NO.408 天からの救い


”テキスト:ヘブル9:
28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。”
 

本日は、「天からの救い」という題でメッセージしたいと思います。
終末におけるハイライトは何といっても私達の主であるイエスキリストが再臨されることです。
ところでというか、それでは、何のためにキリストは再臨されるのか、それを本日は考えてみたいと思うのです。

上記テキストに明確にその目的が描かれています。
それは、「人々の救いのために来られるのです」。
聖書はこの様にキリストの再臨の目的を明言しているので、決して意図して嘘をつく偽りものどもの、
たわごとにだまされてはいけません。

彼等の嘘にころっとだまされ、全然惑わされている人々が多いのです。
サイレンが鳴り、消防自動車が走っていきます。何故でしょう。それは火事があるからです。
また、はしご車が走っていきます。何故でしょう?何が想像され、予期されるでしょう?
予期できることは、火事が起きていること、そして、どこか高いビルで火にまかれて助けを求めている
人がいるかもしれないということです。

この様に想像することは真っ当な想像であり、妥当です。
同じくそれでは、何故主イエスが天からわざわざ下って来られるのでしょう?
それは、助けを求める人がおり、そして、主イエス以外、どこにも助けがない、四方八方、敵に囲まれ、
「かつてなく今後もない様な艱難」の中にいる人がいるからなのです。
それをさして聖書は「二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」と語るのです。

ですから、この視点に立つなら、あのほら話、艱難の前に教会は挙げられるから艱難には会わないなどという荒唐無稽のほら話、艱難前、艱難中携挙などという嘘話は聖書の主張と全く異なる、
空想話であることがわかります。

何故なら、我々が艱難の前に挙げられているなら、キリストが来られる理由はないからです。
火事が起きてないなら、消防車が来ることの意味はないし、「ピポピポとサイレン慣らしてうるさいな」とうるさがられるのが落ちだからです。教会もクリスチャンも天に挙げられ、何の艱難にも会わないなら、キリスト様が勇躍降りて来られても、あまり意味がない、出番がない、ということになります。
しかし、これらのほら話、空想話はともかく、事実は我々は終末の日に大きな艱難のまっただなかに
入り、私達の主はその日、天から下り、この世にあって最後迄忠実なしもべを救い出すことにより、「感嘆のまと」となられるでしょう。

2回に渡るキリストの再臨(艱難前、艱難中説)とは、意図的に教会に入り込んだ、JNダービー
等の偽りものが持ち込んだものであり、「キリストのための苦難などまっぴらである」という腰抜けや、
裏切り者に人気のある終末のほら話です。キリストにあるまっとうな大人が真面目に信じるべきものではありません。
 
 
 

テキストを見ます。

”28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。”

ここでは、主の来臨の目的に関して書かれています。
すなわち、
一度目は:罪の救いのため
二度目は:待ち望む人を救うため

そう書いてあるのです。かつて、2000年前、主は人となってこの地上に来られました。何故か?
それは、多くの人が否、私も、罪の中に悩んでおり、それから救われる道を求めていたのです。
そしてその理由のため、主は、来られ「多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられ」たのです。このことは事実か?全くの事実です。

主が来られたことは、タイムリーであり、そのおかげで、私達は救いの道を見い出したのです。
主が最初に来られたことは、まったく重要、大変重要なことであり、他の人では、肩代わりできない
ことを主御自身がなしとげられたのです。

さてそれでは質問です?主は2度目に何をしに来られるのでしょう?
それは、終末の日、主のことばに最後迄忠実であるがために、この世において、また世界の獣化した
キリスト教会において、どこにも行きどころのない人々、異端よばわりされ、艱難の中にいる人々、天にしか救いのない、イエスを待ち望み、
「彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」

再臨に関してテサロニケ書にはこう書かれています。

”1テサロニケ1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。”

ここでも主が天から来られるのは「私たちを救い出してくださる」ためであることがわかります。
救いだされる以上、その日主につく人々は困難の中にいるはずであることを知りましょう。
救助隊がうき輪やボートとともにやって来るのは溺れて今にも死にそうな人がいるからです。
同じ様にその日、主は余裕のある人々を訪問に来るわけではなく、キリストによらなければ救われ得ない人々を救うために来られるのです。
その日、主は「感嘆のまと」となるでしょう。

また、「天」から来られることが書かれています。初降臨の時には、「天」から来ることは強調されていませんが、しかし、再臨に関しては強調されています。何故でしょう?
「天」の反対語は、「地」です。ですから、その日、主は「天」から来られると聖書が強調する時、
暗示していることは、その日、主につく人々は、この地上において、何一つ頼れるものがない、
その様な状態に陥ることと思われます。

そんな日が本当に来るのか?そんなことがあり得るのか?
私は全くあり得ると思います。というより、現在の社会、世界、教会の現状を冷静に理解できる目を持つ人は、
確かに世界がその日に向かって急速に進んでいることを理解できるでしょう。

世界の教会は急速にエキュメニカルすなわち、異端の教会、カソリックとの統合につき進んでおり、
それに同調しない「頑固な聖書主義者の削除、排除」が話題にのぼっています。
そう、主につく人々、聖書のことばに忠実であろうとする人々が非難される日は決して遠い先ではないのです。

しかし、主に最後迄、忠実な者にみこころがあることを知りましょう。
 

ー以上ー -----------------------------7d51672e360064 Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="" Content-Type: application/octet-stream