NO. 403 結婚式のたとえ

”テキスト:マタイ22:1 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。
2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。
7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
11 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」”
 

本日は「結婚式のたとえ」としてマタイ22章の結婚式のたとえを見ていきたいと思います。
このたとえは、その前のぶどう園のたとえの次の章に書かれています。
ですから、これらは関連があるのです。というより、この結婚式の箇所は、ぶどう園のたとえと同じことがらを語っているのです。ぶどう園のたとえは、ぶどう園を主人にまかされた農夫達があろうことか、収穫の日には、
心変わりしてしまい、その日には、主人から、遣わされたしもべや主人の息子さえ殺してしまう、
恐ろしい不心得者に変わってしまう、そのことを書いています。
収穫は、この世の終わりであり、世の終わり頃、教会の長、働き人が変質してしまう、
そのことを語っているのです。

結婚式のたとえも基本的に同じ様なことを語っています。
誰もが待ち望む結婚式、その結婚式に招待されることは、光栄であり、大変重い名誉なのです。
その結婚式とは、他でもない、キリストと教会の結婚式、小羊の婚姻の時なのですが、
あろうことか、その日、神により招待されていた客、教会の面々は、その神からの
結婚式への招待を軽んじ、無視し、出席拒否し、結果として裁かれるそのことを語っているのです。
このたとえも終末の日の教会の変質について語っています。

このことを見ていきましょう。
順に見ます。
 

”1 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。
2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。”
 

結婚式は世の終わりに一度だけ行われる「小羊の婚姻の時」のたとえです。

”3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。”

神はその日が来たことを告げ知らせようとしもべを遣わしますが、終末の教会は、そのしもべの
ことばを軽視し、馬鹿にし、そして、無視します。それは彼等があまりにも真理から懸け離れた所にいるため、真理を理解できなくなってしまったからです。

”4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。”

さらにたくさんの神のしもべが遣わされましたが、何とあろうことか、この招待された人々は、
この神からの呼びかけを無視するのみか、そのしもべをつかまえ、恥をかかせ、その上、
殺してしまったというのです!
王からわざわざ結婚式への招待状をもらった程ですから、そもそもこの招待された人々と王との
関係は、当初は良いものだったはずです。しかし、残念なことにいざ結婚式が始まるその時までに、
その良好な関係は変質し、招待された人々は、別の種類の人々となり、何と王からの使いを
殺す程の悪人になってしまったのです。

このことは、確かに主イエスの時に起き、変質してしまった神の民、ユダヤ人は、神のしもべ、預言者を
殺し、最後には神の子、イエスをも殺したのです。彼等は確かに神の民から変質し、「獣」の様になってしまいました。

さて、同じく終末の日に新約の神の民も変質し、その終末の日には、もうその目も正しいものではなくなり、見分けもなくなり、結果として、「神から遣わされたしもべ」を異端、カルトと名指しで、辱め、あげくには、カルトへの裁判に同調し、殺すようになる、そのことを預言しているように思えます。

”5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、”

この箇所にもたとえが使われています。
「畑」は麦、すなわち、みことばを食べて育つクリスチャンがいるところとしての教会のたとえでしょう。ということは、王の誘いを断わり、畑に行く人々とは、教会で働く働き人、すなわち、牧師、伝道者をさすことになります(!!)

「別の者は商売に出ていき」ということですが、ここにもたとえがあります。
商売とは、売ったり、買ったりということであり、すなわち、購い(買うの意味)と関係しています。
ですから、これは、購いとか救いのこと、もっとわかりやすくいうなら、伝道に従事することをたとえているのです。

牧会がいけない?伝道がいけないのか?このことのどこが悪いのだ。と思う人もいるかもしれませんが、はやとちりせず、よく聞いて下さい。
牧会や、伝道自体が悪いわけではありません。ここでも「畑に行くこと」また、「商売すること」それ自体が悪いと書かれているわけではないからです。

しかし、問題はあくまで、彼等が王の心を解さず、また王から遣わされたしもべをそれと判断せず、逆に
全く盲目となり、王のしもべの声を意味のないものとして、無視し、またあろうことか彼等を辱め、そして殺してしまったということが問題なのです。
問題は、彼等の判断力、聖書的にいうなら、「見ること、聞くこと」にあるのです。

そんなわけで、これからの時代は牧会していれば良い、伝道していれば良いという時代ではないことがわかります。

時を見分け、神のみこころを見分け、神からのしもべを正しく悟る目を与えられることが
大事な時代なのです。

そうです、明らかに聖書は、牧会しながら、そして、伝道しながら、しかし、その日、神の
僕をみわけられないクリスチャンがいることを預言しています。

このことは、主イエスの時代において起きています。彼等祭司長達の罪は宗教儀式を熱心にしていないということではありません。彼等は彼等なりに熱心に神に仕えていたつもりなのです。
しかし、彼等は人前ではともかく、神の前においては、白く塗られた墓の様なものであり、
正しいものではありませんでした。それゆえ、神からのしもべを見分ける目を持ち得ませんでした。

”7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。”

この兵隊、焼き払うということばもたとえと思われます。
この兵隊、軍隊は、黙示録9章で、いなごの軍として描かれています。
そして、この軍は、宗教的な軍として、すでに存在しています。アメリカ ペンテコステ系の教会でいわれるヨエルの軍隊がそれです。彼等は悪霊的な火を燃やし、クリスチャンを霊で焼き尽くします。

”8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。”

さて、この様にして、招待された人々は、結果として、祝福の婚姻に招かれませんでした。
このことは、何度も何度もくり返しますが、終末の教会に対する警告であり、
この逆転は必ず起きるでしょう。否、すでに起きつつあります。
神を恐れましょう。

ここでいわれていることは、招かれる民の逆転です。ここでいわれていること、強調されていることは、
*当初婚姻に招かれていた客は王からの怒りを買い
*その替わりに当初は予定に入っていなかった人々が客となる
このことです。これは、前のぶどう園のたとえでもいわれていることです。

ですから、ですから、どうぞ覚えてください。聖書はくり返し、くり返し
ことばを変え、たとえを変えて、説明を尽くして終末における逆転現象について語っているのです。
このことを真剣にとらえ、恐れをもって備えていきましょう。

”11 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」”

この礼服とは何をさすのかはっきりしません。ただ、今私にわかるのは、この礼服に相当する
ことばは、変貌山で白く変わった主の衣に関して使われたと同じ原語が使われていることです。
主の衣が義をさすとするなら、この追い出された客は「義の衣」を来ていなかった、それが問題だということがわかります。

主にある義を全うすることが求められています。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー

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