NO.401 ぶどう園のたとえ(1)

”テキスト:マタイ21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
29 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。
32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。”

本日はぶどう酒のたとえとして見ていきたいと思います。

順に見ます。

”28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。”

さて、この箇所には、二人の息子について書いてあります。
旧約聖書にもふたるの息子の話はよくでてきます。いわく、カイン、アベルそれから、イシマエル、イサクそれからヤコブ、エサウ等です。新約の「二人の息子」について正しく理解するためには、これらの旧約の「二人の息子」の話を思い出す必要があると思われます。

”その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。”

父はまず兄の方に仕事を頼みました。兄はイエスの時代においては、祭司長、律法学者達です。
終末においては、それに相当する人々すなわち聖書学者や教団のトップの人々でしょうか。

”29 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。”

兄は返事はよかったのですが、実行は伴いませんでした。聖書の原則は、口先ではなく、行うことに
ポイントがあるということです。

”30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。”

逆に弟の方は、返事はよくなかったのですが、実行はありました。

”31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。”

さて、ここで弟とはイエスの時代における取税人や遊女たちのことであることがわかります。
ここでの問題は彼等、取税人や遊女たちは先に神の国にはいっているといわれていることです。
彼等は先に神の国に入っている。それでは、実行しない、祭司長や、律法学者はどうなのか。
彼らは入れなかったのか?この箇所に明言はされていませんが、しかし、
あぶない感じがしないでもなくはありません。
この箇所も他の多くの箇所と同じ様に終末における2種類の神の民をあらわしている様です。

”32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。”

さて、この彼等祭司長、律法学者達の問題とは具体的には何か?それは、
ここにはっきり書かれている様にバプテスマのヨハネを理解できなかった、また彼を信じられなかったということなのです。

それで、このこと、イエスの時代に起きる「バプテスマのヨハネ」の働きをどう評価するかは、
この時代において、神の民が「天国に入るか否か」を決定する大きな要素であったことがわかります。

彼等祭司長や、律法学者達すなわち、宗教の専門家にとってバプテスマのヨハネは
信じるに足るものでも、その行いをただすに足るものではなかったのですが、しかし、あにはからんや、
実際はこのバプテスマのヨハネは神から遣わされた者であり、彼を受け入れない者はなんと、
天国へはいることが危うくなる、その様な存在だったのです。

とりあえずここまで理解して下さい。後は「ぶどう園のたとえ(2)」に続きます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー

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