NO,409 裁き主として来られる主


”テキスト:ルカ18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」
6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」”

本日は「裁き主として来られる主」として、主の再臨に関して学んでいきたいと思います。

私達の主がわざわざ天から来臨するその理由は、その日主につく民に対して、地上においては、
どこからも助けがないからです。

同じ意味あいで、主のその再臨のもう一つの面は、正しい正義の裁き主、裁判官として、
来られることを聖書は語っています。それは、何故か?それは、その日、地上には正義は
なくなり、誰も「獣」主導の横暴や、偽りに意をとなえることができない、そんな日が来るからです。
そのことを見ていきたいと思います。
順にテキストを見ます。

”1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。”

この箇所は、不正な裁判官に関するたとえです。不正な裁判官を通して何が語られているのかを見ることは、大事です。
同じ章の8節に「人の子が来るとき」すなわち、主の再臨に関して語られている様に、この箇所が
たとえているのは、主の再臨のことすなわち、裁き主、真の裁判官として来られる方についてのことです。

「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことについてここで主は語られます。
何故そういわれたのか?
それは、人の子の来るとき、すなわち、主の再臨される時は、全ての主につくクリスチャンにとって、
絶望や、あきらめ、不信仰、無力感がおそいつつある日だからです。

獣の国主導のエキュメニカル運動や、獣のリバイバルにすっかり浮かれたエサウの様な俗悪な
クリスチャン達がその日、最後迄、主とそのことばにつく人々を非難するのでしょう。
その非難は全世界に及び、彼等をカルトであると非難する声は満ちるでしょう。
しかし、その日をあらかじめ知っていたかの様に主は「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」
ことを語ります。何故なら、その苦難の日は預言された様に来るでしょうが、しかし、
それは、無限に続くわけではなく(3年半)後には裁き主が来られるからです。
 

”2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。”

ここに裁判官について書いてあります。裁判官とは、争いを裁き、悪を行うものには、罰を判決し、
また真に正しい者を正しいと認める役割を持っています。
それでここは、終末の日、正しい裁きをなすべく来臨するイエスに関するたとえなのです。
 

”3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。”

ここで「やもめ」が裁判官に訴えを語っています。
やもめとは、夫がいない妻のことです。これは、地上の何をも自分の夫とは、せず、ただ、来るべき方、天におられる方を自分の夫であるとの態度をつらぬくクリスチャンのたとえです。
逆にあの獣法皇に聞き従い、イエスのことばを投げ捨てている人々は、この地上にキリスト以外の別の夫を持つ教会であり、決してやもめではありません。
またバアル崇拝よろしく、金粉の器に聞き従う人々も同じ様にやもめではありません。
やもめの反対語は、黙示録に記された淫婦バビロンです。彼女は、裁かれるべき世につく教会であり、「私はやもめではないから」と自ら語ります。

”『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。”

このやもめは、ある人々から攻撃を受けており、助けが必要でした。だから、相手を裁くこと、
また自分が守られることを願っているのです。
これは何をあらわすのか?
これこそ、艱難の日の中にいる、やもめ、主につく人々の姿なのです。
その日、曲がり切った教会の中で、主につく人々は困難、迫害を受ける様になります。
全世界において、彼等はカルトであるとのうわさが広がるのです。

”彼のところにやって来ては”

このやもめは、どこにも自分を助ける人がいない、しかし、あの裁判官なら、正しく裁き、自分を守ってくれると信じていたのです。この裁判官は我らの裁き主、主イエスのたとえです。
ですから、その日、主につく教会は地上の誰をもあてにすることも頼ることもできず、ただ、天の主のみを助けとし、頼りとする様になるのです。

”4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」”

彼、すなわち、裁判官がしばらくとりあわないでいる、ことが書かれています。
ですから、艱難の中にある、主につく人々の祈りがすぐ答えられ、すぐ天から真の裁き主が
来るわけではないのです。ですから、少しタイムラグがあるのです。
それが、3年半とか7年とかいわれる艱難時代が続く理由です。
 

しかし、そうであってもこの女のしつこい願いに負け、
裁判官は、「うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。」といいます。ですから、艱難時代がしばらく続くのは確かですが、それが永遠に続く、また主につく民を迫害する
者の勢力が永遠に勝利するわけではなく、それは、ほんのしばらく、「真の裁判官、生ける者と死ねる者を裁くために天から裁き主が来られる」時までのことです。

しかし、この天から主が来られるという異常な、通常あり得ないことが起きるのは何故か?
それは、しつこいやもめの祈り、主につく人々の熱い祈りの結果なのです。
ですから、もし我々が艱難時代を経過するようになるなら、一つ覚えておくべきことは、
このため、真の裁き主が来られることを祈ること、このことです。

”6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。”

「 まして神は」と書かれています。ですからこの「不正な裁判官」とはたとえに過ぎず、
真に聖書が描いていることは、神は裁きをすみやかにする、艱難時代の中で、困難に会う主につく
民への助けは速やかに行われ、迫害者は速やかにさばかれる、そのことなのです。

「夜昼神を呼び求めている選民」とは、もちろん、艱難時代の中で、神にのみ助けを求める、
主により選ばれた人々のことです。

”8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」”

「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」とのことばの通り、
これらの地つく迫害者への裁きは速やかに行われることを知りましょう。

「しかし、人の子が来たとき」と書かれています。
ですから、この裁きは主の再臨の時の裁きをさしていることがわかります。

「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

この様に書かれ、明確に主は裁き主として天から来られることを語っているのですが、
その日、主が来られるときまで、信仰を持ち、主の来臨を待ち望む人は少ないのかもしれません。

しかし、私達はこの方を待ち望みましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー