No.399宮きよめ(2)


”テキスト:イザヤ56:1 主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。」
2 幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。
3 主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される。」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ。」と。
4 まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5 わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。
8 ・・イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ。・・わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」
9 野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。
10 見張り人はみな、盲人で、知ることがない。彼らはみな、おしの犬で、ほえることもできない。夢を見て、横になり、眠りをむさぼっている。
11 この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分かってな道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かって行く。
12 「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」”
 

本日は「宮きよめ」(2)として、さらにこの件を見ていきたいと思います。
マタイの福音書の「宮きよめ」の箇所で主のいわれる、
「我が家は祈りの家ととなえられるべきである」とのことばは、
上記イザヤ書にある聖句の引用です。
このイザヤ書の箇所を見ていく時、主が宮きよめに関して真に語ろうとしていることが
わかってくる様に思えます。
テキストを順に見ていきます。

”1 主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。」”

かつてイエスの時代に起きた宮きよめの意味あいは、宮から人々が「追い出された」ことです。
これは、終末の日に起きてくる教会における「宮きよめ」のわざの予表です。
終末の日に必ず必ず神の前から、また宮から追い出されてしまうクリスチャンまた
牧師、神父がいることを知りましょう。
何故か?それは彼等の不義のゆえです。
それゆえ、この箇所、イザヤ書の宮きよめの引用箇所には、「公正を守り、正義を行なえ。」と
書かれているのです。

さて、多くの人が宮きよめされ、神の前からそのつとめを奪われ、追い出されるその
日はまた義があふれる日でもあります。これは、
かつての日、イスラエルの家が神の前から捨てられた日は
また、主イエスの弟子により「義があふれた日」であったことと同じです。

”2 幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。”

さて、かつて主イエスの時代にも幸いな人々がいました。
それは、「どんな悪事にもその手を出さ」ず、それゆえ、主に選ばれ、用いられた
12弟子を始めとする人々です。
かつて、主はナタナエルの招命の日、彼に対して、「いちじくの木の下にいるのを見た」と
黷閧ワした。

誰も知るはずのないことを、このイエスが知っているのを見て、彼、ナタナエルは
この方が誰なのかを理解したのです。
同じ様にその日、人前ではなく、隠れた方の前を歩む人々は、神により選ばれるでしょう。
「安息日を守ってこれを汚さず」とは要するに人の働きではなく、主に働いてもらうことを求める人のことでしょうか。

「どんな悪事にもその手を出さない」

今は、あらゆる悪事が世の中にそして、教会にさえあふれている時代です。
牧師を敬わず、権威に逆らったり、また兄弟を許さなかったり...。
しかし、どの様なささいな律法でもこれを堅く守る人々にみこころがあります。

”3 主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される。」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ。」と。”

外国人とはかつてはイスラエルの国籍のないもの、今でいえば、クリスチャンという名前で呼ばれない人々でしょうか。
今は教会のカルト化などという「作られたブーム」がさかんに起きていますので、
主につく教会でも「あれはカルトだ。キリスト教ではない」などといわれることがあるかもしれません。
私のところなんかも何とかしてそう呼びたい、某民族らしい人々がネットには多いようですが、
しかし、人からの呼び名がかわったからといって、主の前の実質に何か変わりがあるわけではありません。
大事なことは、この世からどう呼ばれるか、また最悪のカルト、ユダヤ教の嘘つきども、日本のキリスト教掲示板をも占拠しているあつかましいカルト民族から、
どう呼ばれるかということではありません。また、あの獣法皇からどう呼ばれるかではありません。
見えないところを見ておられる唯一の神からどう呼ばれるかが問題なのです。

”4 まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5 わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。”

「わたしの喜ぶ事を選び」と書いてありますが、今神が真に喜ぶことは何であるか知りましょう。

多くの偽善者、すなわち、お面をつけている者達、すなわち、正しい善を知らず、行うことも
せず、そのふりをしている者達は、この神が真に「喜ばれること」を理解しません。

彼等には義人の「ふりをしている」だけであり、その実体がありません。
それで、「偽善的な教え」に手もなく、惑わされていきます。

彼等は「一致は人間的にすばらしい、神も望んでいる」などとのエキュメニカルの偽善的な
たわごとの裏にあるたくらみを見抜くことができません。

しかし、神が望んでおられるのは、信徒の数や、人間的な一致ではなく、「みことばを偽る偽り者」や、
「怪しい教理を教会に持ち込むスパイの働きを見抜き、それを警告」することです。
私達が「義人のふり」ではなく、実際に正しいことを行っていく時、正しい主のみこころを理解することができるようになるでしょう。

終末の日は、これらの真に神のみこころを行う者達が起こされる日です。

”6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。”

ここで外国人と書いてあります。外国人とは、基本的には、旧約の時代における異邦人、神の
民ではない人々です。しかし、主イエスの時、救いは頑な神の民、イスラエル人を離れ、
異邦人に移っていきました。異邦人につかされたパウロを始めとする使徒を通して多くの外国人、
ローマの信者、エペソの信者という様に外国人が神に連なり、神に喜ばれるようになったのです。
「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」との
ことばは使徒行伝の日に成就し、彼等異邦人は、祈りの中で神のわざを見るようになったのです。

そして、マタイの福音書に引用されている「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」とのことばは、その日、異邦人、外国人の上に成就したのです。

すなわち、神の民が強盗や商売人の巣とし、顧みなかった神の宮がその日、異邦人の中で顧みられ、
神への祈りは異邦人を通して、捧げられたのです。
もちろん、文字どおりの建築物としての宮ではなく、神への礼拝所としての教会について語っています。

さて、このことは、終末の日のたとえであり、その日、このこと、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」とのことばは、その日、外国人、すなわち、今、未信者と呼ばれる人を通して、
成就するようになるでしょう。

すなわち、この箇所すなわち、主イエスの行われた「宮きよめ」が意味することは、
終末の日に教会が「強盗や商売人の巣」となること、そして、それゆえ、神が
それらの人々を宮から、神の前から追い出すこと、そして、真の宮のつとめ、
祈りの香は、外国人すなわち、今未信者と呼ばれる人々を通して、ささげられるように
なるということを語っているのです。
もちろん、スムースにそんなことが進むはずもなく、それらの人々は、「異端」呼ばわりされるかもしれませんが。
 

”8 ・・イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ。・・わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」”

ここで記された「すでに集められた者たち」とは、終末に関連して福音書書かれている
「御使いをつかわして四方から選びの民を集める」とのことばを関連します。
終末の日、主のみこころをの民が集められます。

”9 野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。”
 

さて、この箇所から以降に書かれている人々はそれ以前に描かれている「 みこころの民」とは
全く反対の人々、終末に裁かれるクリスチャンに関して書かれています。
この方法、聖書がよく用いる一つの「手法」を記憶してください。
聖書は、同じ時期に現れる、2種類の民について同じ文脈に中に書きます。
前触れなしに書かれるので、区分が難しいのですが、しかし、明らかによく用いられる一つの手法なので、覚えておいてください。

すなわち;
例えば、同じ章の中でも、
1-10節:みこころの民に関する記述
11-20節:裁かれる民に関する記述
この様に平行して書かれているのです。
その上、「これからは、裁かれる民について書きます」などとの
前置きはありません。
これが聖書を難しくしている手法でもありますが、「知恵あるものは」それを悟るはずです。

さて、ここでは、「野のすべての獣」という様に、獣について書いてあります。
終末の日、「宮から追い出される神の民」が「獣」に食い荒らされることについて書いてあるのです。
「獣」は黙示録に描かれた7つの頭と10の角を持つ獣国家、すなわちアメリカに通じます。
この国を起点とするあらゆる偽りに「宮から追い出される民」すなわち、祈りもせず、またみことばを
盗んで勝手な解釈を行う民は、食い荒らされていきます。
具体的にはこの国の偽りを教える神学校をもとに広がる偽りの神学に日本の各教会が食い荒らされていくこと、またこの国に救う獣の民族の偽教師の教えに食い荒らされていくことをさすのでしょう。

”10 見張り人はみな、盲人で、知ることがない。彼らはみな、おしの犬で、ほえることもできない。夢を見て、横になり、眠りをむさぼっている。”

「見張り人はみな、盲人で、知ることがない。」と書かれています。
見張り人とはすなわち、国が攻撃されない様に敵の攻撃を遠くから、見抜き、その攻め込もうとする
敵の軍隊の進軍を「王や民」に知らせる者のことです。
彼は遠くを見るものであり、目がよいものでなければなりません。新約聖書の「長老」ということばは、このことと関係があり、このことばの原意は「遠くを見るもの」という意味あいがあります。

さて、この国のキリスト教会においても長老とか大長老とか、自称、他称する人は多い様ですが、
残念ながら、その意味あいの通り、「遠くを見通す」人はあまりいない様です。
 

何をいっているのかというと、今の日本のキリスト教会は、ほとんど「ザル」の様であり、
いくらでも敵が侵入し、かく乱し、また攻撃したり、偽情報を流布することができる
様な状態だといっているのです。
そして、遠くから、いなもう大分近い所に敵の大群が進軍しているのに、
誰も叫ぶ声もなく、また警告を発する人も見当たらないといっているのです。
「見張り人はみな、盲人で、知ることがない。」とのことばは、この国のウ会において
成就していると私はいっているのです。

海の向こうの欧米の教会においては、聖霊の第3の波系の偽りの教理がばっこし、
正統的、伝統的な教理、聖書理解をする人々はコーナーに追い詰められつつあり、
非難されつつあるのに、この重要な変化を誰も日本の教会に対して警告する者がいません。

これらの偽り者の間においては、新しいパラダイムシフトが起きた、
古い教え(すなわち伝統的な正統な教え)にしがみつく者は反キリストの霊にやられた者だとの
驚くべき、論法が使われています。

聖書に書かれた「艱難時代」とは、その通り受け取ってはいけない(?)、
これらの反キリスト的な人々が攻撃される日が、聖書でいう「艱難時代」なのだといわれているのです。
その(彼等のいう)反キリスト的な人々とは、聖書でいう「最後迄キリストのことばに忠実な人々」のことです。

ですから、この様なたわごとをいうピーターワグナーを始めとする偽り者こそ、反キリストそのものであり、それに遵う者達こそ、聖書でいう反キリストに惑わされる人々であることを知りましょう。

「彼らはみな、おしの犬で、ほえることもできない」

牛が飼われるのは、乳を得るため、また犬を飼うのは番犬にして、
不審者が来たなら、それを住民に知らせるためです。

この国の番犬たるべき人々は今どこにいるのでしょうか?

この様にこの国の教会に対して、敵がおおいに軍隊を集め、策略をめぐらしているのに、
今、どこにこのことに関する警告があるでしょうか?
キリスト教雑誌、新聞には、あらゆる種類の役立たずの情報、まんが、映画、音楽等があふれていますが、
この「戦い」「敵の働き」に対する警告は皆無です。
 

火事が起きているのに知らせない「ひのみやぐら」の見張り人は役立たずです。同じ意味あいで
今の時代に関して何の警告を発することのできない、キリスト教、新聞、雑誌、メデイアまた
数いる牧師、先生様達は、彼等が何の警告も発していないなら、それは
役たたずであると私はいいます。何か問題があるでしょうか?

「ほえることもできない。」

犬の役目は敵にほえること、またほえて、家族に知らせることです。

吠えない犬は役立たずです。今の敵がこの国の教会を席巻しようとしているのに、どの犬が吠え、誰がこの敵に立ち向かっているのでしょうか?

あの嘘つき偽預言者ども、ピーターワグナー、ベニーヒン達、悪霊を注ぐ偽り者に関して警告する声は日本のキリスト教、雑誌、新聞等の間では、皆無です。
彼等は何の役にも立たない番犬です。

”夢を見て、横になり、眠りをむさぼっている”

彼等が何故この危急の時に役に立たず、ものうく、相変わらず日本のキリスト教会では、
寝惚けたことばかり話題にしているのでしょうか?

その理由はここに書かれている通り、彼等が「夢を見て」いるからです。
現実は借金取りに追われて大変な生活でも夢の中では、
大金持ちなら、心はリッチになれます。それは、夢に過ぎず、現実は何もかわっていないのですが、
夢の中ではハッピーになれるのです。

日本の愚かで、聖書も神の力も知らない、「夢見るクリスチャン」のために某嘘つき民族による、とっておきの「はかない夢」が用意されており、愚か者はその夢の中でまどろんでいます。
その夢とは;
1. 艱難時代の前には、教会時代が終わり全教会は挙げられる
2.中東にいる民族は神の民である(実際は悪魔民族)
3.エルサレムに第3神殿が出来、それが崩壊した後、反キリストがあらわれる
(だからまだまだ終末は先)
4.反キリストはこれからヨーロッパにあらわれる(だから、まだまだ反キリスト到来には
時間がある)

この様に「終末はまだまだ先」「終末の艱難に教会、クリスチャンは会わない」という
ほとんど創作おとぎ話の類いの夢のことです。
この様なたわごとを聖書は軽蔑を込めて、「夢を見て、横になり、眠りをむさぼっている」と
語っているのですが、誰に何といわれようとベッドの中の架空の夢から離れることのできない子供の様な、
役立たずの夢見るクリスチャンが多いことは残念なことです。

”11 この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分かってな道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かって行く。”

「悟ることも知らない牧者」とのことですが、今の時代を見分けられず今の時代の教会への偽りを見抜けない牧師は皆、悟ることも知らない牧者であるといえるでしょう。

「自分かってな道に向かい」

今の時代は全てに吟味が必要な時代であり、良いと思ったことが必ずしも神のみこころとは限らないことを知るべきです。「リバイバルさえ起きれば」という人間的な熱心は敵に用いられ、
怪しい霊のリバイバルを招いています。
「教会が大きくなれば、人がくれば」という人数拡大の思いも敵にうまく用いられ、
怪しい教会成長運動の専門家ピーターワグナーの戦略にはまります。その結果、

ノーマンビンセントピール、ロバートシューラーの方法の様な、「罪をハッキリと指摘しない」
この世の方法が教会に持ち込まれたりします。

”12 「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」”
 

ぶどう酒、強い酒は、悪霊の働きのたとえでしょう。
宮を追い出された人々は、悪霊の惑わしに入っていきます。

まとめますが、この箇所、新約の「宮きよめ」で引用されている、イザヤ書の箇所が語ることは、
主の宮きよめのもっと具体的な意味あいです。このイザヤ書に書かれている様に
終末の日に宮きよめに関連して2種類の人々が起きるということを預言しているのです。

一つは、主により認められ宮に入り、真の礼拝者として扱われる人々、もう一種類は、
宮から追い出され、宮きよめされ、裁きに入る人々この2つです。

しかし、私達にあっては、主の真の礼拝者として宮にとどまりましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー