NO.375 エステルの日


テキスト:”黙示録11:
10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。”
 

本日は「エステルの日」という題でメッセージしたいと思います。

終末の日に、旧約聖書エステル記に記されている「ユダヤ人の敵を除く日」が再現する、そのことを見ていきたいと思うのです。

上記テキストには、二人の預言者が殺されることが書かれています。この二人の預言者とは、以前見たように、2種類の教会、クリスチャンの集まりと思われます。
彼等は神の証しを行い、そしてそのゆえに殉教の死を遂げるのですが、その記述の中に興味深い記述があります。

「また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。」

ここで、この証人を殺した人々が「喜び、贈り物を贈り合う」という記述があります。これは、聖書の中で、ありそうであまりない表現です。
しかし、旧約聖書、エスエル書の中で、全く似た記述があります。以下の通りです。
 
 

「エステル9:20 モルデカイは、これらのことを書いて、アハシュエロス王のすべての州の、近い所や、遠い所にいるユダヤ人全部に手紙を送った。
21 それは、ユダヤ人が毎年アダルの月の十四日と十五日を、
22 自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。」

ここで記されている「喜びの日」「贈り物をする日」とは、まさに黙示録の記述と似ています。
黙示録には旧約聖書から何百もの引用があります。それらの引用により、それぞれ、聖書を書かれた神が語っていることがあると思われます。同じ意味あいで、この箇所、エステル書の「喜ぶ、贈り物を贈る」という記述が黙示録に記されていることで、聖書が語っていることがあると思われるのです。
それは何でしょう?

私が思うのには以下のことです。

*エステル書において、その「贈り物を贈る日」が「ユダヤ人の敵を除く日」であったように、
終末、黙示録の「贈り物を贈る日」も「ユダヤ人の敵を除く」ことと関係する。
すなわち、ユダヤ人の陰謀をあばいたり、彼等の偽りの教理に反対する者を「取り除く」日かもしれない。

*この主につく証人の殺害を計画、予定、実行しようとしているのは、(偽)ユダヤ人である。

そんなことが読み取れるように思うのですがどうでしょう。
とりあえず、その観点に沿ってこの箇所を見ていきましょう。
上記テキストは以下の箇所からとりました。

”黙示録11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。”

この箇所を順に見ます。

3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」”

終末の日に2人の預言者が現れます。その日、終末の日に預言者が現れることを語ることにより、
聖書が暗示していることは何でしょう。それは、かつて、預言者エリヤが現れた時のように、
神の民の教会は、バアル崇拝、 アシラ崇拝がはびこり、真の神に仕える人々は少なくなる、そのことを暗示しているのです。また、かつて、預言者エレミヤが現れた日のように、祭司も律法学者も道を踏み外し、神の民の歩みが誤る、そんな日が終末に来ることを聖書は暗示しているのです。
何もないのに、消防自動車はサイレンを鳴らして登場しません。そこに「火事」がある時、
登場するのです。同じ意味あいで、預言者が終末の日にあらわれるのは、民もまた、王すなわち、
神の民の長である、教団の長なりが、道を踏み外している、そんな日が来ることを暗示しているのです。

そして今はまさにそのような時です。アズサストリートリバイバルに端を発する、怪し気なリバイバル、後の雨運動の霊は、更に勢いを増し、聖霊の第三の波として、世界の教会を席巻しようとしています。
この波が怪しい霊であることは以前に伝えた通りですが、それとともに、附随する
要理も怪しい教理です。
kingdom now, dominionism, manifest son, 再建主義、ヨエルの軍隊、エキュメニズム、メシヤニックジュー等の教えは相まって、以下の傾向を教会に持ち込みつつあります。

*終末の日にイスラエルは皆救われるとのことばを逆手にとり、
教会のユダヤ性の復活などとのたわごとを語り、ユダヤ教をキリスト教に浸透させる。結果として、
「腹にたくらみのある」ユダヤ人教師を教会のリーダーとして立てる。

*エペソ書の5職の復活を協調し、彼等が建てた「使徒」「預言者」に全ての教会は服さなければならないとの強引な論理を展開する。

*エキュメニカル運動により、世界中のキリスト教の統一を実現し、「彼等のたくらみ、教理」を全ての教会に押し付ける。

*誤りに満ちたカソリックをキリスト教のリーダーにする。

*「地を治めよ」との創世記の記述を基いに、「クリスチャンは地を治める」ものであるとの論理の下に
「この世を神の国にする」などとのトンデモない論理を強調する。結果として、
クリスチャンの目標、信仰をこの世に向ける。

*マタイ24章の終末といわれる預言はもう成就した(?)などとのトンデモ話を流布させ、
終末の預言への信頼を崩そうとする。

*これらのトンデモ話に同調しない人々に対しては、「ヨエルの軍隊」などと名付けたかつての中国紅衛兵みたいな過激なクリスチャングループを育成して、
「彼等の敵」を迫害し、攻撃する。

*悪霊の第三の波系の悪霊を注ぐ人々が講壇を占拠しつつある。
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これらの行きつく先はまさに聖書のいう大艱難時代です。


4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。”

上記の聖(悪)霊の第三の波に附随する偽りの教理及びそれにだまされる人々はますます増加するでしょうが、しかし、主はそれとともに二人の証人、預言者をもたてます。これは、具体的には、2つのグループの教会です。私の理解では、ロマ書の オリープの木の記述から、終末に回復する東に散らばるイスラエル人からなる教会、また異邦人からなる教会です。
これらの人々は真に正しく聖書の真理を回復し、正しいまっすぐな道を歩み、それゆえに
オリーブの木、すなわち、油を注ぐ者達として活躍し、また燭台すなわち、世の光として活躍します。

”5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。”

火が彼等の口から出るといっても、火炎放射機みたいに燃える炎が出るという訳ではないでしょう。
これはたとえですから、火、すなわち(悪)霊によって滅ぼされるのでしょう。
これらの預言者の声に聞かず、逆に迫害する者は結局悪霊の惑わしから解放されず、
「神に仕えている」つもりが、実は神の聖徒を迫害する、そんな惑わしに入るでしょう。

”6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。”
 

雨が降らないとはこれも霊のたとえです。ですから、彼等が命じれば、霊の雨が降らないのです。
最近、ベニーヒンという名前の悪霊を注ぐ働き人が、日本に2003年にリバイバルが起きると預言したとのことです。しかし、どっこいこの日本には主につきエリヤの様に「天が閉じる」よう祈っている人々がいるようで彼のいう(悪霊の)雨は降りませんでした。
彼はまたまた(こりずに)大恥をかいてしまいました。

また、ビルハモンとかいう偽預言者めいた感じの人がこれまた
「2004年に日本に(悪霊の?)リバイバルが来る」と預言したと伝え聞いています。この人も、
雨が降らなければ偽預言者確定ということになってしまい、日本中、誰も相手にはしてもらえませんね。

バアルの預言者と対峙したエリヤの昔からこのかた、預言者と自称する者に関しては結果が全てであり、
能書きはいりません。この大口あけた御大層なビルハモンも同じ話です。祈って火が下れば、主の預言者、全く火が下らなければ、ただの大嘘つき、トンデモない偽預言者です。2004年に何も下らない、その日には皆から嘘つき、とっととアメリカへ帰れ、二度と日本に来るなと罵倒されてしまうのではないでしょうか。

また、このような空しいバアル崇拝を繰り返している「ベニーヒンおっかけ等」愚かな日本の教会はそのバアル崇拝を悔い改めるべきなのではないでしょうか。

「そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。」

さて、終末の日、主につく預言者は祈りの中で、「あらゆる災害をもって地を打つ力を持って」います。
これにより、地につく人々は恥を受け、神の力を見るでしょう。

”7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。”

ここでいう獣は、ある国を指します。その国は、かつてはなかったのですが、終末の日になると、
底知れぬ所から上って来ます。この国は何か?それは以前から繰り返しているように、
終末の日に現れたこの新しい国、アメリカです。この国の1ドル札には、この国を支配する者達の
正体が書かれています。1ドルの1は「世界を一つにして支配する」との意味あいがあります。
その裏には、13階段のピラミッドがあり、この国を支配する13家族が暗示されています。また、
ピラミッドの冠石には、知る人ぞ知る、世界を見通す目=ルシフアーが描かれています。
その獣の国主導の偽りのでっちあげの中で、迫害、虐殺が行われ、彼等二人の証人は殉教します。

8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”

ここでいう大きな都は、要は旧約の都、エルサレムで象徴される「教会」のことです。
全世界の教会中で、この二人の証人の殺りく、迫害に加担するのです。しかし、これは彼等迫害者に
裁きをもたらします。

”9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。”
 

「もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々」というのですから、ある意味、この迫害は、世界的なものだということがわかります。
 

三日半とはすなわち、半週のことであり、要するに3年半のことです。
三年半の間、艱難が続くということなのです。聖書でいう、3年半、42ヶ月等は全て
同じある一つの特定の時期、大艱難時代をさします。

「死体を墓に納めることを許さない」ということばも私的解釈せず、旧約の記事を参照しなければなりません。旧約時代、ユダ族の王達は、死後ダビデの墓、先祖の墓に入りました。しかし、不都合を犯したり、大きな罪を犯した王はそれを許されないことがありました。彼等は先祖達の墓に入れなかったのです。
同じ意味あいでこの艱難時代の証人達は、クリスチャンの信仰の先祖の墓に入れない、すなわち、
まともなクリスチャンとはみなされない、異端者とみなされることがわかります。

そんなわけで、これから、艱難時代を迎えようかという我々は今のうちから、思考形式を正しいものと変える必要があります。すなわち、これらの迫害や、問題の中でも正しくみことばに立つ覚悟があるのかどうかということです。
何より我々は正しい死生観を持たなければならないでしょう。すなわち、今のこの世の命を選ぶのか、それともそれを犠牲にしても、永遠の命を選ぶのかという選択、死生観です。この件に関して、
私個人としては、ネットに出たその日から、腹は決まっています。
 

”10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。”
 

この箇所はまさしく、エステル書の記述の引用であり、この殺害、迫害が、ユダヤ主導であることがわかります。ユダヤ教の中では、現世のことしかいわない、来世のことをいわないと聞いたことがあります。「クリスチャンをだまして仲間を迫害させる」とは、なるほど、いかにも、この世の神を信じる人々の教えらしいです。

”11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。”

ここでこれらの 殉教者の復活と昇天が描かれています。これらはイエスキリストの復活と昇天によく似ています。キリストの復活と昇天も単なるこじつけや、想像や、気持ちの問題ではなく、「実際に」起きたことがらです。ですから、これらの証人の復活も昇天も決して、たとえや、想像や、別の比喩というのではなく、実際に行われると思われます。

かつて主は「ヨナのしるし」について語られました。イエスの時代の人たちあてには、「ヨナのしるし」以外与えられないことを語りました。逆にいうとその時代の人々向けに「ヨナのしるし」だけは与えられたのです。ヨナのしるしとは、主の復活です。これを見て神に立ち返る人もいました。
同じく終末の日のしるしは、これらの人々の復活でしょう。

これらの証人の死と復活、昇天はまた以下の記述のことをさすと思われます。

”1テサロニケ4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり
17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。”

まとめますが、確かに終末にエステルの日を計画している人々がいること、そして、その日のための準備が周到になされていること、それをとらえましょう。

私達がその備えをすべき時はさらに近付いています。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー