No. 382 助け手


”ヨハネ16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。”
 

本日は「助け手」という題でメッセージしたいと思います。
助け手としての聖霊に関して見ていきたいと思うのです。

かつて主はこの世を離れようとする時、その弟子達に、もう一人の助けぬしについて語りました。
それは、聖霊のことであり、この方の働きは我々を助けることであることがわかります。
さて、聖霊なる方が「助けぬし」であることはよく知られたことですが、このことは、
また以下のエデンの園におけるみことばの成就でもあります。
 
 

”テキスト:創世記2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
19 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
22 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」”

ここには、女性の助け手(
helper)が書かれています。
これは、ヨハネの福音書に書かれた「助けぬし(helper)である聖霊」と通じる表現であると思えます。
通常、この箇所からいわれることは、女性は教会であるという意味あいです。
もちろんそれはその通りなのですが、しかし、我々は聖書の語る多面性をも見ていきたいと願っています。

聖書は明らかに女性としての立場である、聖霊について語っています。以下の通りです。

”マラキ2:13 あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。
14 「なぜなのか。」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。
15 神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。
16 「わたしは、離婚を憎む。」とイスラエルの神、主は仰せられる。「わたしは、暴力でその着物をおおう。」と万軍の主は仰せられる。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。”
 

ここに書かれている若い時の妻とは確かに聖霊に関する表現です。
さて、これらの理解に基づき、上記創世記に描かれた「助け手」について見ていきましょう。
 
 

”テキスト:創世記2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
19 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。”
 

順に見ます。

”18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」”

”人が一人でいるのは良くない。”と描かれています。
確かに一般的にいって、一人すなわち、男性が独身でいるのは、良いことではありません。
立派な仕事を成し遂げた男性には、目立たなくても実は立派な内助の功、
奥さんの力が大きいことが多いのです。
独身の男で何が良く無いのか?
私もかつて独身だったので、よく知っています。
男が一人でアパートで暮らしていると、部屋が汚くなり、
洗濯もろくにしないので、何日も同じ靴下でくさかったりします。
それから、一人でろくな食事など作りはしないので、毎日カップラーメンだったりするのです。
本当にろくなことにはなりません。
独身貴族どころか、悲惨な独身生活だったりするのです。
たしかに「人が、ひとりでいるのは良くない」のです。
しかし、良い伴りょを得、良い助け手を得ると、ちゃんとした食事を3食食べられるようになり、
洗濯したワイシャツを毎日着ることができるようになるのです。

さて、このことは、我々クリスチャンの送るクリスチャンライフに関しても言えます。この面においても、いやこの面においてこそ、「人が、ひとりでいるのは良くない」のです。

私達が一人で、誰の助けもなく、クリスチャン生活を送ることを考えてみましょう。

あるクリスチャンが若かった時のことです。彼が道を歩いていると、突然「君は聖書を読んだことがあるのか」と問いかけられます。
「おっ、キリスト教の教えか」とばかりついていくと、数人の男女が集まる
家に連れていかれます。そこでは、男女が何人も出入りし、何か忙し気に活動しているようです。
「我々はここで、聖書に基づいた生活をしているんだ。使徒行伝にあるように、ともに
住み、共同生活をしているんだ」
「なるほど」それを聞いていると何だか非常に聖書的のようにも見えるし、
うらやましいような気もします。

しかし、どうにも腑に落ちないところもあります。そのような時どうするか?
我々の助け手である方に聞くのです。「彼等は本物のクリスチャンでしょうか。彼等を信じてよいのでしょうか」その時、我々にとって真の助け手である方は正しい助けを与えてくれるでしょう。
事実は彼等は「統一教会」の信者達であり、彼等についていくなら、危険が惑わしが待っているのです。
そのことを助け手なる方は知らせてくれます。

また、「わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」とのことばも暗示的です。
これはアダムに関することばですが、それはまた、全てのアダムの子孫、またこの世で主に仕えていこうとする全ての男女に対することばではないかと私は思っています。

私達が、もしお百姓さんになり、畑や田んぼを耕して生活していこうとするなら、
それにふさわしい妻が必要です。一緒に田植えを手伝ってくれる妻、これが百姓にふさわしい「助けて」です。
同じく、商店の妻は、お客相手にレジを打ってくれる妻がふさわしいでしょう。同じく魚屋の妻は、また教師の妻は...というようにふさわしい「助け手」の定義は異なります。
しかし、ここでは、「彼にふさわしい助け手を造ろう」と書かれています。
このことばは非常に暗示的であり、示唆的です。

何をいっているかというと、この方、私達の「助け手」である方は、私達の状況、
生活、環境がどうであろうと、どのように変わろうとしかし、どのような時でも
常に私達の「ふさわしい助け手」であるからです。

私達がクリスチャンになって間も無い時、この「助け手」は、どのようにして
クリスチャン人生を始めるか、教会に参加するか、教えてくれます。
また、更に年月が過ぎ、クリスチャンとしての経験が多くなり、他の新しい「教え」を
受けたとき、この「助け手」は、正しいことを教えてくれます。
「この教え、2段階携挙説は多くの人に受け入れられているが、しかし、何か違う」といように
教えてくれるのです。
どのような時、環境でも聖霊の助けは不変なのです。

つくづく思うのですが、クリスチャン人生ということは何とも難しく、自分ではとても解決できないような、多くの
難問を通るものです。

そしてだからこそ、主はその創世の始めに、「人がひとりでいるのはよくない」と語られました。
一人の歩みはよくないのです。
ですから、間違えてはいけません。クリスチャン人生は、一人ではとてもまともにやっていけないものなのです。
そして、この歩みを一人で歩くように決して神は命じておられないのです。
世の中で成功する社長や、政治家の裏に必ず内助の功、妻の助けがあるように、我々の歩みが成功するかどうか、
正しい道を歩めるかどうかはひとえにこの「助け手」にかかっているのです。

この助け手なる方を尊重する人々にみこころがあることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー