No.369 律法を口実に


”テキスト:ダニエル6:1 ダリヨスは、全国に任地を持つ百二十人の太守を任命して国を治めさせるのがよいと思った。
2 彼はまた、彼らの上に三人の大臣を置いたが、ダニエルは、そのうちのひとりであった。太守たちはこの三人に報告を出すことにして、王が損害を受けないようにした。
3 ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。
4 大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。
5 そこでこの人たちは言った。「私たちは、彼の神の律法について口実を見つけるのでなければ、このダニエルを訴えるどんな口実も見つけられない。」
6 それで、この大臣と太守たちは申し合わせて王のもとに来てこう言った。「ダリヨス王。永遠に生きられますように。
7 国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。
8 王よ。今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のようにしてください。」
9 そこで、ダリヨス王はその禁令の文書に署名した。
10 ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。「「彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。「「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。
11 すると、この者たちは申し合わせてやって来て、ダニエルが神に祈願し、哀願しているのを見た。
12 そこで、彼らは王の前に進み出て、王の禁令について言った。「王よ。今から三十日間、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれるという禁令にあなたは署名されたではありませんか。」王は答えて言った。「取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のように、そのことは確かである。」
13 そこで、彼らは王に告げて言った。「ユダからの捕虜のひとりダニエルは、王よ、あなたとあなたの署名された禁令とを無視して、日に三度、祈願をささげています。」”
 

本日は、「律法を口実に」という題でメッセージしたいと思います。
終末の日に、主につく人々を訴える口実に「神の律法」が用いられることを見ていきたいと思います。

ダニエル書は、終末に関して多くの示唆を与える書です。
黙示録にも多く引用されていますし、主御自身も終末に関連して、「ダニエルの言った荒らす憎むべき者..」というように、この書に関して述べています。

この書は、かくのごとく、多くの終末に関する記述に満ちているのですが、それとともに、
この書に登場する、ダニエルを始めとする「主のゆえに迫害を受ける聖徒」に関しても語りかけがあります。

何をいっているのかというと、この書で「迫害を受ける聖徒」は、「終末の日に迫害を受ける聖徒」の
型ではないかと思われるのです。

この箇所では、ダニエルが「神の律法」を守ることを「口実」に彼が迫害されたことが描かれています。これは、終末の日に起きるできごと、すなわち、クリスチャンが「神のことばに忠実」であることを
「口実」に迫害される、その日を預言したものとも思われます。
そのことを見ていきたいと思います。

準に見ます。

1 ダリヨスは、全国に任地を持つ百二十人の太守を任命して国を治めさせるのがよいと思った。
2 彼はまた、彼らの上に三人の大臣を置いたが、ダニエルは、そのうちのひとりであった。太守たちはこの三人に報告を出すことにして、王が損害を受けないようにした。”

この日、ダリヨス王の下に百二十人の太守が任命され、彼等が国を治めるようになりました。
同じように、終末の日にも、この神の国、世界の教会は地上において、いくつもの教派、集団に分かれ、
それぞれ任命された人により、治められるでしょう。

”3 ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。”
 

ダニエルは、「他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた」のです。その理由は、「彼のうちにすぐれた霊が宿っていたから」です。私達の生まれつきのもの、肉には益がありません。
しかし、神が我らに「すぐれた霊が宿」らせてくださる時、私達は神の前にまた、人の前にも
役立つ者、すぐれた者になります。全ては神から発し、また神の霊によるのです。
 

”4 大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。”

このすぐれた神の霊をもったダニエルは他の人に尊敬、尊ばれるかと思いきや、あろうことか、
彼等に訴えられようとしました。全くあるべきことと正反対のことが行われようとしたのです。
そうです、終末の日も教会には「すぐれた神の霊を持ち」「主に忠実である」そのゆえに、
訴えられ、迫害される人々が起きます。
 

「ダニエルを訴える口実を見つけようと努めた」

この神に忠実なダニエルを訴えるため、あらゆる口実が、見つけられ、
あらゆるあら探しが行われました。
このことは、終末の日に際限します、いや既に際限しつつあります。

現在の世界においては、イスラム「原理主義者」が非難、攻撃されています。
正体不明の何か裏がありそうな、テロ騒ぎがいくつも起き、すっかり「原理主義者」は悪者になりました。原理主義者とは、「教えに忠実な者」という意味あいの人々です。
ほこ先は徐々に変化し、今度はというか、本来の目的通りというか、キリスト教原理主義者が
非難されつつあります。この風潮はさらに進み、そのうちに、あら不思議、「極端な
キリスト教原理主義者」が色々と変な、というか非難したい人には好都合な、事件を色々起こすようになるのでしょう。

すでにアメリカでは「堕胎に反対する熱心なキリスト教徒」が産婦人科医を「射殺(!!)」するという
事件まで起きています。「殺すな」という神の教えに従い、堕胎に反対する
クリスチャンが存在することは理解できますが、それに反対するのに、「産婦人科医を射殺する」
神に忠実なクリスチャンなどいるわけがありません。
何かが偽られ、何かが意図的に作られているのでしょう。

また、最近では、日本のキリスト教会においても、「バイブルカルト」
などと聖書や神の教えに忠実な人を非難することばが横行しつつあります。
相撲取りが相撲を熱心に取り組むことに何の問題もなく、魚屋が魚を一生懸命売ることに何の問題もありません。むしろ、さぼっている相撲取りや、休んでばっかりいる魚屋こそ非難されるべきです。
しかし、蛇の論理が行き渡った終末の日の背教の教会においては、聖書の教えに熱心、忠実な
人々には、「バイブルカルト」などとわざとらしい非難のことばが与えられるようになっています。
逆に、聖書の教えと反する進化論を受け入れる教会や、キリストと共同のあがない主マリヤ
とか、奇跡を否定する近代神学者等には、何の非難もありません。
まことにまことに、この国の教会はみごとに終末の様をあらわしています。

”何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。”

ダニエルは主に忠実であるゆえ、何の欠点も
ありませんでした。だから、非難したくても非難できなかったのです。
終末の日、主に忠実なクリスチャン達があらわれます。彼等にも何の欠点もないでしょう。
忠実に神の前に歩むからです。

”5 そこでこの人たちは言った。「私たちは、彼の神の律法について口実を見つけるのでなければ、このダニエルを訴えるどんな口実も見つけられない。」”

このような忠実なダニエルをそれでも非難したい彼等でしたが、何の方法もありません。
それで、彼等はこのダニエルが神のことばに忠実である、まさにそのことを非難の口実にしようと
考えたのです。

このことは、終末において、必ず必ず繰りかえされます。すなわち、クリスチャンが神のことばに忠実である、まさにそのことを口実に非難、迫害される日が来るのです。

逆に神のことばを投げ捨て、ことばなる方キリストを投げ捨て、獣法皇の偽りのことばや、
偽りを喜ぶ人々には、問題も迫害もないでしょう。
しかし、彼等は後の日に裁き、淫婦の裁きに入ります。

このことは、未来に起きると言うより、今起きつつあることなのです。すでに外国においては、エキュメニカル、すなわちプロテスタント、ローマ教会一致の運動は、
すさまじい勢いで進んでいます。アメリカにおいてもペンテコステ派、ルター派、救世軍、福音派各派は
この流れ、ローマ法皇を盟主とするエキュメニカル教会実現の働きに続々と一致を表明しています。
日本も例外とはなり得ないでしょう。
これらの運動は、片やこの歴史的な教会統一に頑迷に反対する「偏狭なクリスチャン」への
不快を表し、批判をしています。
「偏狭なクリスチャン」とは、彼等背教者どもがいう一方的な呼び名であり、神の前には、彼等は
「善かつ忠なるしもべ」と呼ばれています。

 

”6 それで、この大臣と太守たちは申し合わせて王のもとに来てこう言った。「ダリヨス王。永遠に生きられますように。
7 国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。”

この日、「神に忠実なしもべ」ダニエルを非難する口実として、この国に一つの
法令が定められました。
同じように、終末の日にも「神の忠実なしもべ」を非難する口実となる法律が、全世界規模で
定められるようになるでしょう。

すでに西暦2000年においては、国連主導で、全世界の全宗教の平和的一致のための
大会が開かれたということです。全宗教の代表者が集まり、平和のため、宗教者が、一致、手を取り合うことが語られました。
宗教の平和的一致、合一とのスローガンには何も問題がないように思えますが、しかし、このような集会はいずれ、「一致に参加、賛成しない偏狭者」を非難する場となっていいくでしょう。
国連は世界的な組織ですが、たとえば、この組織を元にこのような「カルトを非難する法律」が成立するのかもしれません。

あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも”

神に祈り、キリストに祈ることは、クリスチャンにとっては当たり前のこと、当然のことなのですが、
何とその「祈る」ことを口実に主につくクリスチャンが非難される、そのような日が来るのかもしれません。

そんなことをキリスト教会の中で一体どのようにして実現するのか、想像もつきませんが、
「蛇の知恵」をもった人々は、そのことを大胆にも教会において実現するのかもしれません。
今、(2003年)私の頭で思い付くシナリオはこんなところです。
すなわち、まず、エキュメニカル、全てのキリスト教会の一致を実現する。
その統一教会の長は、神(悪魔?)により認められた唯一の正統的な教会カソリック教会の長 ローマ法皇がなる。法皇は、現在の教会において、「キリスト」の立場にいるので、全てのクリスチャンは彼に
祈るべしとの法律を布告する、そんなシナリオが想像できるのですがどうでしょう。
あたるかどうかはわかりませんが、参考にして下さい。

それが、ローマ法皇であるかどうかは別として、この「あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも」と語られたことばは、明らかに「人を神の代わりに拝み、祈る」ということが
終末に起きることを預言していると思われます。そのことは終末に起きえると思って心そなえをしていく方がよいかと思われます。

”8 王よ。今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のようにしてください。」
9 そこで、ダリヨス王はその禁令の文書に署名した。"
 

ここで、彼、主につくダニエルを訴える者達が、「取り消しのできない法律の制定」を求めたことが書かれています。このことは、やはり終末の日に再現するのでしょう。
今、私達が、日本の教会だけに目を向けず、世界の教会事情を見渡すなら、今このこと、
「頑固に聖書の教えに立つもの達」を非難するための法律の制定のための道ぞなえが
急速に備えられていることを理解するでしょう。しかし、悲しいかな、このことを警告する教会メデイア
(新聞、雑誌等)は日本において、皆無であり、角笛を吹くべき人々は眠りこけており、人の前にも神の前にも全くの役たたずになっています。

ダニエル書が語っていることは、国が獣化して、神につく者を迫害しだすということです。
すなわち、バビロンの国は獣化し、王は、金の像を拝まない、シャデラク、メシャク、アベデネゴ
を火の炉に投げ込みました。また、メデイアペルシャも獣化して、その法律をもって、
ダニエルをライオンの穴に投げ込んだのです。

国が獣のようになってしまったのです。ですから、我々も終末に生きるなら、今我々が住んでいる国が、いつの日か、獣化することを知らなければなりません。
聖書はそのように語っており、そのことは実現するでしょう。
世界の国々は、獣化し、そして、神に裁かれる存在です。

それなのに、教会の一部には、「世界が福音化されると
キリストが再臨する」などという過った教えを語る人々がいるようです。
 

その線に沿って、「世界の福音化」evangelizationとかいう名目で、社会貢献、
飢饉をなくすなどということを強調する人々がいるということです。
社会貢献、飢餓をなくすことが悪いとは誰もいわないでしょうが、しかし、
福音=伝道をほっぽりなげてすることとも思えません。
まして、「世界福音化されると
キリストが再臨する」などという考えには問題があります。
 

”10 ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。「「彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。「「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。
11 すると、この者たちは申し合わせてやって来て、ダニエルが神に祈願し、哀願しているのを見た。”

神に祈ってはいけない、人に祈れなどという、トンデモない法律がこの国、メデイアペルシャでは可決され、施行されました。終わりの日にも同じくとんでもない法律、「人に祈れ」という法律が
施行される日が教会においてあらわれるでしょう。それは、背教の日、多くのクリスチャン
が神へ背き、その背きが極まる日です。
このような日が到来するのは、それは、教会の不信の罪ゆえであり、教会は神以外のものを
拝むことを自ら願うようになるのです。
しかし、その日ーこの日は必ず来ますーダニエルの立場に固くつく者は幸いです。

”12 そこで、彼らは王の前に進み出て、王の禁令について言った。「王よ。今から三十日間、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれるという禁令にあなたは署名されたではありませんか。」王は答えて言った。「取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のように、そのことは確かである。」
13 そこで、彼らは王に告げて言った。「ユダからの捕虜のひとりダニエルは、王よ、あなたとあなたの署名された禁令とを無視して、日に三度、祈願をささげています。」”
 

この日、ダニエルは神の教え、みことばを守り、神に祈るというまさにそのことを口実に
訴えられ、そして、命の危険を受けました。
そのようなわけで、我々がもし、終末におり、そして、尚、ダニエルが歩んだように、主とみことばに
忠実な歩みをしようと志すなら、一つ心しておかなければならないことがあります。
それは、聖書のいう死生感とでもいうものです。

それは、そもそも我々が命をかけてでもみことばに従うつもりがあるのかないのかということがらです。
そんなことを考えなくてもよい時代に生まれればそういう必要もないでしょうが、
どうもそうともいえないのではと私は思っています。

さて、そのようなことがあってもこの箇所における聖書の結論はよく記憶しなければなりません。
それは、「ダニエルはライオンの穴に投げ込まれた」けれどしかし、「助けられた」ということです。
終末の日に確かに殉教する人もいるでしょうが、しかし、
それが、主流、終末の日に艱難に会う人の全ての運命ではないらしいことを知りましょう。

ダニエル達がバビロンで、主と主のことばの為に困難を受けたことは事実ですが、
しかし、彼等はその困難のために「殉教」したわけではないことを知りましょう。
彼等は困難に会ったけれど奇跡的に助けられたのです。

終末の日に勿論殉教はあるでしょうが、しかし、全ての人が殉教するとは、
聖書は書いていない、そのことをも知識として持っていましょう。
「神の民は主のために絶対絶命の危機に陥るが、しかし、最後に奇跡的な介入がある」
これが、ダニエル書が終末の艱難に関して語っているメッセージの様に思えます。
 
 

話は変わりますが、この箇所からもいえることは、あのほら話、艱難前携挙説は、この面からも聖書と違うことを主張しているということです。
このダニエルの箇所では、以下のことが語られています。

1. ダニエル(自分) は艱難に会う。
2. しかし、艱難の中から守られる
 

ほら話である、艱難前携挙説はこういいます。
1. 自分は艱難に会わない
2. (他の人の艱難が終わったら)自分は降りて来る。

全く違うことをいっていることがわかるでしょう。
ダニエル書が終末の聖徒達の運命に関して示唆しているのは、
明らかに
1. 終末の日に聖徒は艱難に会うが
2.しかし、奇跡的に守られる
ということがらです。

金の像を拝することを強制された時もまた、ライオンの穴に投げ込まれた時も同じなのです。
この聖書の明らかなことばを無視して、「艱難前に携え挙げられる」などという空想話をとくとくと語っている人々は、本当に本当に情けない愚か者です。
尚、「艱難中携挙ならよいのでは」などといっている人もいますが、この教えも
聖書に書いていない「二回に渡ってキリストが再臨する」などという空想を採用した
人工の空想話に過ぎません。

正しいことをみわける目を求めましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー