No.383 ささげものを受けない


テキスト:”マラキ1:10 あなたがたのうちにさえ、あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。わたしは、あなたがたを喜ばない。「「万軍の主は仰せられる。「「わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。”
 

本日は「ささげものを受けない」という題でメッセージをしたいと思います。
新約の我々は旧約でいう意味あいでのささげものをもうささげてはいません。
牛や羊、また穀物のささげものなどはもうささげていないのです。しかし、聖書的にいうなら、
旧約のささげものとは、新約でいういわゆる「奉仕」、「働き」のたとえといえるように思えます。「賛美のいけにえ」ということばがあります。賛美の奉仕はそれはそのまま、今の新約の我々が神に捧げるいけにえ、ささげものの一つなのです。

さて、ささげものを我々が神にささげることは、感謝であり、喜ばしいことなのですが、
しかし、神は時に「ささげものを受けない」と拒絶することがあるのです。このことを見ていきたいと
思います。

上記テキストには明らかに「わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。」と
書かれており、神は人からのささげ物を受けないと語られています。
これは新約の光、またたとえを理解するなら、何と神は我々が神の前に行った奉仕、働きを
受け入れない、拒絶する、そのようなことがあると語られているのです。
これは本当でしょうか?
よくよく調べるべきことがらと思われます。

ある人が毎年、知人の女性にお歳暮を送ったそうです。
毎年、毎年、漬け物を喜んでもらっていると思って送っていたそうです。
だいぶ経って、この女性が死んでしまいました。その葬儀の時、わかったことは、
何とこの女性は「漬け物が大嫌い」だったということなのです。
せっかく毎年贈っていた「漬け物」はこの女性には喜ばれていなかった、受け入れられていなかった
ことが後で判明したのです。

さて、同じことが神へのささげもの、奉仕に関してもいえるでしょう。せっかく時間も手間もかけて、
奉仕をし、しかも実は神から「わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。」などと
いわれていたのではたまったものではありません。

このことを見ていきたいと思うのです。
さて、聖書の中で、「受け入れられるいけにけ」と「受け入れられないいけにえ」とを描いた箇所はといえば、以下の最初の兄弟、カインとアベルの箇所です。

”創世記4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

この箇所を見ていきましょう。

”1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。”

ここにアベルとカインが描かれています。彼等は「ささげもの」に関して全く対照的な兄弟です。
すなわち、片方のささげものは受けいられ、他方は受け入れられなかったのです。

クリスチャンの中にも全く対照的な2種類の人々がいます。片方の神への奉仕はそのなすこと、行うことが祝され、神に受け入れられ、喜ばれるそんな人がいます。他方、何をやっても、どんなに頑張っても
何年経っても、神に対して行った奉仕も活動もことごとく、実を結ばず、途中で挫折し、何も残らず、
あたかも全く拒絶されているかのような歩みをする人もいます。

「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者」

羊を飼う者とは、牧会の奉仕に携わる人々のたとえ、教訓です。要するに牧師をはじめとした奉仕をする人々のことです。
また、土を耕す者も同じくみことばの種をまき、育てるという意味あいで、牧会の奉仕に携わる人々のたとえです。
しかし、片方はアベル、他方はカインとなります。すなわち、同じように主の奉仕に携わっているようでもある人の奉仕は神に受け入れられるアベルの様な奉仕になり、またある人は神に受け入れられない奉仕で終わってしまうのです。その2つの違いを見ていきたいと思うのです。

3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。”
 

カインは神へのささげ物を持ってきました。今でいえば、神に対する奉仕、働きを
なしたのです。しかし、残念なことには彼の奉仕は神に受け入れられなかったのです。
そんなわけで、我々は神に奉仕をすればよい、何でも行えばよいというものでもないことを知らなければなりません。

もちろん、奉仕をするな、行うな、実行するなと一概に言っている訳ではありません。
奉仕は大事です。しかし、受け入れられない奉仕、神に目をとめられない働きというものが厳然と
存在することを知らなければならないのです。

”4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。”

さて、アベルのささげ物に対して、神は目をとめられました。それで、彼、アベルのささげものこそ、我々クリスチャンが目を止め、注目すべきささげもの、奉仕なのです。我々は彼にみならうべきです。
 
 

「羊の初子の中から、それも最良のものを」

羊の最良のものということばを通して聖書は何を語っているのでしょうか。
羊のささげものに関してはレビ記に記されています。
 

”レビ22’18 「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。だれでも、イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人がささげ物をささげ、誓願のささげ物、あるいは進んでささげるささげ物として、全焼のいけにえを主にささげるなら、
19 あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。
20 欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れられないからである。
21 また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。
22 盲のもの、折れたところのあるもの、傷のあるもの、あるいは、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの、あなたがたはこれらのものを主にささげてはならない。また、これらのものを主への火によるささげ物として祭壇の上にささげてはならない。
23 牛や羊で、足が伸びすぎているか、またはなえ縮んだものは、進んでささげるささげ物とすることはできるが、誓願のささげ物としては受け入れられない。
24 あなたがたは、こうがんの押しつぶされたもの、砕けたもの、裂かれたもの、切り取られたものを主にささげてはならない。あなたがたの地でそのようなことをしてはならない。
25 また、あなたがたは、外国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとしてささげてはならない。これらのものはそこなわれており、欠陥があるから、あなたがたのために受け入れられない。”

ここを見てみましょう。

”19 あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。
20 欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れられないからである。”

傷のない牛、羊をささげなければならないと聖書は語ります。
これは牛や羊の体、外見について語っていますが、しかし、これはたとえ、
現代の羊である、クリスチャンが神の前にささげもの、奉仕をする時、気を付けなければならない、
条件について語っていると思います。
傷のあるクリスチャンはだめなのか?交通事故を起こして怪我したり、病気で体が弱い人は神に受け入れられないのか?
いいえ、そうはやとちりしないで。繰り返していいますが、これはたとえなのです。
主は私達の外なる人、すなわち、体がスーパーマンのように頑丈、健康だとか、スーパーモデルのような容姿だとかには、気をとめていないようです。
それらは単なる外なる人に関することがら、問題に過ぎません。
しかし、神は私達の内なる人、内側が「傷のないもの、欠陥のない者」であることを重視しておられます。

いいえ、重視しているとか、こちらの方がより好ましいという問題ではなく、「欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。」と書いてあるのです。
神は何故そんなにまで、きびしいことをいうのか?偏狭ではないのか、なんて意見があるかもしれません。その理由として、「それはあなたがたのために受け入れられないからである。」と書かれています。
神へのささげもの、すなわち、奉仕はもちろん、第一義的に神へささげられる物ですが、
具体的にはそれらの奉仕は「あなたがた」すなわち、我々一人一人にかかわってきます。たとえば、
牧師が何か霊的に欠陥があり、たとえば、ベニーヒンとかの追っかけをしており、悪霊も聖霊も見分けられない欠陥牧師、盲人牧師だとすると、その不利益は「あなたがた」すなわち、我々一同に
及ぶのです。それで、受け入れられないのです。
 

”21 また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。
22 盲のもの、折れたところのあるもの、傷のあるもの、あるいは、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの、あなたがたはこれらのものを主にささげてはならない。また、これらのものを主への火によるささげ物として祭壇の上にささげてはならない。”

「盲のもの」すなわち、盲の羊はささげるなと書かれています。
何故、盲の羊をささげてはいけないか、すなわち何故盲のクリスチャンを奉仕に立たせてはいけないのか?
それはいわずともがなで理解できるでしょう。
怪しい聖霊の第3の波の教えを信者に受け入れさせるような牧師では、信者は皆、毒水を飲むようになり、
最悪の結果を教会にもたらすからです。

「うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの」とは要するに悪いばいきんにやられて、
体の内部が侵され、その菌が体の外にまで出てきている訳です。このうみや湿疹にさわる人は病が伝染します。

何をたとえているのか?要するに我々の内側が病、霊的な病に侵されているということなのでしょう。
そして、うみや湿疹から病原菌が感染するように、我々の内側に何か病があり、霊的な
病があるなら、それは伝染します。たとえば、説教の奉仕をしているなら、
それを聞く人々が同じ変な霊、おかしな霊、罪にやられていきます。
罪は伝染します。罪が伝染するとは聖書の表現にはありませんが、聖書的にいうなら、
「罪のパン種」は3斗の粉に広がると表現できるでしょうか。そのようなわけで、(悪い霊の病に侵されたまま)奉仕につくべきでないし、
私達が霊的におかしな霊にやられており、内側に病があるなら、我々は、神への奉仕につくべきではないのです。

”23 牛や羊で、足が伸びすぎているか、またはなえ縮んだものは、進んでささげるささげ物とすることはできるが、誓願のささげ物としては受け入れられない。”

足が長過ぎたり、短すぎるものも捧げものとして受け入れられないようです。
足が短いと神様の奉仕につけないのか?差別だなんていう人がいるかもしれませんが、
そういう問題ではなく、これもたとえでしょう。
足は信仰の歩み、実行に関係しているでしょうか。私達は「足がなえ縮んだもの」すなわち、
実行が全くない、みことばを行うことなく、ただただ、口先だけのクリスチャンであるなら、主の
奉仕には不向きであることを知りましょう。理屈だけのしもべ、いうだけで主人のことばを何も実行
しない僕など、はっきりいいますが、役に立たないのです。

長過ぎるのもよくないと書いてあります。長過ぎるなら良いのでは無いか、大は小を兼ねる、長いのは短いのを兼ねるのでは無いか?などという意見もあるかもしれませんが、そうでもないようです。
長いとはすなわち、普通より足が伸びすぎているわけです。この問題は何か?
足が行い、実行をさしていると考えるなら、これはすなわち、「書かれていること」を
超えてしまっているといえるでしょうか。主よりまた、そのことばより、先に行ってしまっているのです。
熱心で実行ははあるけれど、主より先にいっているパターンです。これはこれで問題なのだということを知りましょう。

”24 あなたがたは、こうがんの押しつぶされたもの、砕けたもの、裂かれたもの、切り取られたものを主にささげてはならない。あなたがたの地でそのようなことをしてはならない。
25 また、あなたがたは、外国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとしてささげてはならない。これらのものはそこなわれており、欠陥があるから、あなたがたのために受け入れられない。”

こうがんのたとえは何か?これは精子すなわち、子種に関係することですから、
子を産むこと、救われる人、主に触れる人を起こすことに関係しているのでしょう。
だから、こうがんのつぶれたもの、すなわち人を産ませないものは、奉仕につくべきでないし、
そのようなささげものを主は受け入れないのです。

神のみことばの種をを正しくまけば、人は救われ、新生が起きるはずなのです。
しかし、どこかの愚か者カンタベリー大司教の様に、「キリストの復活は信じない」などと、
不信仰なことをいうトンデモおじさんは、神の前に仕えるべきではありません。
せっかく教会へ行ってこんな不信仰なことを聞かされていては誰が信じて新生するでしょうか?
同じく、「進化論は科学的(創世記の記事は神話)」などと、CSの子供が信じていることさえ、
信じていない驚くべき、不信仰じいさん、某
ローマ法皇、もう一度CSから教会生活をやりなおす必要のある彼は、聖書のことばによれば、間違っても神に仕える資格はないのです。この不信仰じいさんの教えを受け入れたマザーテレサは真の救い主への信仰を持てず、不信仰の中で生涯を終わりました。

「私と神との間の距離はあまりに遠く、とても近ずけるように思えない」と彼女は、
その手紙の中で嘆いています。生きている時、真の救い主に出会えなかった人間が、
死後どこにいるのか?天国にいるようにはあまり思えません。
いくらわざとらしく、福者なんて呼ばれたってそれではしょうがないでしょう。
この様なマザーテレサ、イエスを唯一の救い主と認めない、ヒンズー教徒も仏教徒もその
ままで天国へいくなどと信じ、クリスチャンの根幹が危ない人物をことさらに持ち上げるのは
隠れた意図があるのでしょうか。

「これらのものはそこなわれており、欠陥があるから、あなたがたのために受け入れられない。」と上に
書かれていますが、まことにこれらの不信仰な「新生する子供」を産まない、教師、神父、教皇は、

神のみことばに照らせば、神に仕える資格を全く持っておらず、逆に彼等は神により、<<アナテマ>>、呪われるべき存在です!!!

 

 

もう一度アベルの記述に戻ります。

「それも自分自身で、持って来た」
 

ここでは、自分自身でささげものを持ってきたことが書かれています。
自分自身ということばに何か隠れた意味あいがあるように思えます。このことばは、
以下のことばと関係するように思えます。

”ロマ12:1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。”

ささげものという時、実は自分自身が大事、問題だということが聖書の主張であるように思えます。
神への奉仕は、すなわち、私達自身がどういうものなのかと密接に関係しているのです。
陰で悪いこと、たとえば万引きとかをしながら学校の先生を続けることは可能か?
あってはならないことですが、現実にはあり得るかもしれません。
隠れてしていて、ばれなければ何年でも勤めることは可能でしょう。出世だってするかもしれません。
同じく、悪いことをしていながら、しかも医師として成功することも可能でしょうし、
また、経営者として成功することも可能でしょう。

でもしかし、神への奉仕、神に受け入れられる奉仕に関しては別のようです。何故なら、
上記ことば、「あなたがたのからだを、..、生きた供え物としてささげなさい。」とのことばは、
明らかに現実の我々の体を聖別することに関して語っているからです。

”5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。”
 

さて、神はアベルのささげものを受け入れ、カインのささげ物には目を留められなかったのです。
我々の間でもこんなことがあります。同じ様に奉仕しているつもりなのにある人の奉仕は神に受け入れられ、祝されているのに、私の方はさっぱりだ、そんなことがあるのです。

何故カインのささげ物には神の目が注がれなかったのでしょうか。
その理由は上記のいくつかのみことばの中に明確に隠され、暗示されているように思えます。
神に受け入れられたアベルのささげものは、最良のそして、自分自身で持ってきたささげ物です。
そう書かれています。しかし、カインのささげ物に関してはそのように記述されていません。
ですから、彼のささげ物の問題、奉仕の問題は、最良のものでない、霊的な病や傷や
問題があるままで奉仕をつづけようとしていること、さらに自分自身をささげていない、
すなわち教会で人の目に見えるところで奉仕しているようでも、
体はこの世についたままであること、それがわかるのです。

”カインはひどく怒り、顔を伏せた。”

彼、ささげものをささげながら、神に受け入れられなかった彼、カインの怒りは
わかるような気がします。
我々だって何年も一生懸命主に仕えたはずなのに、何の実も結ばず、何もかも
徒労に終わるなら、悔しさや怒りが起きてくるかもしれません。
しかし、そうであってもいやそうだからこそ、一体聖書でいう、神に受け入れられる奉仕、ささげものとは何かを正しく理解しなければならないと思うのです。
 

”6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」”

さて、これらのささげ物の話の中に何故だか、罪に関する記述が出て来ます。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」と書かれているのです。

罪と我々の奉仕が神に受け入れられるかどうかは関係があります。
罪は我々を恋い慕うかもしれませんが、我々が神に奉仕をささげるつもりがあり、しかも神に受け入れられる奉仕を行うつもりなら、罪に流され、罪を犯すべきではありません。逆にそれを治めるべきなのです。

もし、それを選ばない、罪の道を選ぶということなら、神への奉仕が受け入れられることもあきらめなければならないのです。
これら2つは両立しません。
 

これらのことをとらえ、主に受け入れられる道を歩みましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー