NO. 404ヤンネとヤンプレ


”テキスト:2テモテ3:
8 また、こういう人々は、ちょうどヤンネ(騒ぐ)とヤンブレ(泡の癒し手)がモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。
9 でも、彼らはもうこれ以上に進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりのばあいのように、すべての人にはっきりわかるからです。”

本日は「ヤンネとヤンプレ」という題でメッセージしたいと思います。
聖書は、モーセに逆らった人物、ヤンネとヤンブレについて語ります。
この二人に関して、主が語られたことを見ていきたいと思います。

さて、上記モーセに逆らったというヤンネとヤンブレとはどの様な人物なのでしょう。
該当の箇所は、出エジプト記にある以下の記事です:

”出エジ7:8 また主はモーセとアロンに仰せられた。
9 「パロがあなたがたに、『おまえたちの不思議を行なえ。』と言うとき、あなたはアロンに、『その杖を取って、パロの前に投げよ。』と言わなければならない。それは蛇になる。」
10 モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。
11 そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。
12 彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。”

この箇所を読み少し意外なことがあります。
テモテの箇所には、「彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。」と書かれているので、
これらの2人は何か信仰に関連した人々なのかと思えるのですが、
実際に出エジプトに書かれているのは、ただ蛇合戦の様子が書かれているだけなのです。l
それでこのことがわかります。
すなわち、出エジプトで描かれている蛇合戦の本当の意味あい、たとえていることがらは、
実は「信仰」にかかわることだということです。
その様に思えるのです。

以前のメッセージで私達は出エジプト記に書かれている杖合戦、蛇合戦とは、
終末における教師どおしの戦い、教理合戦、啓示合戦ではないかということを見ました。
それで、このヤンネとヤンブレの箇所が意味していることは、この終末に起きようとする蛇合戦のさらなる説明です。

テキストを順に見ましょう。

”8 また、こういう人々は、ちょうどヤンネ(騒ぐ)とヤンブレ(泡の癒し手)がモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。”

この二人、モーセ、アロンに対抗して蛇合戦を挑んできた二人の名前は、象徴的です。
すなわち「ヤンネ(騒ぐ)」であり、失礼ながら、あの騒々しい集会、ペンテコステ、カリスマの聖会を想像してしまう名前です。

もちろん、ペンテコステ、カリスマの聖会の全てが悪いわけではないでしょう。
しかし、あの悪霊を下す男、デーモンおじさんこと、ベニーヒン等の集会は、
この蛇男、エジプトの魔術師の名前と同じ、「ヤンネ(騒ぐ)」そのものです。

さらにもう一人の魔術師の名前「ヤンブレ(泡の癒し手)」も非常に暗示的です。
ベニーヒン等の聖会で確かに癒しらしいものが起きる様ですが、しかし、
ビデオの中で、彼、ベニーヒンに癒された女性が「 サンキューサタン」(悪魔よありがとう)と語っている様にこれらの器のいやしも結局は泡の様なもの、すばらしいいやしが与えられたと思ったら、実際は悪霊を受けてしまうという類いのものなのでしょう。

”モーセに逆らったように、真理に逆らう”

さて、ピーターワグナーを始めとする「第3の波」系の人々が、しきりにとなえている「新しい教理」は実は、聖書の真理とぶつかるもの、またみことばとぶつかるのものであることを知って下さい。
モーセは律法を象徴する人物であり、「モーセに逆らう」とは、実は聖書のみことばに逆らうという意味あいがあるのです。
彼等は聖書の再臨に関するみことばをおそれげもなく、変えて
「キリストの2段階の再臨のうち、最初の再臨は見えない霊として来る。
その霊を受肉した使徒、預言者達はキリストの権威を帯びる」などという、
トンでも教理を掲げます。見えない霊のキリストなんて、
来たか来ないか誰もわからない、確認のしようがないことです。
しかし、その見えない、確認できないことを根拠に自分達こそ、
そのキリストの霊が受肉した使徒、預言者だと、売り出そうとしているわけです。
まことに、「モーセに逆らったように、真理に逆らう」とのことばはピッタリ彼等にあてはまります。

”彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。”

彼等の主張するヨエルの軍隊、トランスフーメーション(変革)、マニフェストサン(神の子の顕現)等の教義は、どれもこれも
まともではない「知性のくさった」教えです。また「マタイ24章に描かれたキリストの語った終末に起きるとされるできごとは皆もう終わったことである」なんて確かに「知性のくさった阿呆たれ」の様な
教理を展開するユダヤの「再建主義者」などはこのことばどおりの人々です。
これらの一連の「強引な連中」は示し合わせた様に同じ様な教理を語っていることに注目しなければなりません。

すなわち:
*今はもう黙示録に記されている「千年王国の後」の時代である。(千年王国はもう終了した)
*これから、教会はすばらしい勝利を得る時代に入る。携挙などとの古い悲観的な信仰を
強調する者は新しい啓示を理解しない時代遅れのクリスチャンである。
*聖書に記されている艱難時代とは、実は「クリスチャンが迫害される時代ではなく」
「古い伝統的な聖書解釈に立つ頑固な聖書主義者、キリストの敵」と戦い、これを撃滅する時である。
これらの「バイバルカルトども」は排除され、消滅されねばならない。

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これらのタワごとを語る愚かな「新しい啓示を受けたクリスチャン」をさして聖書は実は
「彼らは知性の腐った、信仰の失格者」と呼んでいるのです。おめおめとこんな連中にだまされてはいけません。
 

”信仰の失格者です”

このことばの意味あいを考えてみましょう。
聖書はヘブル書の中で信仰に関して以下の様に定義しています。

”ヘブル11:1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。”

信仰に関連して「目に見えない」ことが強調されていることがわかります。
「見えないけれど信じる」それが、信仰の基本なのです。
しかるに現在現れつつある怪しい蛇使い達、変な杖、すなわち怪しい教師、使徒、預言者の
していることは、「目に見える奇跡、いやし、現象」を強調しています。
そして、それらの「目に見える金粉、金歯の奇跡」にすっかり傾倒している
クリスチャンに対して「怪しいみことばのすり替え、教理の変質」が行われているのです。

ですから、こんな目に見えるものに惑わされ、聖書も健全な教理もみんな投げ捨てて、おっかけに狂奔している愚か者達をさして、2000年も前から聖書は、「彼らは知性の腐った、信仰の失格者です」
と語っていることを知りましょう。このことは前もって聖書の中で預言され、そして
悲しいかな今、我々の前で成就しています。

”9 でも、彼らはもうこれ以上に進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりのばあいのように、すべての人にはっきりわかるからです。”

「もうこれ以上に進むことはできません。」とのことばの「進む」とは、以下のことばと同じです。
 

”ルカ2:52 イエスはますます知恵が「進み」、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。”

ですから、このことばは信仰や神の知恵に進むことをさしているのです。
これらの「目に見える奇跡」に傾倒し、狂奔する愚かな人々は、「もうこれ以上の信仰の進歩はない」と聖書は語っているのです。

”彼らの愚かさは、あのふたりのばあいのように、すべての人にはっきりわかるからです。”

これらの自称使徒、預言者をあがめ、狂奔し、聖書も伝統的な教理も投げ捨てて、盲目になっている人々の愚かさは、「すべての人にはっきりわかる」様になります。いいえ、これらの変な霊に惑わされている人々の愚かなふるまいに関してはもう既に多くの人々が見ており、証ししています。
そして、これからもさらにはっきりするでしょう。

まとめますが、この箇所は、出エジプトの日にモーセに逆らった二人の魔術師、蛇使いについて
その愚かな信仰について語ったものです。これらの二人が愚かな信仰の失格者であった様に
終末の日、魔術者ピーターワグナー、ベニーヒン等の蛇の教理や、しるしに惑わされる人々は、
「信仰の失格者」となることを知りましょう。

かつての魔術者、蛇使いの特徴は、モーセに逆らったことであり、終末の魔術者の特徴も
モーセで表される律法、すなわち、聖書のことばに公然と反対する怪しい教理であることをしりましょう。

これらの怪しい教理、聖霊の第3の波で語られている教理はかつて、1950年代、
アメリカで「後の雨」運動で語られていたことのそっくりそのままの再現であり、それらは、
かつて「異端教理」として教会から排除されました。

我々は今、再度繰りかえされるこれらの異端教理に従うべきではありません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー