NO.389 バベルの塔


”テキスト:創世記11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。”

本日は、「バベルの塔」という題でメッセージしたいと思います。
聖書に書かれているバベルの塔の試み、すなわち「一つの民、一つのことば」で塔を建てようとの試みは、現在のエキュメニカル運動に通じるのであることを見ていきたいと思います。

順に見ます。

”1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。”

この頃、バベルの塔のできごとが起きた頃、全地は一つの言語でありまた、一つの
話しことばでした。

さて、このことは良いことなのか、それとも悪いことなのか?

普通に考えるなら、ことばが一つであること、分裂していないことは、良いことの様に思えます。
しかし、我々の価値判断の基準はどこまでも聖書にあります。

さて、聖書の記述を見ると、どうもこの「一つのことば、一つの話しことば」であることが、
あの神への反乱、すなわちバベルの塔のできごとと関係しているように思えるのです。

さて、このバベルの塔のできごとは、同じく創世記に記されたノアの洪水、ロトの洪水の話と
ともに、終末に関する話、終末において、再度、実現することがらではと私は思っています。

何をいっているのかというと、終末においてもこのバベルの塔の時の様に人々が
集まり、一つのことばとなって、そして、神に逆らう、そんな時がくるのではないかと
思われるでのです。

その一つになることの政治的な実現は、国連の働きです。
またそのキリスト教会における運動の実現は、エキュメニカル運動です。

”2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。”

彼等はこのこと、一つになって神へ反逆するという大それたことを、どこで行い、実行しようとしたのか?
それは、シヌアルの地でした。このシヌアルは聖書的に重要な意味あいがあり、そこは バビロン
が誕生した土地です。

現在のバベルの塔の働き、すなわち国連の本部も他でもない現在のバビロン、アメリカ、ニューヨーク
にあることも象徴的、預言的です。
また、キリスト教会における一つになる働き、エキュメニカル運動もあのバビロン、 アメリカにおいて
大いに推進させられています。ビリーグラハム、ビルブライトといった、この国のキリスト教会、福音派に潜り込んだ裏のある人々により、実現させられつつあります。

”3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。”
 

彼等はこのバベルの塔、神への反逆の塔を建てる時、石を用いず、粘土を用いませんでした。
石、粘土には隠されたたとえがあります。石は、ペテロ(小石という意味がある)への主のことばの様に、
主の弟子を意味します。また、粘土は、陶器士の粘土という様に、神の手により、作られ、形づくられる
器という意味あいがあります。しかし、バベルの塔には、これらの石も粘土も用いられませんでした。
何故か?すなわち、彼等は主の弟子を用いず、人間的なこの世的なもののみを
用いて塔を建てた、そのことをさすのかもしれません。

れんがの意味あいは何でしょう。出エジプト記の記録によれば、レンガは、わらを用いて作ります。
わらは麦の中の種以外の部分です。すなわち、神のことばでないものをさすと思われます。
レンガとは、神のみことば以外のものを用いた建築材料であり、これにより建てられた塔、バベルの
塔は、みかけはキリスト教の様でも似てもって非なるものです。

現在では、毎日の様に、キリスト教会は、冒涜的なニュースが聞かれます。アメリカ
牧師がヌードになったとか、同性愛の教職者等のニュースです。
これらこそ、似て非なるものです。こんなことをするのは、キリスト教会に潜り込んだ某民族の
偽牧師なのでしょう。日本でも同じことがもし、起きるなら、やはり、この民族のまわし者、
潜り込んだ偽牧師でしょう。彼等の特徴は某民族、すなわち、外人だということです。ですから、もし、日本でも同じ様なことを言い出す「外人牧師」が現れたら、それは
警戒しなければなりません。

”4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」”

ここでも神に反逆する彼等は「われわれが全地に散らされるといけないから」というように、
一つになること、統一されることについて言っていることがわかります。
ですから、聖書のいう不思議な原則、一つになり、反抗するという原則を覚えましょう。
このことは、国連の働きにおいて顕著であり、現在、国連主導で、世界統一宗教の実現が進められています。すなわち、仏教もヒンズー教もキリスト教も一緒にするというもくろみです。

いずれ、この世界宗教に反対する「不寛容な者の削除、排除」が
語られるようになるのでしょう。すなわち堅くみことばに立つ者への排撃です。かつてフランス革命の後、この国をギロチンにより支配したフリーメーソン、ジャコバン党(ヤコブの党、すなわちユダヤ人の党のこと)により、この国において、キリスト教が
廃絶され、「徳の神」なるものが崇拝されました。その徳の神なるものの実質はルシフアー崇拝でした。同じ様なことが世界規模で起きるのかもしれません。
しかし、これらの裏のある者達の試みは成功しません。以下の様に書いてあるからです。
 

”詩編2:1 なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。
2 地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
3 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」
4 天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。”

続けて見ます。

”5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。”
 

ここで、主は「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら..とどめられることはない。」といわれました。言い換えると、一つのことば、一つの民になることが、
この神への反逆が成功する鍵なのです。

国連すなわち、世界の民を一つにする運動はその主旨に沿っており、エキュメニカル運動は
まさにクリスチャンを一つにする運動であることを知るべきです。
すなわち、今、世界で行われ、キリスト教会で行われつつあることは、
一つになり、神へ反逆する日の準備なのです。

かつてバベルの日に分裂した世界の民族は今ひとつになりつつあり、同じ言葉、
同じ意見を持ち、一つの決定事項を出そうとしています。
ですから、今、世界は時計の針が逆回りするように、かつての日、バベルの塔の日に近付いていることを
知ってください。

日本の政治家もまた新聞も雑誌も示し合わせたように、「国連主導」といいます。
また、それらしく世論が誘導されています。日本だけでなく、世界中がそうなのです。

「今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」とのことばも暗示的です。
彼等、世界を支配したいと願う者達は何はともあれ、国連を高くあげます。
国連とは聖書でいう、「一つのことば、一つの民」になるということです。
そして、一つになれば、そこで、決定したことは、誰も逆らえないことを彼等は知っているのです。

エキュメニカル運動も同じ主旨で進められています。「統一されたキリスト教会で決定された
ことがらには、誰も逆らえない」という論法です。その様に統一した上で、
「キリストの再臨は2回あり、最初の時は、霊として見えない形で再臨する。その霊を
受肉した使徒、預言者は、キリストの権威を帯びる」などとの
トンデモ話を可決するのでしょう。そして、あの嘘つき狼少年ピーター こと自称使徒ピーターワグナーやら、デーモン男自称預言者ベニーヒンのいうことを聞かないものを削除しようというのでしょう。
これは、夢物語のようですが、聖書は、この時を預言して、この統一された教会を「小羊の様な2本の角を持つ獣」と表現しています。獣教会が実現する日は聖書に記されているのです。
残念ながら、この獣教会の働き、一つになった獣に対抗することのできる者は地上にはありません。
「今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」と書かれている通りです。

”7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。”

かつてバベルの日、主が降りて来られたことを決して忘れてはいけません。
これがかつてのバベルの物語の結論なのです。

「シンデレラが継母や意地悪なお姉さんにいじめられていた」のは事実ですが、
しかし、物語の結論はそれで終わってはいません。彼女は最後には王子様と結婚するのです。
そこが大事なのです。
同じく、我々はバベルの塔の物語りの結論を正しく把握しなければなりません。
それは、彼等のもくろみは成功せず、途中でとどめられてしまったということす。
何故か?
それは、主が途中で「降りて来られた」からです。主が降りてくる?
これは、終末の日において何を意味するのか?

何を意味するのかって、再臨以外何者でもありません。
ですから、ここではその日、未来のバベルの塔の日、最後の最後、彼等の反逆と
反抗と迫害と暴虐のその最後の時、主が天から降りてくる、そのことを語っているのです。

これを我々は再臨と呼んでいるのです。

ですから、聖書が語っている終末の日に関して正しくその意味あいを捕えなければなりません。
今、時代はまさにバベルの日に向かっており、世界は統一されようとしており、また、キリスト教会も
統一されようとしています。それとともに堅くみことばに立つものへの迫害と
困難が計画されつつあります。

これらはまさに聖書の預言通りであることをまず知らなければなりません。
彼等は創世記に書かれているようにバベルの塔を建設しようと志しているのです。

これらの企てはまさに実現するようにさえ思えます。
しかし、これらのことは実現せず、逆にその日、主が天から降りてこられる、そのように
聖書は語っていることを知りましょう。

主を待ち望む者は幸いです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー