NO. 410 肉体を持たないキリストの再臨という異端教理

*第3の波ピーターワグナー等が提唱する「霊として再臨するキリスト」という教理は、かねてから
聖書の中で使徒ヨハネが警告していた終末の異端!

テキスト:”2ヨハネ:
7 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られた(KJV訳:that Jesus Christ is come in the flesh:キリストが肉体をもって来ること)ことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。
8 よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。
9 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
10 あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。    ”

本日は、「肉体を持たないキリストの再臨という異端教理」という題でメッセージしたいと思います。
終末の日の異端、反キリストの用いる異端教理は、「肉体を持たないキリストの再臨」に関することであ
る、そのことを見ていきたいと思うのです。
 

本日は、「肉体を持たないキリストの再臨という異端教理」という題でメッセージしたいと
思うのです。かつての日、使徒ヨハネは「肉体を持たないキリストの再臨」という異端教理に関して、その書簡の中で(第二ヨハネ)の中で警告しました。
それから、2000年もの時を経て、今の時、驚くなかれ、キリスト教会のどまんなかに、
ピーターワグナー等の第3の波系の怪しい面々が、「霊とした再臨するキリスト」すなわち、かつての日、ヨハネが警告したまさにその異端教理、「肉体をもって再臨するキリスト」を否定する教理を
掲げ出しました。
これこそ、まさに終末のしるしであり、終末の異端教理である、それを見ていきたいと思うのです。

テキストを見ていきます。

”7 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。”

ここでヨハネは反キリスト的な教え、惑わす教えについて書いています。
ですから、私達、終末に臨んでいる我々はこの名指しされている異端に関して
注意を払わなければならないことがわかります。

さて、この部分の聖書の訳(新改訳)に関してですが、欧米で名訳と定評のあるKJV訳とはだいぶ違います。新改訳は、「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者」との文であり、
まるで、キリストの初臨に関することの様な印象を受けますが、KJVでは異なります。
 

「イエスキリストが肉体をもって来ることを告白しない者」と書かれています。すなわち、
「再臨のキリストが肉体をもってこない」と主張する異端に関して語っているのです。
私もこの訳が妥当であると思います。何故なら、この箇所の(キリストが人として)「来る」という言葉の原語は、以下のキリストの再臨に関する箇所と全く同じ言葉、同じ動詞時制だからです。

”黙示録1:4ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に<来られる>方”
---------
<参考>
文法に関する記述:使用されているギリシャ語は、ercomenon 。単語の意味に関するストロングナンバーはNo.2064,
時制に関してのナンバーは、 No. 5740 Tense: present, Mood: particle

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さて、同じ原語、時制が一方で「後に来られる方」すなわち、キリストの再臨に関して使用されているなら、他方で、同じ原語、時制を過去のこととして訳すのは不自然であることがわかります。
その様なわけでこの箇所、2ヨハネ書の新改訳で、「イエス・キリストが人として来られたこと」とあたかも過去のキリストの初臨に関することであるかの様に訳されている箇所は、実は再臨のキリストに関して語っている、否、その可能性の方が高いことを覚えてください。

また「人として来られた」と訳すといかにも「人間として来る」ことが大事であるかの様に錯覚しますが、KJVでは明確にfleshすなわち、肉体について書いてあります。
また原語もその意味あいを語っています。ですから、この箇所は、再臨のキリスト、そして
そのキリストが「肉体を持って来ない」と主張する異端について語っていることを覚えてください。
残念なこと、しかし、いわなければならないことですが、私達の読む聖書は、
新しい版が出れば出る程、怪しいもの、微妙にすりかえた翻訳の入ったものになっています。
聖書の翻訳が怪しくなりつつあることを指摘する人々が欧米にはたくさんいるのだということ位は覚えておいてください。

さて、くり返す様ですが、この箇所は、この様に、人を惑わす者として、「肉体を持たないキリストの再臨」に関して語っているのです。

逆にいえばこの箇所は、異端をみわける目印、特徴について語っているのです。
初対面の人と待ち合わせる時、特徴を述べ、目印をいいます。「xx駅の改札口でセカンドバックを持って、黒いズボン、白いシャツの男、それが私です」なんていうわけです。この場合、このセカンドバックが目印になります。同じく、ヨハネは終末の日に起きてくる反キリストの働き、異端に関連して、
その目印を述べたのです。その目印とは、「肉体を持つキリストの再臨を否定する教理」なのです。

さて、この様に「目印」は明白になったので、今の我々がしなければならないことは、
この「目印」を持つ人物を探すことです。
この目印を持つ人々を「異端」と呼び、彼等を異端として区分しなければなりません。
さて、この目印を持つ人々はもう現れているのか?

たとえば、エホバの証人などは、「1914年以来、キリストは天で統治している」などといいます。
これを聞く限り、肉体を持ったキリストの来臨などあまりいっていない様に聞こえるのですが、どうなのでしょう。

さて、それはともかく、このことまさに聖書の語った「肉体を持たないキリストの再臨」を声高に語る人々がいます。それは、ピーターワグナーを始めとする第3の波系の人々です。
彼等題3の波系の人々のその教理は、かつての日、1940/50年代、アメリカペンテコステ派の間に起きた「後の雨運動」にそっくりです、というかその教えの焼き直しであると多くの人が欧米で指摘しています。
これらの人々、統治主義、神の顕現された子供、ヨエルの軍隊等の人々が語っているのは、以下のシナリオです。
*キリストの二度に渡る再臨のうち、最初の時は、「霊として来る」
*そしてその霊は地上の勝利者、すなわち、使徒、預言者に「受肉」する。
*その結果、これらの新しい使徒、預言者は、地上における「キリスト」の権威を帯びる。
*この使徒、預言者達に逆らう者は反キリストの霊にやられた者達であり、かれらは
地上から粛正、抹殺されなければならない。
*これらの粛正が完成し、地が清められた時、キリストの肉体を持った、二度目の再臨がある。

すなわち、彼等こそ、「霊として来るキリスト」という教理を推進する人々、すなわち、「キリストが肉体を持って来る」ことを否定する人々なのです。

人を惑わす者」

さて、この「霊として来るキリスト、肉体を持たないキリストの再臨」を提唱する人々は、
すなわち、人を惑わす者であるとヨハネは語っています。

ですから、ピーターワグナーを始めとする第3の波系の人々の提唱する教理は、「人を惑わす」教理であり、彼等は人を惑わす輩なのです。

このことは事実であり、彼等の語る教理こそ、人を惑わす教理です。
すなわち、彼等の教理の行き着く先、その目的は、「最後迄主につく人々、みことばに堅くつく
人々を惑わされたクリスチャンをして迫害、攻撃する」ことであり、
そのための周到なしかけ、巧妙な教理がそろっています。
すなわち、今盛んに用いられている「霊の戦い」はいずれ、反キリストの霊にやられた者と呼ばれる、
「使徒、預言者に聞き従わない者達」との戦いを語る様になるでしょう。
また、今盛んに売り出そうとしている、ベニーヒン、ラインハルトボンケなどの怪しい器は、
いずれ惑わされたクリスチャンの間で、「勝利者、神の使徒、預言者」としての名声を得る様になるでしょう。

これらのいくつかの働き、働き人は相まって後の日に主につく人々への迫害のために用いられていきます。

「大ぜい世に出て行ったからです」

ヨハネはこの怪しい教理、「肉体持たないで再臨するキリスト」について語る、人々が「多い」ことを語っています。これも現在の状況とぴったり符合します。

何故なら、ペンテコステカリスマ運動の中で、この怪しい教理は語られており、
この教えはアメリカのキリスト教会を席巻し、また日本へも影響を与えつつあるからです。
この「異端」教理を語る者は多いのです。
 
 
 

「こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」

ですから、この教え、ピーターワグナー達が提唱する教え、運動は、終末の聖霊のリバイバルをもたらすものでも、すばらしい神の大収穫をもたらすものでもなく、実際は多くのクリスチャンを惑わし、
結果として、悪霊のリバイバルに引き込む、また「数」至上主義をキリスト教会に持ち込み、
伝道、教会成長を旗印に教理やキリスト教会が伝統的にもっていた、教えをねじ曲げるものなのです。
彼らは確かに惑わすものなのです。

また彼等は「反キリスト」です。
反キリストとは何か?キリストとは具体的にいえば、英語でいうanointed,
油注がれた(者)のことです。すなわち、油、聖霊に関することばです。
ですから、反キリストという時、実は聖霊と反対の働き、すなわち、聖霊のリバイバルに見せて、
その実体は、悪霊のリバイバル、そんな意味あいもあるかと思います。
ビデオでも見る様に、第3の波系のロドニーハワード、ベニーヒン等は隠れて悪魔的な異言を紛れ込ませる悪魔的な人々です。この第3の波系の霊が実はキリストならぬ、反キリストのものであることは大いにあり得ることです。

”8 よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。 ”

この第3の波系の怪しい教理、またその影響は、あらゆるところに及んでおり、
セルチャーチ、弟子訓練、カソリックカリスマ運動など、のきなみその影響の下にあります。
また彼等はエキュメニカル運動をも推進しています。
「労苦の実をだいなしにする」ということを考えてみましょう。私達が丹精こめて、ぶどうを栽培していたとします。もうぶどうの甘い実もたわわになり、収穫を待つばかりだとします。
その時、「この肥料をかければ、もっと甘いぶどうができますよ」などとうまいことを言って近付く、
人のよさそうなピーターとかいう人物が突然やってきます。
そんな時、「是非お願いします」などといって、自分のぶどう園をその人物に一晩まかせる
人は愚か者です。次の日、行ったら、どのぶどうの木もすっかり荒らされ、ぶどうの実はどれも
盗まれてしまっている、そんな事態が起きるからです。

同じ意味あいで、「嘘つき狼少年」こと偽預言外れまくりの聖書認定済みの偽預言者
ピーターワグナーの教えを自分の教会に持ち込み、信者に受け入れさせている
牧師、教師こそ、このぶどう園の主人にまさるとっておきの愚か牧師、失敗牧師なのです。そう、
彼等こそ、ここで書かれている、「労苦の実をだいなしにする」愚か者です。


9 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。 ”

ここでは、「行き過ぎ」をすること、そして「キリストの教えのうちにとどまらない」ことが書かれています。
ですから、ここでは、「行き過ぎた教え」について書かれているのです。
いかにも聖書的であるかの様、熱心であるかの様、すばらしい祝福とリバイバル待望の教えの様に見え、
また伝道を大きく推進するかの様な教えでも実は「行き過ぎた教え」であり、実際はキリストの教えの範囲を大きく逸脱しているという可能性はありえるのです。

そしてそれはまさしく第3の波系の面々が声高に主張していることと符合しています。
すなわち、彼等の教えはあるべきところを超えている、もう一線も二線も超えてしまった教えなのです。

彼等は聖書に書かれた「5職」を復活することを語ります。それはそれで聖書的かもしれません。
しかし、彼等の教えはそれに留まりません。
彼等はこの5職、特に使徒、預言者は地上における「キリスト」そのものであり、彼等、使徒、預言者に聞き従わない者はすなわち、キリストに逆らう反キリストであるなどとまで言い放つのです。
確かに彼等は、もうすでに「キリストの教え」の外にあり、だいぶ遠く迄行ってしまっています。
彼等こそ、行き過ぎた者、もうすでにキリストの教えにはとどまっていない者達なのです。

さて、キリストの教えにとどまらない者に関して、「キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。」と書かれています。このことばは重大です。
彼等、行き過ぎた人々、「反キリストを攻撃する」「地上を粛正し、浄める」などと
物騒なことまで、言い出す彼等、第3の波系の人々に関して聖書は、「神を持っていない」と語るのです。
彼等が神を持っていないのなら、彼等は何を藻っているのか?彼等を導いている霊は何か?
答えは明確であり、彼等こそ、反キリストに従う者達であり、地上において反キリストの意志を成し遂げ、
主につく人々を迫害する日、艱難時代を到来させる為に狂奔する人々なのです。

「その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。 」
 

さて、彼等行き過ぎた人びとと異なり、「キリストの教えに最後迄留まる人」は「御父をも御子をも持って」いることが書かれています。ですから、とどまること、流されないこと、うかつに乗せられて変な教えを受け入れてはならないことがわかります。

このこと、とどまることは今の時代において特に大事なことです。
何故なら、彼等第3の波系の反キリスト的な人々がしきりに主張することは、パラダイムシフト(軸をシフトする)だの、ポストモダン教会の形成だの、要するに今迄の教会、伝統的な教会教理や、
教えにとどまっていてはいけないとの扇動だからです。
これにホイホイ乗せられていく愚かな人々もペンテコステカリスマ系を始めとして多くある様ですが、
しかし、この動きを見越したかの様に、聖書は留まることについて語り、「その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。 」と語っていることを忘れてはいけません。

キリスト教会の流行に乗り、一歩他に先んじようとの考えはよさそうですが、しかし、「御父をも御子をも」捨て去るのに値することなのかどうかはよく考えるべきです。

聖書がこの様に書いていある以上、このことは実現します。すなわち、ほいほいと乗せられて、すっかり流行のパラダイムシフトとやらを取り入れた結果、「御父をも御子をも」追い出した教会、
代わりに亜霊のリバイバルがばっこする教会になる、その可能性があるのです。

”10 あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。”

「この教えを持って来ない者」とはすなわち、今迄の伝統的な聖書理解、教会の教理を捨て、
第3の波系の怪しい教理を受け入れる人と理解することができます。

これらの人に我々はどう対応すべきなのか?
聖書は、「家に受け入れてはいけません」と書きます。
家を教会のたとえととるなら、この教えを教会に受け入れるべきではないのです。
この第3の波系の教えを語る人々を講師に招いて、聖会や集会など持つべきではないのです。
それどころか、「その人にあいさつのことばをかけてもいけません。」すなわち、
親しく交わるべきでさえないのです。
 

”11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。    ”

この様な第3の波系の人々とあいさつし、交わる時、「その悪い行ないをともにすることに」なるからです。ちょっと厳しい様ですが、これは私ではなく、聖書が語っていることなのです。

さてまとめますが、聖書の中で、ヨハネは2000年も前から、「肉体を持って来るキリスト」を否定する
異端について警告していました。長い教会時代の間、それらしい異端は、あまり現れていなかったのですが、この時代、
終末の時代、全世界的な規模で、「霊として来臨するキリスト:肉体をもって来臨するキリストを否定する」教えが第3の波系の教会、働き人を通してもたらされました。

かねてから警告されてきたことが、今起きつつあるのです。警戒をし、警告をすべき時が
到来したのではないでしょうか。このこと、この教えに関して警告を発する人々は幸いです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー