NO.374  後に来る世


テキスト:”マタイ12:
32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。”

本日は「次に来る世」という題でメッセージをしたいと思います。
 

聖書は明らかに次に来る世について語ります。
この「次に来る世」に関して我々はどのように対応していくべきなのでしょうか。
それを見ていきたいと思います。

このテキストで明らかに主はこの世、そして次に来る世について語っています。
ですから、我々クリスチャンがまず知らなければならないことは、
我々が現在生きている「この世」だけでなく、「次の世」といわれる世が来るということです。
この2つの世のうち、
私達はどちらに焦点を置くべきなのでしょうか。それを見ていきたいと思うのです。

他のテキストを見ます。


マルコ8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」”
 
 

順に見ます。

”34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。”

この箇所でわかることは、聖書は明らかに
次の世に焦点をあてていることです。

もし、今の世に焦点があり、今の世の生活こそ、大事、重要なら、この世で自分を捨て、自分の十字架を負い、さらに主のために命を失うことまで奨励するはずがありません。
それでは、この世の生活を楽しむどころではないからです。
 

しかし、事実主は、福音のために現在の世における命を失うこと、自分の十字架を負うこと、また、
キリストとその福音のために命を失うこと迄奨励しているのです。

明らかに聖書は次の世について述べ、そちらに我々クリスチャンの歩み、目標、重要性があることを述べており、強調していることがわかるのです。

そのようなわけで、もし我々がこのような考えに基づいていないなら、少し聖書の語る
考えとはずれていることになるかもしれません。

”35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。”

この箇所は逆接的です。そして、少し難解です。この箇所は、この世という今の世と、次に来る世とを考えなければ理解できないと思われます。

「いのちを救おうと思う者はそれを失い」

すなわち、(今の世で)「命を救おうと思う者は(次の世においては)それを失」うということとを語っているのでしょう。

「わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」

この部分も「わたしと福音とのために(今の世で)いのちを失う者は(次の世で)それを救うのです。」というように理解できます。

今の世だけを考えるなら、死なないで生きた方がよいし、この世で十字架を負って苦難の道を歩むよりは、気楽に自己実現、人に好かれることをやっていた方が良いのです。

しかし、私達クリスチャンは現在のこの世の生き方だけを考えるのではなく、来る世、
次の世を考えるものです。というより、主のいわれることの結論は次の世こそ、「本番」であるということ、重要であるということです。

”36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。”

この箇所も今の世の命と次の世で与えられる永遠の命を考えなければ理解できない箇所です。
この箇所はこのように語っているように思えます。
 

「36 人は、たとい(今の世で)全世界を得ても、(次の世で)いのちを損じたら、何の得がありましょう。」

そんなわけで、我々はこの箇所で、聖書的にいうこの世での成功や富が次の世での永遠の命と比べるとどれ程の価値があるかを知らなければなりません。
この世で全世界を得た人にはどんな人がいるでしょう。ギリシャのアレクサンダー大王、それとも
ローマの皇帝でしょうか。はたまた、中国の始皇帝でしょうか。彼等は戦いに次ぐ戦いに勝利し、また権謀術数の限りをつくし、そして、運に恵まれてこの世の王となりました。彼等はこの世において、もっとも成功した人々です。
しかしそのような人々であっても、彼等がもし、全世界の全てを手にしたとしても次の世で(永遠の)命を得なければ何の得にもならない、そのように主は語るのです。

そんなわけで、我々はこれらのことばを通して、今の世の成功と、次の世における成功とをはっきり区別、比較しておかなければなりません。もし、我々がこれらの2つのうち、どちらかでしか、成功できない、
報いを得られないとしたのなら、どちらを優先すべきか、よく考えるべきです。

”37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう
38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」”
 

さて、永遠の命に関する話題の中に突然、「主と主のことばを恥じる」ことが入ってきました。
それで、我々はこのこと、「主と主のことばを恥じる」ことと、次の世で永遠の命を獲得することとが、関係があることがわかるのです。

他の箇所で聖書は、今の世は仮の世であり、我々はこの世にあって、旅人、寄留者に過ぎないことをも語っています。

私達は明らかに次の世に焦点をあてるべきなのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー