NO.392逃れの町


テキスト:ヨシュア20:1 主はヨシュアに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、
3 あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。
4 人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。
5 たとい、血の復讐をする者がその者を追って来ても、殺人者をその手に渡してはならない。彼は知らずに隣人を打ち殺したのであって、以前からその人を憎んでいたのではないからである。
6 その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」
 
 

本日は「逃れの町」という題でメッセージしたいと思います。
旧約聖書には、我々の目を引く、いくつものことが書かれています。
その中でも「逃れの町」という町の存在は、非常にユニークです。
この町に関連して聖書が語っていることを見ていきたいと思います。

順に見ます。

1 主はヨシュアに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、”

神はヨシュアに対して語りました。ヨシュアは新約のイエスと同じ名前です。さて、ここで神は
非常にユニークな制度、「逃れの町」について命じています。
一体この逃れの町とは、何を意味するものなのでしょう。

"
3 あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。"

ここは、過って人を殺し、すなわち今でいうと「過失致死」の罪を犯した人が逃げ込む街なのです。
この様な町について細々と記載することにより、聖書は何を我々に語ろうとしているのでしょうか?

あやまって人を殺すということがらと関係のありそうな新約の記述には以下のことばがあります。

”ルカ23:34「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」”

これは有名な十字架上における主のことばです。
この時、主イエスは「何をしているのか自分でわからない」すなわち、間違えて人殺しの罪に荷担している人々の罪が許されることについて願っています。

あやまって人を殺した人が復讐から免れる町、逃れの町と同じことがらが記されているのです。
この様に考えるとこの不思議な街、逃れの町の隠れた意味あいがわかるように思われます。

この様に考える時、すなわち、主の十字架における死と関連して考える時、改めて、この町の意味していることは何なのでしょう?

この「あやまって、知らずに人を殺した殺人者」とは誰のことなのでしょう?
それはかつての主の十字架の時には、この方を理解せず、十字架刑に賛同したエルサレムの人々です。
この時、主は彼等、「あやまって人殺し」に参加した人々の罪が許されるように祈りました。
その結果どうなったのでしょう。彼等の罪は許されたのでしょうか?

使徒行伝の以下の記事を見る時、その罪は許されたことがわかります。

”使徒2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」”

かつて主の十字架刑に賛同し、しかしペテロの説教で悔い改め、罪を許された多くの人がここにいます。

さて、ここで話が終わってはまだ話半分です。まだ残りがあります。
それは私達のことです。私達もある意味、この「知らずに犯した殺人」に加担したといえるかもしれません。なぜなら、主は私達の罪のために「死なれ」たからです。

さて、私達がこの死に責任があるとして、その死の罰を免れるためにはどうすべきなのでしょうか?
それは、「逃れの町」に逃げ込むことです。

”4 人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。”
 

さて、この逃れの町に関連して同じ「知らずに殺人の罪を犯した人」であっても2種類の
結果があります。すなわち、
1.「逃れの町に逃げ込む者は」血の復讐を求める者の手を逃れ命を救い、
2.「逃れの町に逃げ込まない者は」血の復讐を求める者の手を逃れず命を失う

上記の区分です。
これは何を意味するものか?
私が思うにはこれはまさにイエスの救いの型ではないかと思われます。
すなわち、この「逃れの町」は主の救いのある一面を語るたとえなのです。
この逃れの町はイスラエルの全ての人に提供されています。しかし、
その恩恵を受けるのは「この町に逃げてきた者」だけなのです。
同じく主の救いは全ての人に提供されています。しかし、その救いの恩恵を受け、
神の裁きから免れるのは、この逃れの町へ逃げてきたものだけなのです。

ですから、あのカソリックで流される偽りの教理、すなわち、全ての人の罪は既に許されているのだから、
わざわざクリスチャンにならなくても、仏教徒のままでも救われるなどというたわごとは、
このみことばに照らすなら、全く荒唐無稽、人の猿知恵によるおろかな教理であることがわかるでしょう。
聖書は明らかに「逃れの町」に入った者は、復讐者の手から
逃れられる、すなわち神の裁きから逃れ得ると語っています。
逆にこの町に入らない者、知っても行こうとしないものが裁かれることとを語っています。ですから、
主イエスの血のあがない、犠牲の死を知りながら、それを気にとめない者が裁きを免れるはずはありません。

具体的には、この逃れの町とは、今の何にあたるのでしょう。
これは、私の想像ですが、もしかすると、今の教会は、「逃れの町」なのかもしれません。
「知らずに主イエス殺しの罪に加担し」た人は、この町に逃れ、入って来た時、その復讐から逃れることができるのです。

”5 たとい、血の復讐をする者がその者を追って来ても、殺人者をその手に渡してはならない。彼は知らずに隣人を打ち殺したのであって、以前からその人を憎んでいたのではないからである。”

ここに逃れの町というユニークな町があり、この町に逃げ込んだ人は、知らずに行った人殺しの
罪のため、復讐を受けないですみます。彼は「救われる」のです。
この箇所こそ、キリスト教会特有の用語、「救い」ということばを説明する箇所です。
救いということばが意味するものは、我々は皆、裁きの前にある、神の怒りの下にあるということです。
しかし、唯一、この町へ逃げてきたものは「救われる」のです。

”6 その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」”

「会衆の前に立ってさばきを受ける」とは、最後の審判の日をたとえているのでしょうか。
彼はその日まで、この町すなわち神による救いの下にいるべきです。その時、裁きを免れるでしょう。
「大祭司が死ぬ」ということばも暗示的です。ヘブル書によれば、真の大祭司は、主イエスのことです。ですから、大祭司の死とは、主イエスの死と関係のあることばです。このことからも、この町、逃れの町は、確かに主のあがないの死と関係のあることがらであることがわかります。

くり返しますが、このユニークな町、逃れの町をとおして、神が語られることは、
1.救いは万人に用意されている
2.しかし、求める者、ここに逃れてきたもののみそれにあずかる

そのようなことと思われます。これらは、主の教えのとりでであり、決して敵に
崩されてはいけない、要害です。
ここをすでに崩されているカソリックは、聖書的には捕らわれた者、捕虜、情けない敗残者と
呼ばれるべき人々です。

しかし、私達にあっては、生きて捕虜の辱めを受けず、主につく人々は、
この砦を守り、さらに敵のとりでを奪回する攻撃に転じましょう。
私達はその様な勇士とともなりたいと願っています。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー