NO.372 預言は、ヨハネの時迄


”テキスト:マタイの福音書 11:13
ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。(新改訳)
 すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。(口語訳)
 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。(共同訳)”

本日は「預言は、ヨハネの時迄」という題でメッセージしたいと思います。

テキストを見ていきたいと思います。

以下の口語訳のテキストが意味のわかりやすい訳と思われます。

”すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。(口語訳)”

ここに書かれているのは、預言者が預言したその対象の期間に関することがらです。
「対象の期間」?何だか難しいことばですね。

たとえば、コンピューターをお店で買うと、保証の「対象の期間」が定められています。
1年保証とか、中古品だと、「購入後2週間保証」とかです。
最近大きな家電販売店で電気製品を買うと「購入後5年保証」などとなっています。
これは、保証「対象の期間」が長いわけです。

さて、冒頭のテキストは、聖書の預言に関して書いてあるわけですが、聖書は、その預言に関して
預言の「対象の期間」は定まっていると語っているようです。
すなわち、聖書は確かに未来に関して預言しているが、その対象の期間は定まっており、
無限の未来、何万年、何億年、はたまた未来永劫の時代迄を預言したものではないと語っているのです。
そうではなく、その対象期間は明白に定められている、そのように述べているのです。

その期間はいつまでか?それは、上記テキストから明白であり、「預言したのは、ヨハネの時まで」なのです。

ですから、すべての預言者、すなわちエレミヤ、イザヤ、エゼキエル、ダニエル等、聖書に書かれている多くの預言者が多くの預言をしていますが、それらの全ての預言の対象の時は定められており、
それは、「ヨハネの時」までなのです。

さて、ここで当然ながら、疑問があります。バプテスマのヨハネは紀元1世紀頃の人であり、かたや聖書は、終末、世の終わりに至るまでの預言がされています。その間には、大部ギャップがあるように思うのですが、そのギャップはどう解消されるのでしょうか。

さて、ここで我々が知らなければならないことがあります。
それは、バプテスマのヨハネは、もちろん、紀元1世紀、イエスの時代に現れた人ですが、
しかし、彼はまた、終末にあらわれる預言者、「エリヤ」の型でもあるということです。
主イエス自身バプテスマのヨハネこそ来るべきエリヤであることを語っています。

マタイ11:14「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」

そして、そのエリヤはマラキ書によれば、終末のさばきと関係した人物なのです。

マラキ4:5「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」

ですから、我々は知らなければなりません。バプテスマのヨハネ、またエリヤにより予表される、
終末の預言者の働きの本番は、終末であり、その時代にこそ、焦点があるのです。
その具体的な例は、黙示録11章で現れる2人の預言者の働きです。雨をとどめ、火を下す、
彼等の働きは、まさに旧約に描かれたエリヤそのものです。

ここで話が少し外れますが、終末のこの黙示録11章の預言者を理解するために心にとめて
おかなければならないことがあります。

それは、この黙示録11章には、彼等が火を下し、雨をとどめることが確かに書いてありますが、
しかし、「実際の」火を下す、「実際の」雨をとどめると思っている人はこの預言者が来たとき、間違えてしまうことがあり得るということです。

何故そういえるのでしょうか?
エリヤで予表されるバプテスマのヨハネのことを思い出して下さい。彼は、エリヤのように「実際の」火を下しもしないし、「実際の」雨をとどめもしなかったことを思い出いだして下さい。
しかし、主イエスによれば、彼こそ「来るべきエリヤ」だったのです。
 

ですから、恐らく黙示録11章の2人の預言者も「実際の」火を下したり、「実際の」雨を
とどめるような働きをしない可能性があるのです。

もし、人が彼等を確認する条件として「実際の火」を見ようとするなら、その人は惑わされたり、間違える可能性があるでしょう。

何故なら終末にあらわれる、黙示録11章の「エリヤのような預言者」のもっとも
わかりやすい例は「バプテスマのヨハネ」だからです。

旧約の預言者エリヤが下した火は、たとえであり、その意味することは、「聖霊の火」すなわち、
バプテスマのヨハネに予表される「聖霊のバプテスマ」を現します。

その意味では確かにバプテスマのヨハネこそは来るべきエリヤだったのです。
たとえを理解しなければ、「エリヤ=バプテスマ= ヨハネ」という構図は理解できません。
そして、恐らく黙示録11章の予言者達も..。

さて、冒頭のテキストに戻ると、聖書の預言は「バプテスマのヨハネの時迄」すなわち、
終末で言えば、黙示録11章の「エリヤのような預言者達まで」の間を預言したものだということがわかります。

繰り返しますが、聖書の預言がその対象としている期間にははっきりした期限の時があり、
それは、「バプテスマのヨハネの時迄」すなわち、終末の預言者達の時までであり、それ以降に関しては預言されていないのです。

何故か?それは、「教会時代」すなわち、聖書が対象としている時代は、この終末の預言者達の時に 
終わり、終了し、それ以降を預言する必要がないからです。

このことはしごく簡単なことばで書かれている、しごく単純なことがらですが、
聖書の終末預言を理解する大きな鍵となることがらです。

たとえば、中学校の計画表があります。そこには、始業式、中間試験、期末試験、夏休みと色々な計画が書かれています。しかし、この計画表は永遠に続くのではなく、三年の三学期、三月の末、卒業式のところで、プツンと切れています。それで終わりなのです。
「中学校」の計画としてはこれで終わりなのです。
同じ意味あいで、私達の教会時代も未来永劫に続くわけではなく、その計画、時代、預言には、明確な
終わりの区分があり、その先はないのです。ぷつんと切れて終わりなのです。
聖書の預言もそうなのです。聖書の中には、それこそ、創世記から、黙示録まで、何千という預言がありますが、それらの全ての預言が対象としている期間は、はっきり終わりの区分が定められており、それは、
バプテスマのヨハネの時迄、すなわち、終末のエリヤのような預言者達の時までなのです。

さて、このことを聖書の中で、主は明らかに間違えようのないことばで明確に語っています。

そして、このことをはっきりと知るとき我々は終末の預言に関して、一つの光が与えられます。
それは、聖書の創世記から黙示録の中で語られている預言は、全て、「バプテスマのヨハネ」の時
までのものであり、もし、それ以上先のことを預言しているように見えるならそれは、間違いであり、
正しい解釈ではないということです。

ちょっと抽象的でわかりにくい表現ですね。
具体的にいうと、たとえば、「終末の2人の預言者」が殺された後、1000年の間王国が続くだとか、
その後、ゴグ、マゴグが
惑わされるなどという解釈は、皆、少しおかしな解釈であることがわかります。
何故なら、「聖書の全ての預言」は、「ヨハネの時まで」を預言したものだからです。
結論として、千年王国等の解釈は、実はたとえにすぎない、実際に千年の間、王国など続かないことがわかるのです。

どんなことがらにも、上限というものがあるものです。
例えば、幼稚園の子が小学校に入るとします。毎日、毎日同じ時間に学校へ行かなければならない、大変だ、なんて思うかも知れませんが、しかし、永遠に小学校へ通う訳でなく、6年経てば、
もう卒業していかないですみます。小学校は際限なく子供を預かる、教育するわけではなく、
その対象の期間は6年と定められています。

同じ意味あいで聖書の預言の対象の期間は、無限の時間、未来永劫を預言したものではなく、
はっきりと定められており、それは、終末の預言者の現れる時、バプテスマのヨハネの時までなのです。
 

さて、ちょっと話は飛びますが、上記みことばに関して普通は、どう解釈されるのでしょう。

普通は、「 すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。」すなわち、
バプテスマのヨハネが最後の預言者である、彼を最後に預言の働きは止まったとでも
解釈するのでしょうか。しかし、この解釈は現実の歴史を反映していません。
事実は彼、バプテスマのヨハネは最後の預言者ではなく、彼の後の人々も預言しています。彼の後に
立派な預言者がいます。例えば、
主イエス御自身もバプテスマのヨハネの後なのですが、しかし、預言者としての働きをなしています。
マタイ24章の終末の預言等です。また、使徒ヨハネもバプテスマのヨハネより後ですが、
しかし、あの預言の書、黙示録を記しています。パウロ、ペテロもその書簡の中で預言しています。
ですから、「バプテスマのヨハネが最後の預言者であるとこの箇所はいっている」と解釈すると現状を反映しない解釈になります。

尚、「預言者と律法」とは、全聖書をさすことばであり、この箇所は、やはり、
全聖書の預言、記述の範囲は、(終末の)バプテスマのヨハネの時迄が対象、そんな風に解釈すべきと
思われます。

ですから、繰り返すようですが、私達は、聖書の預言に関して、その限界というか、
範囲というか、制限というか、区分された期間を明確に理解しなければなりません。
それは、「パプテスマのヨハネの時」までなのです。
このヨハネは終末の日に聖霊のバプテスマを施す働き人達のたとえであり、もうそろそろ、
彼等の影が見え始めています。ですから、聖書的にいえば、もうそろそろ、
全聖書の預言が対象としていた期間は何と終わりを告げようとしているのです。

学芸会でいえば、もう最後の出し物6年生による劇「泣いた赤鬼」が始まる頃、といえるでしょうか。
運動会でいうなら、最後の種目「各組対抗リレー」が始まる頃、そんな感じです。

全聖書の預言の対象は、バプテスマのヨハネの時まです。
しかし、その時は、「終末のヨハネ」の時までであり、
もうそろそろ聖書の預言されている時代は終わる頃だなどというと、「聞いたことがない」ように
思われるかもしれません。しかし、これは私ではなくまさに聖書が語っていることです。

黙示録を「文字どおり」読んで、「千年王国」を文字どおり、千年続くと勘違いしている人々には、
ほとんど、このことは、寝耳に水かもしれませんが、しかし、そのように間違えている人々は、
聖書で言われている「預言は私的解釈していはいけない」すなわち、「そのテキストのみから解釈してはいけない」ということばを守らないから、そんな間違いに入るのです。
「千年の間文字どおり王国が続く」などという間の抜けた解釈は、彼等がこの「私的解釈=その箇所のみからの解釈」の警告を捨て去り、「黙示録のみ」から解釈しているために出てきた誤りなのです。
黙示録は、わなの書であり、「黙示録のみ」から解釈する、すなわち、「私的解釈」する
人々は、とほうもない、空想話、非現実なSFみたいなよた話に入っていきます。
しかし、主のいわれた「私的解釈=その箇所からのみの解釈」に注意を払い、黙示録のみでなく、
マタイ24章、マルコ、ルカさらにダニエル書等を参考にして、終末を理解する人は、
正しい解釈に近付きます。
 

残念なことに、黙示録のみから、ぐんぐん妄想を発展させる盲人の彼等は、さらに御丁寧にイエスのいわれた「たとえ」についての注意、叱責をも捨て去り、
「たとえの書黙示録」を「文字通り」読むという愚行を重ねています。

かつて主はエレミヤ書の中で、「彼等がこの言葉を捨て去ったなら何の知恵があるか」と語らなかったででしょうか。聖書の明確な指摘、すなわち、「私的解釈=そのテキストのみから解釈」「たとえを読み取る」ことを捨て去る彼等に何の知恵があるでしょうか。

彼等の確信とは反対に聖書的にいえば、「千年の間続く王国」もたとえの可能性は大きく、また、ゴグ、マゴクの戦いもたとえである可能性が非常に大きいのです。

何故なら、聖書は、ことばであるキリストに関して「たとえによらないで話されることはなかった」
と語っており、聖書、すなわち神のことばは、たとえにより解釈されるべきだからです。
 

そのようなわけで、聖書の語る預言の範囲を正しくとらえていきましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー