NO.390エジプトのサライ

”テキスト:創世記12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
14 アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。”
 

本日は「エジプトのサライ」という題でメッセージしたいと思います。
サライとは、後のサラ、アブラハムの妻の名前です。

この箇所には、アブラムが妻サライに「殺されないため、妻だといわないこと」
を頼んでいます。何だか、変な、あまり聞かない話ですがそう書かれています。
興味深いことには、同じようなことがその後、くり返され、アブラハムの子イサクもその妻リベカ
に対して、
ペリシテ人の地に入る時、同じことを頼んでいます。
このことに何か意味があるのでしょうか?少し考えてみたいと思うのです。
順に見ます。

”10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。”

アブラムはききんが起きたため、エジプトへ下りました。
まず、エジプトという場所、地名の聖書的な位置関係を考えてみましょう。

モーセが出エジプトをしたように、エジプトに住むことは神の民のみこころではありません。
エジプトは何をさすのか?恐らくこの世をさすのではないかと私は思っています。
モーセ はエジプトのあらゆる学問、すなわち、この世のあらゆる学問に秀でていましたが、たった
一人、二人の仲裁をすることもできませんでした。この世の力は神の前に無力です。

さて、この時、アブラムはききんが原因でエジプトへ下りました。食べるものがここにはあるからでしょう。同じようにその孫にあたる、 ヤコブもききんのゆえにエジプトへ下っています。

エジプトがもしこの世を象徴するとするなら、このことは何を意味するのでしょう?
理解できることは、真の食べ物であるバン、みことばがききんになり、結果として、しかたなく、
エジプト、すなわち、この世のものを食べる、そんな意味あいがあると思われます。

本来我々の腹はパン、みことばで満たされるべきなのですが、ききんとなり、
食べるものがなくなれば、エジプトのもの、この世のもので満たすしかしょうがない、
そんなことがあるのです。

今の教会でもそんなことが行われています。
この世の教えである、積極的思考とか、セルフイメージだとか、
わけのわからないものが神の民の腹を満たしています。

”11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。”

彼、アブラムは、エジプトにおいて彼の妻サライが見目麗しい女だと思われることを述べました。夫がそんな心配をするとは、下手に美人の奥さんをもった旦那も大変だということはいえるでしょうが、
しかし、このことに何か意味あいがあるのでしょうか?

聖書でいう夫と妻の関係は、エペソ書にあるように「キリストと教会」の
たとえであることが多いようです。その考えでいえば、ここでいうエジプトにおける妻の美しさは、
この世における教会のうるわしさ、評判というようなものでしょうか。

妻サライが美人としていっぺんで有名になってしまったように、教会は、この世において、
うるわしく、誉れの高い存在です。

欧米の文学、芸術、絵画、音楽、劇等を見てみれば、キリスト教を題材にしたものが
多いのです。また非キリスト教国日本においても、結婚式といえば、皆教会での結婚式に憧れます。

かくのごとく、キリストの妻である教会は、この世、エジプトにおいて、美人の誉れ高く、
また、人々から麗しくみられる存在です。

”12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。”

美人の妻を持って夫は鼻が高いかというと、そうでもなく、逆に夫の方は、自分の命が危ないことを
心配しています。ここエジプトにおいては、人々は、夫を殺すだろうとアブラムはそう心配しているのです。もし、エジプトがこの世をたとえているなら、この世において、妻、教会は生かされても、
夫すなわち、キリストは殺されると述べているように思えます。

このことは本当でしょうか?全く本当であると私には思えます。

この世は確かに教会を何か麗しいものとみなし、ほめはしますが、肝心の夫、すなわち、
キリストはこの世においては殺され、「ことばは神である」といわれた方のことばは
この世においてはないがしろにされています。
 
 

キリストによる罪の購い、ことばを信じて永遠の命を得るということは、
世の中の新聞には載らないし、また論議も関心も呼びません。
しかし、その妻の麗しさ、すなわちキリスト教的な雰囲気の中での博愛やら、慈善やら、
社会活動やらは大いにこの世からは麗しいものと慕われています。
もちろんこれらが悪いわけではないのですが、もっとも大事である夫、キリストの言葉、
救い、購いは軽視されています。いや、この世においては、積極的に殺されたり、
反対視されたりしているのです。
このようにこの世において、妻と夫は対照的に対応されています。
妻、すなわち教会は受け入れられたり、その麗しさは強調されても、夫、肝心な
キリスト自身は、この世においていわば殺されているようである、
これがこの箇所のいわんとしていることでは、そう思えます。

”13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」”

妻と妹の違いは何でしょう?妻は夫と婚姻の契約の下にあります。しかし、妹はそうではありません。
妻は夫の同意なしに、勝手なことはしないのですが、妹はそうでもありません。
今の教会は、妻の立場からだいぶずれています。あのバアル(主という意味がある)、法皇に聞きしたがい、悪霊マリヤ崇拝にまい進しています。彼女は夫すなわち、「ことばは神」であるといわれた方と婚姻したとは思えない女に見えます。

「あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」

しかし、そうではあっても人間的ないいかたをするなら、キリストの名前が今に至るまでも
世界の偉人として、伝えられ、21世紀の今に至るまでその評判がよいのは、教会でその名を伝えたからだということはいえます。
「あなたのおかげで私にも良くしてくれ」とのことばは一面の真実なのです。


14 アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。”
 

妻サライの美しさはエジプト人の評判になり、その王の宮廷にさえ、召し入れられるほどでした。
妻が教会のたとえなら、教会はこの世の奥の奥まで入っていくということでしょうか。
このことはある意味現在の教会にあたっています。
教会のたとえば、牧師養成の神学校も、この世の方法を取り入れ、学位だとか、
博士だとか、この世の学問の方法を色々取り入れています。まさに、エジプトの奥にいるのです。

”16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。”

エジプトの王に気に入られた時、「アブラムは羊の群れ、牛の群れ」を所有するようになりました。

このことは一見、良いことの様に見えます。何はともあれ、羊、牛などが増え、財産が増えたのだから、
喜ぶべきことの様に思えます。
しかし、このこと、教会がこの世にこのまれ、この世のひ護の下で「羊、牛」が増える、
すなわち、信者が増えることはよかれ、あしけれであることを知りましょう。

かつてキリスト教の歴史の初期、ローマで多くの殉教がありました。しかし、時代が変わり、
教会はローマの国の国教となりました。すなわち、この世のひ護の下に入ったのです。
その結果、信者は増えましたが、しかし、教会も俗化したことを知りましょう。
そのなれの果てが今のローマカソリックであり、この教会は、牛、羊が多い、すなわち信者は多いが、しかし、
「ことばは神である」といわれた方のことばを投げ去り、聖書の偶像崇拝禁止のことばを
踏みにじり、悪霊マリヤ崇拝にまい進する背徳の教会です。

”17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。”

エジプトの王がアブラムの妻サライを召しいれることは、神の御心ではありませんでした。
同じくキリストの妻である教会がこの世と姦淫を犯すことは御心にかないません。
全てこの世と教会の姦淫を進める者には御心がないことを知りましょう。
否、大いなる災いに会うのです。

”18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。”

この妻にきちんとした夫があることをはっきりといわなかったことは問題です。
同じ意味あいで、今教会が、はっきりと自分には定められた夫がいることを
述べないことには問題があります。

かつて「あの井戸の側で」サマリヤの女は、主に「あなたの夫を連れてきなさい」といわれました。
その時、女は「私には夫はありません」というしかありませんでした。
かつての5人の夫は真の夫でなく、今一緒にいる6人目の男、あの獣法皇も真の夫でないことを
彼女は知り始めたのです。

このサマリヤの女、すなわち現在のローマカソリック教会は、その夫が誰であるか明確に語らず、
それゆえこの世で大きな有名な存在になりましたが、しかし、不幸な女でした。
このことには御心がありません。

この女が誰の妻であるかを明確に語らなかったアブラムはパロから、「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。」と強く叱責されています。
全て教会の真の夫は誰であるのか、それを明確に語らない者は同じく、叱責を受け、
たとえこの世で有名な美しい存在としてもてはやされたとしても
そのことには、御心がないことを知りましょう。

終末における主のここころを行いましょう。

ー以上ー