No.378 みつかいを遣わす


テキスト:”マタイ13:
37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。”
 

本日は「みつかいを遣わす」という題でメッセージしたいと思います。
終末の日には、主は「みつかいを遣わす」ということの意味あいを見ていきたいと思います。

終わりの日に主はみつかいを遣わすという箇所は聖書に何箇所か出て来ます。
そのうちの一つは上記マタイ13章の「麦と毒麦」のたとえです。

この箇所から見ていきましょう。

”37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。”

人の子とは、私達の主のことです。
主の蒔かれたのは、良い種です。種はみことばであり、主のまかれたことばは聖書のことばであり、
健全な教理です。しかし、いつの間にかこの「良い麦」のみしかなかった畑に毒麦がまかれていくのです。
それで、聖書は、教会の未来に関して非常にはっきりとした預言を与えていることがわかります。
それは、始めは純粋だが、しかし、時とともに堕落、変質していくという原則です。
これは聖書の中で一貫していわれていることです。

”38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです”

畑の中には、良い麦も毒麦もどちらも育ちます。これが聖書の述べている「事実」です。
これを教会に当てはめるなら、教会の中には、「御国の子」も「悪い者、悪魔の子」もどちらもいる、そう聖書は語っているのです。「教会に悪魔の子がいる?そんな馬鹿な。教会の中の全ての人は、
皆、神の子のはずではないか」などとびっくりする人がいるかもしれませんが、
しかし、どんな場合でも「聖書のいうことが正しく」否、「聖書のいうことのみ」が正しいのです。
惑わされたり、変な人間主義、ヒユーマニズムに陥ってはいけません。
主はペテロに「あなたは神のことを思わず、人の事を思っている」と叱責されました。
「人のことのみ考えること」をヒューマニズムというのです。

”39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。”

毒麦をまいた者は悪魔です。そして、麦、毒麦は、「みことば」と関係したことばです。
麦は、パンと直結したことばです。この麦は「みことばを食べて育つ者」としてのクリスチャン
のたとえです。同じく「羊」は羊飼いに飼われる者としてのクリスチャンのたとえ、
「魚」は水、すなわち、聖霊の中で生きる者としてのクリスチャンのたとえです。

元に戻りますが、聖書ははっきりと悪魔の毒麦が育つこと、教会の中で育つことを述べています。
ですから、終わりの日に毒麦、悪魔の教え、教理が入って来ると述べることは全く聖書的なのです。
 

「収穫とはこの世の終わりのことです。」

さて、このように麦も毒麦も混沌として、とても区分のできない教会に対して、
世の終わりにはそれらを区分する厳然たるできごとが起きて来ます。
それは世の終わりに起きる「収穫」のことです。収穫ということを考えてみましょう。
「収穫」とは「同じもの」をまとめて集めることです。
「トマトの収穫」といえば、ナス、キュウリやらも畑に実っているかもしれませんが、
「トマト」ばかりを集めて「収穫」することです。
同じ意味あいで、主は終末の日に「麦」と「毒麦」との区分をするといわれるのです。
麦は麦ばかりで収穫され、毒麦は、毒麦ばかりで収穫されるのです。

”40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。”

ここで書かれているのは、まさしく収穫であり、その日、麦も毒麦も混ざり合っており、
混沌としている教会の中に収穫が行われ、そして、みごとに「毒麦」だけが刈り取られていくでしょう。
これは、具体的には、現在行われている「聖霊の第3の波」系の怪しいリバイバルの「火」のことです。
毒麦すなわち、偽りの教理を喜んでいる人々は、これらの霊の「火」に燃やされ滅んでいくでしょう。
「神の働き人を通して悪霊が下されるなんて信じられない」という人もいるかもしれませんが、
「この世の終わりにもそのようになります」と書かれている以上、この世の終わり、終末には必ず起きるのです。

その日、不思議なことが起きるでしょう。怪しいリバイバルが起き、みわけにくいリバイバルが起きます。
そして、ある人々はこの「火」に引かれていき、巻き込まれ、だまされていきます。しかし、
ある人々は惑わされません。何故、そのように分けられるのか、その区分は何を通して起きるのか?
その区分は、ここに書いてあるように、麦、毒麦の区分であり、「悪い者の子ら」はみな、この火に焼かれていくのです。

”41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、”
 

さて、ここで主がその「御使いたちを遣わ」すことについて書いてあります。
この「御使い」とは何をさすのかを考えてみましょう。
「御使い」とは文字どおり、使い、天使、エンジエルのことだと普通は思います。
もちろん、そうでないということはないのですが、しかし、もう一つの意味あいがあるようにも思います。
実はこの「御使い」と訳された原語は、他の箇所では、人間の「働き人」をさす箇所でも使われています。
ですから、この箇所は、「働き人」、講壇に立つ人々をさしている可能性もあります。
しかし、そのように考えるとまさに今の状況にぴったりです。

怪しい霊を下す働き人が、プロテスタント、カソリックといわず、多くの教会でどんどん起きています。
「何故神はこのようなことを起こされるのか?」という疑問も起きないではないかもしれません。
しかし、よく聖書を読むなら、実はこれは、イエスキリストから送られてきていることがわかります。
何故なら、「人の子はその御使いたちを遣わします」と書かれているからです。

ですから、私達は恐れなければなりません。恐るべき方を恐れなければなりません。
ある人々は、大きな間違い、考え違いをします。主イエスは無力であり、
また裁きといってもたかがしれていると思うのです。いえ、そう言葉でいわないにしても、
心の中でそう思っている人が多いのです。

しかし、..私達は主を恐れるべきです。何故なら、終末の日の惑わしの働き人は、「人の子」すなわち、
主の許しの下で送られてくるからです。
これはさばきであり、報復の日です。

人からの惑わし、偽りなら、私達の理性、方法、知恵をもって抜け出ることができるかもしれません。
しかし、それが「人の子」すなわち、主からのものなら、我々がどのようにして抜け出せるでしょうか?
人の出した難問、奇問なら、同じ知能を持った人なら解けるかもしれません。
しかし、それが全知全能の方からのものなら、どうして、この難問を解いて、それから免れることができるでしょう。
私達は、主を恐れなければなりません。何故なら、
これらの私達の目の前で活躍している怪しい働き人は、何と、人の子である、主御自身から遣わされ、
不義なるものを飲み込むべく計画されたものだからです。

欧米のサイトからの情報によれば、もうすでに多くのキリスト教団体、教派がこの流れに賛同を表明しています。既に「聖書に堅くつく」人々は、カルト、敵、削除すべきものとする風潮が欧米で起こりつつあるということです。その日がいつか来るのではなく、もう既に到来しているのです。

「つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて」

ある人々は、この偽りの火に誘き寄せられ、引かれていってしまいます。
また、惑わされず留まる人もいます。その違いは何なのでしょうか?
ここに書かれていることばがその答えです。すなわち、これらの惑わされる人々は、
「つまずきを与える者や不法を行なう者」達なのです。
ここには、例外がありません。何故なら、主のなさることだからです。

この終わりの時代、偽りの霊のリバイバルが起きますが、そこに入っていく人々の特徴は、
誰も彼も「つまずきを与える者や不法を行なう者」なのです。

何故そういえるのか?主がそう言う以上、そうなのです。
ですから、この時代、私達の外見がどうとか、人前でどうということではなく、
私達が真にどのような者なのかが大事なのです。

人には見えない区分を主はなされ、隠れたところを見ておられる主は人を区分するのです。
既に多くの人が惑わしに入っています。

「42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

炉の中は火が激しく燃えます。その火により、石も鉄も溶かしてしまいます。
まことに恐ろしい場所です。この火は、霊のたとえであり、要するに毒麦である
人々は、霊の惑わしのまっただなかに入り込み、霊の火にすみずみまで焼かれ藻やされるということをいっているのでしょう。

繰り返していいますが、今、アメリカにおいて、この惑わしの霊、リバイバルは激しく
燃え盛っています。炉の中に投げ込まれ、偽りに隅々まで、燃やされた人も多いです。
今、油塗られた使徒、預言者の権威に従わない「反キリストの霊に満たされた反逆者」を削除、要するに殺りくするために、ヨエルの軍隊というものが設立されたとの話もききます。
霊の火に惑わされた人々が参加するのでしょう。
しかし、「聖霊を汚す者の罪は今の世でも後の世でも許されないこと」を知りましょう。

「聖霊に満たされた人々」を悪霊、反キリスト、反逆者呼ばわりして迫害することこそその
「聖霊を汚す罪」です。

”43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。”

このような詐りと惑わしのまっただなかにあって、正しいものたちは、輝きます。
ですから、最後まで、正しい一群の人々がいます。彼等につくものに幸いがあります。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー