NO.400 年を経た蛇


”テキスト:黙示録12:7 さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、 8 勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。 9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。 10 その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。 11 兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。”

本日は「年を経た蛇」という題でメッセージしたいと思います。
この箇所は黙示録の中にあります。 この箇所を理解するには何が大事かというと「たとえを解く」ことです。

神学校を出た牧師さんなら、主イエスのいわれた「たとえを解く」ことがさぞや、 得意なんだろうなんて思う人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。 それどころか、私の理解した限り、日本の神学校は、どこもかしこも、ろくでもない 知識、冒涜的なことまで、教えるわけのわからないものとなっている様です。 史的イエスだの、実際のイエスは奇跡なんて起こしていないなどという、蛇の教えは、 神学校を通して伝えられています。 また、あのピーターワグナーを始めとする怪しい面々の伝えるパラダイムシフトもここを拠点に 広げられている様です。

良い信仰を持って入学しても卒業時には、信仰に疑問をもってしまう、そんな何のための学校だかわからないところもある様です。 さて、この様にたよりにならない、人間の組織に頼らず、我々に知恵を与える方に頼り、このたとえを理解していきたいと思うのです。 順に見ます。

” さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、”

さて、ここで「天」で戦いが起こったことが記されています。 これを読んで空をみあげて、「いつ天での戦いが起きるのか?」なんて注目している人は たとえを理解できない人です。また「今日の夕焼けの色は何だか不吉に赤い。そろそろ龍との天の戦いが起きるのか?」 なんて思ってしまう人も同じく、たとえを理解していません。
天とは、「キリストと共に天に座す」主につくクリスチャンの住むところであり、言い換えると「終末の日に主につく教会、クリスチャン」のいるところです。

さて、天に対象的な存在として「地」があります。 この龍とその使いは「天」から、確かに追い出されたのですが、しかし、「地」から追い出されるわけではありません。ですから、こういうことがいえます。終末の日において、主につく教会においては、龍の働きは一掃されてしまう。

しかし、地すなわち、この世につける教会、クリスチャンにおいてはそうではない。

ミカエルに関してダニエル書はこう語っています。

” ダニエル12:1その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。”

この黙示録に記されている龍との戦いの時、それこそ、かつてダニエル書で預言されたミカエルが現れる大きな艱難の時代のことなのです。ですから、これは、かつてなく今後もない大艱難におけるできごとなのです。ここに「あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。」と書いてありますが、あの書にしるされている者の住む教会、これが「天」なのです。

”8 勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。”

さて、欧米において戦いの火ぶたが既に切られているあの偽り者どもとの戦い、第3の波系の居丈高な偉そうな嘘つきどもとの戦いに関して、決着のつく日がきます。それが、この日です。その日、彼等偽り者どもは「勝てず」従って、天、すなわち、主につく教会の中から一掃されてしまうのです。
日本において、この戦いに参戦する人たちもいずれ続々と出てくるでしょう。彼等こそ、終末の日の戦いに召された勇士達です。

”9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。”

この日、龍、悪魔、サタン、へびの企みは一掃され、その働きもみこころの教会から一掃されます。主につく教会においては、すばらしい回復の時が来るのです。

さて、ここで「年を経たへび」とのことばに注目をします。このことばが語ることは何でしょうか? それは、この天、すなわち、みこころの教会の中にしかけられ、たくらまれ、浸透させられている偽り、蛇のしかけ、誤りの毒教理は、皆、古い、年を経たものだということと思えます。

そして、私達の今の教会、状態は何なのでしょう。今は、まだ蛇が天、すなわち、みこころの教会から追い出されていない、大勝利を得てはいない状態です。ですから、逆に、まだ教会の中には、そこかしこに蛇が巧妙に仕込み、潜入させた多くの毒が隠れているといえると思います。

たとえば、カソリック教会においては、確かに「年をへた蛇」すなわち、長い間にわたる偽り者どもの企みが行われてきました。その長い間の画策のために、聖書の教えと全く正反対の教会、カソリック教会ができあがりました。聖書の教えと全く反対? すなわち、こういうことです。

*偶像を拝するなとの教えを曲げて
 マリヤの象を拝ませ、
*キリストの声に従えとのことばを変え、
 獣法皇の嘘つき教理に従わせ
*ことばは神であるとの御言葉をないがしろにして、
 進化論は科学的(創世記は神話)などと語る。
*信仰のみによって救われるとのことばを変えて、
 善い行い、サクラメントが必要などと別の道を語る。

この様にいくらでもこの教会の偽り、蛇のたくらみをあげることができます。これらは皆、昨日、今日始まったことでなく、長い年月を経てこの教会に持ち込まれたものです。ですから確かにこの教会を惑わす蛇は「年を経た蛇」なのです。プロテスタントに関しても同じ様なことがいえます。
この教会に入り込んでいる蛇の教え、偽りも昨日、今日の問題ではなく、長い期間を経てあらゆる蛇の働き人を通して持ち込まれたものなのです。

すなわち、後の雨運動の怪しい霊、またデイスペンセーション主義や、2段階携挙説、完全なきよめ等の怪しい教えは長い年月をかけて持ち込まれたものなのです。

ですから、この箇所がいい、預言している「天から蛇とその使い」が落とされる日とは、これらの教会に入り込んだ蛇学者、蛇の働き人の働きがみこころの教会から一掃される日なのです。そして、その日にこそ、一切の偽りが暴露され、明白にされ、対処される日だということを知ってください。今は?今は、まだその日へ向かう過渡期なのです。いえむしろこの戦いが始まりつつある日といえるかもしれません。

”その使たちも、もろともに投げ落された”

蛇の使い達、すなわち蛇使い達もみこころの教会から追い出されることがここに描かれています。蛇使いは、かつて見た出エジプトの日の蛇合戦と関係し、かつての日モーセの戦いを挑んだ、魔術師、蛇にかわる杖を用いる者達と関係しています。これらの蛇使いどもは、みこころの教会から一掃されるのです。

”10 その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。”

この日、「われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた」と書かれています。逆にいうとそれまでは、教会において、「神の救と力と国と、神のキリストの権威とは」、現れていないことが予想されます。

何故その日、「神の救と力と国と、神のキリストの権威とは」、現れ、今の日には現れていないのか? その理由はその日には、年を経た蛇の働き、またその使いの働きが明確になり、みこころの民は理解し、それに対して戦いを挑むからでしょう。
何故、今はその勝利や、「神の救と力と国」とは現れないのか? その理由は、誰も敵を見ていない、また教会内における蛇の存在を見ていない、また蛇の使いをも認識していない、だから、今の教会では、「神の救と力と国と、神のキリストの権威」など現れていないのです。逆に「神の救い」に変えて、「この世的な方法による救い」、「キリストの権威」どころかキリストは愚かなお人よしであると冒涜した様な映画や教理が溢れ返っているのです。

そして、更に悪いことは、これらの冒涜、背徳、侮蔑を「蛇」や「その使い」のために、目の前でさんざん愚ろうされながら、何一つ気付いていない、愚かで盲目な教師、クリスチャンに教会は満ちているのです。

敵が見えないことには戦うことは不可能です。それで、今の教会は、ただ、敗戦、敗北、敗退を続けているのです。

畑が荒らされ、作物が食い荒らされるのは何故でしょう? それは、猿やらの動物が畑に入り込んで荒らすからではないでしょうか。その猿を追っ払えば、畑は平和を取り戻し前の様に良い作物を産み出します。同じく教会がこの様に荒らされ、冒涜的になり、背教的になるのは何故でしょう?
荒らすもの、荒らす人々、すなわち、年を経た蛇が教会内に巣くっているからではないでしょうか? このことは決して難しい理論でも考えでもないのですが、残念ながら愚かな偽善者の目には見えないことがらの様です。

しかし、その日、目の見える人々が現れ、その日、教会に巣くうこれらの蛇の使いと一戦を交えます。 そして、その結果、蛇の使い達はみこころの教会から追い出されます。それで、その日、教会において「神の救と力と国と、神のキリストの権威とは」あらわれるのです。

その様なわけで今、この日、主につき、これらの敵と剣を交えて戦う人々こそ、聖書に記されている、勇士なのだということを知ってください。

さて、蛇ということばが語るもう一つの意味あいを見たいと思います。それは、「シオンの長老の議定書」、プロトコールの中で、自分達のことを「蛇」と自称している民族のことです。彼等こそ、黙示録の中で、「悪魔礼拝者」と名指しで指摘されている人々でもあります。ですから、キリスト教会の変質と「某民族」とは確かに大いに関係しているのだということをこの「蛇」ということばも暗示していることを知ってください。

「われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者」

彼等蛇の民の攻撃の方法は、兄弟を訴える者であることが書かれています。そんなわけで、終末の日、みことばに立ち、主の兵士としてこころざす人は、これらのしつこい攻撃、訴えと戦うことになるのだということを知りましょう。イエスを裁判で訴え、パウロを訴えたあの日以来、ユダヤ人こそ、人々をまたクリスチャンを訴える人々です。
 

「神のみまえで彼らを訴える者」

このことばが意味することは宗教的な面で主につく人々は訴えられるということです。それは、かつての日、イエスを訴えた、宗教の専門家、律法学者、パリサイ人のことを思い出せば理解できるでしょう。彼等は主を「異端」であると非難したのです。同じ意味あいで、終末の日に堅くみことばに立つ人々は、蛇民族主導の「異端」との非難に動じてはいけません。

”11 兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。”
 

終末の日、主につく人々は、あかしの「言葉」により勝ちます。彼等こそ、堅く神のみことばを握り勝利を得る人々です。

「彼にうち勝ち」

今「目に見えないキリストの再臨」などのトンデモ教理を振りかざしている第3の波系の人々の教えもその日、破れてしまうでしょう。

「死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。」

終末の日、必ず起きて来ることは殉教です。そんなわけで、終末の日、

剣を持ち、主の戦いにはせ参じようとする人々は、殉教の覚悟がいることを知ってください。体を殺しても魂を殺し得ない者達など恐れてはいけません。むしろ、からだも魂もともにゲーナの火で滅ぼすことのできる方を恐れましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー