでしまうのか?
それは、ことばたくみな「嘘の再臨話」を真に受けてしまい、誤った再臨観を持ち、
結果としてキリストの再臨を実際よりまだ先であると思い込んでしまうからと思われます。

そしてまさにピーターワグナーを始めとする偽り者達が提唱する再臨教理はまさにその様なものであることを知って下さい。
彼等は地をきよめ、反対者削除を完成しなければ、キリストの肉体を持った2度めの再臨はない、否、
キリストはそうしなければ、再臨することは「できない」のだ、などとトンでも教理を広げています。
こんなトンでも教理を真に受けた人々にあっては、キリストの再臨は「突然、予期しない時」となります。
 
 
 
 

”49 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、

さて、このことばです。その仲間とは、すなわち、しもべ仲間のことです。それでは、このしもべ仲間とは、具体的には、誰をさすのでしょう。
私はこれこそ、上記「忠実な思慮深いしもべ」のことではないかと思えるのです。

ですから、これら2種類のしもべは対照的であり、それぞれ影響しあっており、またもっとわかりやすくいえば、対立関係にあるのです。

この二者の関係は他のたとえでいえば、裁判官とやもめのたとえにおいては、「やもめをしいたげる者と
しいたげられ訴えるやもめ」の関係として表されます。

終末の日は、しもべ、すなわち、神のしもべ、キリストのしもべの立場にある人々が、
「仲間を打ちたたく」日なのです。

そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、これは今、明確な形で実現しつつあります。
第3の波系でいわれている教義「反キリスト的な人々を攻撃するヨエルの軍隊」などというクリスチャングループは、まさにこの様な人々、正しい、主につく、しかし、第3の波系の怪しい教理には膝を屈しない人々を迫害するためのグループであり、主につくしもべを打ちたたくために用いられています。第3の波系の終末の教義そのものが、その様な迫害、打ちたたきを助長しているものであり、彼等は
地が清められなければキリストの肉体を持った再臨はない、だから、
これらの反対者を削除、粛正しなければならない、などとのトンでも教理を押しすすめ、
愚かな、惑わされやすい追随者に、主のしもべを迫害させることを扇動しています。

「酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると」

ウイスキーやビールの酒に酔った人は、乱暴になり、人を攻撃したり、ケンカになったりしやすいものです。同じく霊の酒、怪しい霊の酒に酔った人々も乱暴な、迫害者になりがちです。

トロントの源流、 ロドニーハワードの聖会のちらしに「新しいぶどう酒の味わい」なんていうフレーズが書いてありました。すなわち、これらの怪しい霊の集会こそ、これらの酔っぱらいの
元凶、わざわいの元なのです。
こんな怪しい酒に酔った酔っ払い達が大挙して街へ押し掛けあちこちで破壊行為をくり返すのです。

酒乱ということばがあります。普段はおとなしい好人物であっても、一旦酒が入ると、
人格が一変し、家のものをこわしたり、家族に乱暴を働く人々のことです。

さて、終わりの日は怪しい霊の酒が行き渡り、酒乱クリスチャンが大挙して発生する日であることを覚えましょう。これらの酒に惑わされる人々を描写して、聖書は、かねてから、
「あなた方を殺す者が自分は神に仕えていると思う日」が来ることを預言しています。

彼等はリバイバルのかけ声とともに与えられる悪い酒に酔っており、結果として、酔っぱらいなので、正しい判断力も知性も、感覚もマヒしています。
まともではないのですが、本人は「いや大丈夫、俺はちっとも酔ってない」なんて、
自信を持っているのです。

「食べたりしていると」

食べるはパン、みことばと関係しています。ですから、酔っぱらいが食べる食物、
lこれらの怪しいリバイバルを正当化する教理が存在するのです。
それはそれなりに体系化されており、一見理路整然としているかの様にさえ見えます。

しかし、それは形だけに過ぎず、本当の狙いは惑わされやすいクリスチャンをして、扇動、洗脳し、
彼等が自分の手をもって罪を犯し、自らのしもべ仲間をうち叩かせるべく周到に用意されたものです。この偽りの食事を食べるものは、結果として主につく人々を迫害することになり、そして、その結果、
ここに書かれたしもべの様に、主人に「きびしく罰せられ」「そこで泣いてはぎしりする」様になります。

”50 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。”

何故、このしもべの主人は、「思いがけない日の思わぬ時間に帰って来」るのでしょうか?
この主人は誰に対してもというより、この悪いしもべにとって「思いがけない日の思わぬ時間に帰って来」るのだということを知って下さい。

この悪いしもべは、その様に教えられており、その様な教理、まだ主人は帰ってこないという教理を信じ込んでいるのです。しかし、実際はそうではなかった:そんなことが予想されます。

そんなわけで、この時代の悪いしもべにとっては彼を惑わす、主人がいつ帰って来るかということに関して、惑わす偽りの教理が与えられること、それが予想されるのです。

「御主人は明日の昼に帰ってきます」と嘘を教えられた人に、実際の主人が今日の夜、帰ってくれば、これは、「思いがけない日の思わぬ時間に帰って来」たことになります。

ですから、これらの酔っぱらい、第3の波系のリバイバルをすっかり受け入れている人々には、嘘情報、ガセネタ、
キリストの再臨に関する、まことしやかな「嘘」が与えられることを知りましょう。
その嘘とは、具体的には、「この地上が清められる迄はキリストの2度めの再臨はない」という嘘です。
清めるとは、使徒預言者に従わない反キリストな人々、すなわち、あの悪霊男、ベニーヒンや嘘つきピーターこと、偽預言者ピーターワグナーに従わない人々が削除、排除されることをいうのです。
こんな嘘を真に受けた、ペンテコステカリスマの悪い酒に酔った、愚かな酔っ払いどもは、
反対者削除に猛烈に取り組むのですが、驚くべきことには、また悲しむべきことには、彼等のこの
愚行のそのまさにまっただなかに思いもかけず、当のキリストが再臨する、そのことを語っているのです。
その結果、これらの扇動された愚かな聖書も神の力も知らない窓和された彼等は裁きに入ります。
 

”51 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”

これらの愚かな酔っ払いども、今、トロント、ペンサコーラの悪い酒をしこたま
飲み干している愚か者どもは、その日、厳しく罰せられます。そして、
彼等がしていた「主につく人々」への迫害は、キリストが命じたことでも、
聖書が命じたことでもないことをその日気付くのでしょう。

何故彼等はきづかなかったのか?
それは、彼等が「偽善者」だからです。偽善者は、正しいことを理解できないのです。

かつての日、白く塗られた墓であるとキリストに非難された律法学者や、パリサイ人は
何故イエスがキリストであることを理解しなかったのでしょう?
それは、彼等が偽善者であり、ただお面をつけているだけに過ぎず、真に正しいことをおこなっていなかったからです。その結果、彼等はキリストを理解できず、十字架につけ、自分達を裁きに定めました。後の日、
彼等は「あの男がキリストだったなんて」と泣き、はがみしたでしょう。

おなじく、終末の日の酔っぱらい、悪霊のリバイバルの酒に酔いしれている愚か者どもは、
これらの扇動された迫害の後、その日、主に裁かれ、「そこで泣いて歯ぎしりするのです」

主を恐れ、主により時代を見分けましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー