No.388 王国を引き抜く


”テキスト:エレミヤ1:9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。
10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」”

かつて主がエレミヤを任命した時、その任命と関連して、「王国を引き抜く」と
預言されました。本日はそのことの意味あいを見ていきたいと思います。

テキストを順に見ていきたいと思います。

”9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。”

ここに「わたしのことばをあなたの口に授けた」と書かれています。
具体的にいうと、すなわち、神のことばをその預言者であるエレミヤに授けたと神は語っているのです。

この時、聖書は神が人に語る時、その方法があると語っているように思えます。
神は人にどう語るのか?

ぱっと神様が目の前に現れて何でも語り、教えるというわけではないようです。
逆に神は預言者を用い、彼を通して語る、また彼の口に神のことばをさずける、
その様な方法を用いることがわかります。

ですから、神が人に語る、神が人に何かを示すということは確かにあるのですが、
しかし、そのことに関しても神の方法があり、その方法とは、「預言者を通して語る」
という方法であることがわかります。

この聖書の方法を正しくとらえておくことは大事です。何故なら、終末の日においても同じ方法、手段を用いて神は語ると思われるからです。
何をいっているのかというと、終末の日にも神のことばが与えられ、預言者の働きをなす人(もしくは人達)があらわれるはずだからです。

終末の日に多くの偽預言者があらわれることは聖書の語る事実ですが、しかし、
それとともに一つのことを我々は知らなければなりません。それは、神はしかし、
真の預言者をも終末の日に遣わされるということです。

偽物が来る、それもたくさん来ることは聖書の語ることがらですが、
しかし、それとともに、聖書は「真に神により使われる預言者」があることをも
語っていることを知るべきです。かつての日にエレミヤの口に神がそのことばを置かれたことは
事実起きたことであり、真実であるように、終末の日にも同じく主はその
預言者にことばを与えられるはずなのです。

黙示録11章の2人の預言者はまさにそのような預言者かもしれません。

その人が真の預言者かどうかを見定める時、その自称預言者の預言が成就するかどうかは大きなみわけのポイントであることを知ってください。

何故私はそんなことを断言できるのか?何の権威によって?
それは他でもない聖書がそう語っているからです。

”申命記18:
20 ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」
21 あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、
22 預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。”

ここで、偽預言者みわけのポイントはその自称預言者を通して、いやしがあること、奇跡が起きること、金粉が舞うことでもなく、その預言者の語った「そのことが起こらず、実現しない」かどうかであることがわかります。要は、預言があたるかあたらないかの問題、そこにポイントがあるのです。

非常にはっきりしたことばであり、間違えようがありません。

しかるに近年の「第3の波」に浮かれている、愚かな日本の牧師連中があの偽預言連発、2003年日本リバイバル預言大外れのベニーヒン、ピーターワグナーまた、2004年が終わるとめでたくも偽預言者に仲間入りする予定の大口ビルハモンなどを預言者としてあがめているのはどういうことなのでしょうか?

彼等は聖書を読んだことがないのか?残念ながら、そうかもしれませんね。
またはこの申命記が抜けた65巻の聖書を読んでいるのかもしれません。是非、
書店にいって、全ページそろった聖書と換えてもらうようお勧めします。

彼等の中には、「新約の預言は吟味が必要だから、いくら外れても問題ない」なんてびっくりするような、
異端まがいの教理を持ち出す人までいます。
しかし、聖書に記された新約の預言、たとえば使徒行伝に記された預言にしても
外れている預言などないことを知るべきです。使徒21章の「パウロがエルサレムで縛られる」というアガポの預言にしてもまた11章のききんの預言にしても主にある預言者の預言は、みな実現しているのです。

「公に語りしかもみごとに外れるならそれは偽預言者である第一の条件」であるという、
聖書の原則は旧約においても新約においても事実であることにかわりありません。

聖書を知らない阿呆たれの様に、「新約の預言はいくら
外れてもOK」などと聖書と懸け離れたたわごとをいうべきではありません。

上記申命記の箇所には、預言者の吟味に関連して、たった一つ、「預言が外れるかどうか」だけを語っています。その唯一の審査の基準を無視して、偽預言連発のベニーヒン等を大歓迎する某教会、教団の人々は、もう「聖書が基準」の人々とはいえません。彼等はすでに「聖書の基準より、だいぶ向こうへいってしまった人々」の様に思えます。
 
 
 

さて偽預言者のことを大分書いてしまいましたが、この主題が主旨ではありません。
そうではなくて、神はその言葉を語る時、必ず御自身の預言者を用いるということを語りたいのです。
今でも?私はそう思います。
そして、その神からの預言者のことばを聞き入れない時、災いに入ります。
それは、神のことばを退けたからです。


10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」”

神のことばが預言者の上に下り、神がその預言者を用いようと定めた時、彼、預言者は
大変な権威と力を持つようになります。

上記ことばはそれをあらわします。預言者が
王国を引き抜き、引き倒す?大根じゃあるまいし、などと思うかもしれませんが、
しかし、そう書かれています。

この箇所では、具体的にこのことばはエレミヤに与えられています。

サムソンや、ヘラクレスならともかく、エレミヤという預言者が力持ちとは思えません。
彼はどうやって大根ならぬ、王国を引き抜こうというのか?
レンブラントが「悲嘆にくれるエレミヤ」という名画を描いています。そこには、
炎上するエルサレムをバックに悲嘆にくれる彼、預言者エレミヤの姿が描かれています。
その絵のエレミヤは年の頃、60過ぎ、白髪混じりの髪、また髪がうすく、禿げているところもあります。
頼り無い、力の弱そうな小男、そんな印象を受けます。
本物のエレミヤもこんな感じの人だったのかもしれません。

こんな男に王国が引き抜けるのか?彼が引っこ抜けるのはいいところ、にんじんやごぼう、はたまた大根どまりではないのか?そんな風に思う人がいるかもしれません。

しかし、事実、このことばは成就し、彼、エレミヤのことばを聞き入れなかった、
ユダの国は引き抜かれ、バビロンへ捕囚となっていったことを知りましょう。

さて、このこと、神が預言者を通して与えたことばに聞き遵わない時、その国が引き抜かれるというパターンは今でも繰り返される、否、今こそ、このことばが成就する時代であることを知りましょう。

かつてのエレミヤの様に神は今の時代においてもそのしもべ、預言者を遣わされます。
そして、その声を退けていく時、その教会、教団、集まりは何と神の前から引き抜かれる、
そのことを知りましょう。

”見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、”

神はその預言者を選び、そして、その預言者に神の権威と決断の威信を与えます。
その役割は重いものですが、しかし、驚くべきことには神は人にそのような役割を事実与えるのです。

エレミヤは主イエスの働きのある一面を語る型でもあります。何をいっているかというと、主イエス
の働きの中には、エレミヤの様に王国を引き抜く働きも含まれているのです。

エルサレムはイエスのことばを聞き入れず結果として神の前にも人の前にも引き抜かれました。

しかし、ガリラヤの漁師達はこの預言者のことばを受け入れ、結果として、彼等の王国は堅く立ち、
教会は堅くこの地に根ざしました。

さて、終末にもこの働き、すなわち王国を引き抜くという働きは再度起きてくる、その様に思えます。

すなわち、終末に神により、起こされる預言者の声を聞き入れず、歩みを改めないなら、
並びのない王国であっても引き抜かれてしまうのです。

具体的には引き抜かれてしまうとは、教会や教団が引き抜かれるとはどういうことなのでしょう?
悪評がたって、日本のキリスト教会に存在できなくなる、そんなことなのでしょうか、よくわかりません。
 

一つ想像できることは、預言者の声を聞き入れない時、引き抜かれる、そんなこともあり得ると思えます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー