NO.402 ぶどうの園たとえ(2)

”テキスト:マタイ21:
33 もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
34さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。
35すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。
36そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。
37しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。
38すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
39そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。
40このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
41彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」
42イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
43だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
44また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」
45祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。
46それでイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。”

本日はぶどう園のたとえ(2)としてこのテーマをさらに
見ていきたいと思います。

順に見ます。

”33 もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。”

さてここでもう一つのたとえとしてもう一つ同じぶどう園に関するたとえが語られます。
今回の節は前回のメッセージの聖書箇所のすぐ後に続いています。それで、わかることは、
これらの2つの話は関連があるということです。別のいいかたをすると、
前のたとえをさらに詳しく説明するものが今回のたとえなのかもしれません。

ここでいうぶどう園を作った主人は、神御自身のことでしょう。
農夫とは、イエスの時代に関連していうなら、祭司長、律法学者の様な宗教の専門家のことです。
さらにこれを2重のたとえと考え、終末にあてはめるなら、
ぶどう園は教会のこと、農夫はそこで働く人、すなわち、聖書学者や、牧師、教師ということになります。

「垣を巡らし」

教会の一つの大きな特徴、そして大事な特徴は、垣が巡らされていること、すなわち、
悪い者が入ってこない様に、垣根があること、この世や罪と分離していることです。
これは神が教会のために備えてくれた大事な境界なのですが、終末の日の教会において、
この垣根に破れができ、罪がはいりこんできます。

「その中に酒ぶねを掘り」

酒ふねには当然酒があります。これは聖霊のたとえであり、この酒により、教会は大いに強められたのです。
 

「やぐらを建て」

やぐらは敵を見張るためでしょうか。しかし、終末の日にこの見張りも目が悪くなって見過ごす様になります。

「旅にでかけた」

教会に関連していうなら、これは明らかに
旅に出かけ、再度戻って来る、再臨するキリストのことをさします。

”34 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。”

「収穫の時が近づいたので」と書いてあります。それでこれは、収穫、すなわち、終末の大収穫の前の日の教会に関する預言であることがわかります。
この時、終末の日はそれ以前の教会時代と根本的に全く異なった時代です。
真理が曲げられ、真の礼拝者が教会から追い出される、背教の日なのです。それで、
このたとえを教会の常識、教会時代の常識に沿って解こうと試みてはいけません。
むしろ、終末という大変特殊な教会におけるできごとととらえて見ていくべきです。

”35すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。”

さて、その終末の日、特殊な時代に教会に起きることはどの様なことでしょう。
それは、何と彼等農夫達、教会の働き人達は、あろうことか、神から遣わされたそのしもべを
つかまえ、袋だたき、殺し、石で打ったというのです。

神の民である教会の人々が神から遣わされた人々をつかまえたり、袋だたきにする?
そんなことがあり得るかと思う人もいるでしょうが、終末の日の教会、変質してしまった教会では

あり得るかもしれません。かつての日、旧約の神の民の間で起きたこともここに書かれている様に神のしもべが神の民により、つかまえられ、殺されることでした。
イザヤ、エレミヤ、エゼキエル等、神のしもべは皆迫害されたのです。
終末の日の教会においては、正しい教会、クリスチャンが迫害され、異端や冒涜の限りを尽くす教会が逆に正統的だと受け入れられる様になるでしょう。

このことは、既に海外で起きてきており、欧米のサイトを見ると「教会のカルト化」などともっともらしい、難くせをつけるユダヤの匂いのする人々が主につく教会をカルト扱いしはじめております。
教理的には全く問題がない、熱心に主につく教会をカルトあつかいするため、そのレッテルを張るため、
ユダヤ主導のカルトハンター達は、「教会のカルト化チェックリスト」などと、わざとらしいチェック
表まで作っています。
「牧師の権威が強すぎる」などと、どこの教会にもあること、また、聖書の教理には全くのっとっていないチェック項目をもとに偉そうにこれらのカルトハンターは、あちこちの主につく教会にカルトのレッテルを貼っています。

外聞では、ユダヤのにおいのする米国カルトハンターグループにより、
アメリカにおいて2000程もの教団、教会がカルトのレッテルを貼られたそうです。
その中には、教理的に何の問題もない、むしろ模範的な教会も多い様です。

しかし、この様なみえみえのユダヤ主導の「たくらみ」に関しても愚かで、
真に主を知らない、この世についた教会は疑うことなく、それらの教会へ勝手につけられたレッテルを受け入れていくのでしょう。

この様にして起きる、この世についた教会による、主につく教会への迫害、異端のレッテル貼り、
これをさして、聖書は、「農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。」
といっていることを知りましょう。

願わくばこの様な意図的な「カルトハンター」の企みが日本に入ってくることのないことを、またそれにのせられる愚かな教会、クリスチャンが日本に起きることのないことを祈ります。
 
 

”36そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。”

くり返していいますが、これはこれからのまたは今の時代に関することです。その時、教会に起きることは、あろうことか、神から遣わされたしもべが、同じ様にひどい扱いを受ける、そう聖書は預言しているのです。

それで、その時代をこれから迎える否迎えつつある我々が気をつけなければならないことは何でしょうか?それは、主のしもべを主のしもべと迎えるということです。決して主のしもべを追い出したり、迫害したり、カルト扱いしてはいけないのです。


37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。
38すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』”

旧約の日、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルと次々と神により遣わされた神の僕を迫害した「神の民」の罪は、その日、最後に遣わされた神の息子、あととりである、主イエスの殺害で頂点に達しました。
彼等は罪のきわみに達したのです。
さて、同じことは終末の日にもくり返されるかもしれません。
聖書黙示録は終末の日に「男の子」が生まれることを預言します。
これは、終末の日の勝利者であり、彼等は、殉教します。
黙示録12:5「その子は神のみもと、御座に引き上げられた」と書いてある通りです。

尚、この「男の子」Manchildに関して例の嘘つき使徒、預言者ども、
ピーターワグナーを始めとする第3の波系の人々も
同じ様な教理を語っていることを覚えていてください。
もっとも彼等のいう男の子、勝利者は殉教をするわけではなく、この地上を支配し、
そして、主の敵(実際は最後迄みことばに忠実な人々)を滅ぼすことになっています。
ついでにもう一つ彼等の教理を紹介すると彼らのいう艱難時代とは、「艱難に会う日ではなく、
主の敵(実際は神に忠実な人々)を滅ぼす戦いの日」だそうです。

この様にこれらの偽り者どものふりかざす教理は、地上的であり、この世的なものであることがわかります。これらの教理はいずれ
この国をも席巻する予定ですので、覚えておいてください。

”39 そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。”

ぶどう園の外と書いてありますが、文字どおり、主イエスは「都の外」で苦しみを受けました。
都、エルサレムは教会のたとえであり、終末の男の子、勝利者も教会の外に追い出される、すなわち、
「あいつらはクリスチャンじゃない、異端、カルトだ」といわれる可能性があるでしょう。否、これを覚悟すべきなのでしょう。そして、殉教もあり得ます。

”40このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
41彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」”

主人が帰ってきたらとは、何を意味するか?終末においては、もちろん、キリストの再臨をさすのでしょう。それでここには大変なことが書いてあることがわかります。
多くの教会では、キリストの再臨について語ります。そして、それは、すばらしい輝きの日だと述べます。
勿論それはそうなのでしょう。しかし、あまり語られないことがあります。
それは、その日、裁かれる教会、クリスチャンが多いということです。
このことはあまり語られません。

しかし、この箇所には、明確に、これらの農夫すなわち、今のキリスト教会であるぶどう園の
働き人に関して、「その悪党どもを情け容赦なく殺して」と書かれています。

その様なわけで、この箇所を素直に読む私の目には、その日裁かれる教会、働き人が多いという風にしか読めません。
ですから、このことに関して恐れを持っていきましょう。

くり返しますが、その日、終末の日、神から遣わされる僕をどう取り扱うかは、
ぶどう園の農夫すなわち現在の教会の働き人たち、牧師達にとって、永遠の区分をもたらすことを覚えてください。

私の理解では、もうこの僕達は遣わされ始めています。そして、それと呼応して、各国の教会においては、カルト刈りの嵐が吹き荒れつつあります。すなわち、カルト呼ばわりされる主のしもべが起きつつあります。

”そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」”

これは何をいっているのか?恐らく他の農夫、すなわち、今未信者と呼ばれる人々に救いは移っていくそのことをさすのではと思われます。

”42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』”

「家を建てる者たちの見捨てた石」と書かれています。エルサレムにおいては、家は石を組み合わせて造ります。その家を造る人々は良い石は貯えて、家を造るのに用い、役に立たない石は捨てて、不用品とみなします。家は教会のたとえであり、家を建てる者は教会の指導者のことです。
ですからここには、教会の指導者に捨てられたクリスチャンが実は、神に選ばれた者だった、思いもかけないことが起きる、そう語られているのです。だからこそ、「これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」と説明されているのです。

このことは、まさに主イエスに関する預言です。主は家を建てる者である、祭司長、律法学者からは見捨てられました。しかし、実はこの主イエスこそが、神により選ばれた教会の土台、隅の頭石、だったのです。ここに書かれているのは、人の判断と神の判断は違う、全く違うということなのです。

さて、この様に書かれているのですが、しかし、尚教会の指導者が間違えてしまう日が来ます。
それは、終末の日であり、大いに道を曲げ、ずれた道を歩む多くの教会の指導者は、神から遣わさrたしもべ、またしもべたちを「異端」「カルト」扱いして追い出すでしょう。
この日再度、この預言、「家を建てる者たちの見捨てた石」とのことばが成就するでしょう。

”43 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。”

この日、神の国は、背信をくり返すユダヤ民族から取り去られ、異邦人に与えられてしまいました。
パウロを始めとする使徒を通して、この神の国は異邦の民へ伝えられたのです。
同じく終末の日、神の国は背信をくり返す教会から取り去られ、異邦人、即ち、未信者と呼ばれる人々に移っていくでしょう。

”44 また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」”

この石とは第一義的にはキリストのことです。この石の上に落ちる、すなわち、このかしら石なる方を恐れげもなく、断罪し、十字架につけた、祭司長、律法学者、またユダヤの民は皆、 後の日に裁きに入り、「粉々に砕かれ」てしまったのです。同じことは、終末の日に、 再度繰り替えされるでしょう。その日、神からのしもべを見分けられなかったクリスチャンは、 「粉々に砕かれ」る様になるでしょう。

”45 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。
46 それでイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。”

このたとえは、当時の「祭司長たちとパリサイ人」にあてはまるものでした。そしてそれはまた、現在における祭司長、すなわち、教団の指導者達、また「パリサイ人」すなわち、自ら義とする者達にあてられたものであることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー

 おしらせ