NO.373  夜と獣


”テキスト:詩編104:19 主は季節のために月を造られました。太陽はその沈む所を知っています。
20 あなたがやみを定められると、夜になります。夜には、あらゆる森の獣が動きます。
21 若い獅子はおのれのえじきのためにほえたけり、神におのれの食物を求めます。
22 日が上ると、彼らは退いて、自分のねぐらに横になります。”

本日は「夜と獣」という題でメッセージしたいと思います。

何故終末の日に神の民は「獣」に倒されていくのか、それを見ていきたいと思います。

順に見ます。

”19 主は季節のために月を造られました。太陽はその沈む所を知っています。”
 

主は季節を定め、時を定めます。
それで、昼と定められた時には、獣は動きません。
昼に外が明るいのは、ひとえに天に太陽が上っているからです。
太陽は明るい光を持った器のたとえであり、彼等の光により、教会の人々は
認識を持ち、正しいことを見分け、闇のわざに加わらないように守られていたのです。
しかし、終末になると、その太陽も信頼できなくなります。「太陽はその沈む所を知っています」とのことばのように太陽が沈み、私達は光を見いだせなくなるのです。この時に関して福音書には、
以下のように書かれています。

マタイの福音書 24:29 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。”
 

「太陽は暗くなり、月は光を放たず」結果として教会の中には、光が失せ、闇がばっこするのです。
 

”20 あなたがやみを定められると、夜になります。夜には、あらゆる森の獣が動きます。”

やみが来る時、それは夜なのですが、その夜という時の特徴は、このことばによれば、
「あらゆる森の獣が動」く時であることがわかります。
朝になるとその時に、ワンセットの様に、にわとりが鳴きます。それと同じ意味あいで、
夜という時とは、すなわち、「あらゆる森の獣が動」く時なのです。

獣は、黙示録の666の獣に通じまた、終末を荒し回る「7つの頭と10本の角を持つ獣」に通じます。
これらは夜の時になると世界をまた教会を荒らすのです。

聖書は明らかに終末を夜であると定義しています。すなわち、終末は獣が荒し回る時なのです。
さて、この箇所を見る限り、夜には、獣が荒し回り、昼は逆にそうでもないようです。
何故、夜には、獣が荒らしまわるのでしょうか?それを考えてみましょう。
昼と夜の違いとは何でしょう?
それは場所が変わるわけでも、人が変わるわけでもありません。その違いは、「光」があるかないかです。

昼には、太陽が上り、周囲を明るい光で満たします。それで、世界は昼を迎えるのです。
夜は?夜には太陽が沈み、太陽の光は、消え去ります。そのため、誰も見ることのできない
夜になるのです。夜と昼との違いは、「光」があるかないかの違いなのです。

光に関して主は「私は世の光です」といわれました。
それで、私達は、聖書でいう夜とは、教会が、「光」なる方を追い出し、それゆえ、
何の光をも得ることのできなくなった時であることを悟ります。

獣にやられている最も顕著な教会は、あのカソリック教会でしょうか。この教会は、あの獣法皇に
引きづられ、「進化論は科学的」(聖書創世記の記述は非科学的)「マリヤはキリストと共同のあがない主」(実質4位一体?)等のあらゆる冒涜的な教理に食い荒らされています。
 

何故彼等はこのように、情けない獣にほんろうされた状態なのでしょうか?
その理由は彼等に光がないからです。彼等は光なる方のことばを拒絶し、受け入れないため、
結果として、光を追い出しているのです。それゆえ、闇と暗黒の中にいます。
彼等はどのようにして、この方、ことばなる方を追い出しているのでしょう。
それは、聖書のことばよりもあの獣法皇を優先することによってです。

彼等は聖書のことばも、聖人の聖文書のように、誤りがある、だから、
聖書と法皇のいうことが食い違ったら聖書を捨てて、法皇に従う(!!!)などと
いうトンデモ教理を間に受け愚かにも聖書のことばを投げ去った愚か者の集まりです。

それゆえ、闇の中をさまよい、獣にほんろうされ続けています。
この教会の中では、神父が数々のスキャンダルをひき起こし、アメリカでは、その訴訟の
賠償金を払うため、教区が破産(?!)したということです。

彼等が愚かにも聖書を捨てて迄従った神々(神父達)の実態はこんなものに過ぎません。

さて、このように夜、終末に獣が歩き回ることを聖書がいう時、我々は一つのことを知らなければなりあません。それは、終末の時は、夜であり、この時には当然のように、獣が活躍し、歩き回る時だということです。

昼間と夜では、状況が異なるのです。昼間には、獣の姿など見ない、そんなものはいない、ということが常識でした。しかし、これはあくまで、昼間の常識です。夜になると、別の常識が普通になります。
すなわち、獣が我がもの顔で歩き回るのです。

私は何をいっているのでしょうか?私は教会に関して話しているのです。
教会に、獣のような働き人が入ってくるなど、信じられない、悪魔礼拝者や、仮面をかぶった
働き人が入ってくるなんていう人々は、少しおかしい、非常識だという論議があります。
今迄の教会の歴史の中でそんなことは一度もなかったのだから、これからもあるはずないという論理です。
しかし、上記の聖句は明らかに夜になると獣が歩き回ること、夜の常識と昼の常識とは異なることを語っていないでしょうか?そうです、そうです、昼の常識で、夜、すなわち、終末の時を判断してはいけないのです。

「夜には、あらゆる森の獣が動きます。」と聖書が明記する以上、このことは必ず起きると思うべきなのです。
また、このこと、獣が動き回るということは、単に教会だけでなく、この世の中のことがらに関しても言えるかもしれません。
夜、すなわち、終末の時になると、今迄の歴史の常識は通用しなくなり、世の中に獣が動き回るはずなのです。

悪魔的な論理で、獣のように破壊する国が起きてくるはずなのです。
実はもうすでにその国は起きているのですが、それを見分ける目、獣を見分ける目を持つ人は幸です。

”21 若い獅子はおのれのえじきのためにほえたけり、神におのれの食物を求めます。”

さて、獣が出てくる以上、彼等は自分達の獲物を求めます。
ここで書かれている若い獅子、獣も自分の食物を求めるのです。
そして、獅子が食物を求めるなら、それは与えられるのです。
何をいっているのでしょう?私がいいたいのでは、終末の日に獣のえじき、犠牲になる
人々が必ずあらわれる、そのことを語っているのです。

ましてその獣が獅子、百獣の王である獣なら、どれ程のぎせいが出ることでしょう。
このことは既に起こりつつあり、私の理解では、もう既に多くのクリスチャンが犠牲になっています。
繰り返します。既にぎせいになっています。

22 日が上ると、彼らは退いて、自分のねぐらに横になります。”

さて、このように終末の日には、獣がばっこするのですが、一つ幸いなことがあります。それは、
その日に「日が上」り、真理が回復し、教会が回復することです。

この日は、黙示録12章で天から竜とその使いが落とされる日として預言されています。

それで、このことがわかります。終末の日には、夜の時であり、真理の光は消え失せ、獣がばっこします。
しかし、後に義の光が輝き、その中で主に忠実な人々はこれらの獣の働きに打ち勝ち、
真理を見る、そのことです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー