No. 367 急使として走る


”ハバクク2:1 私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。
2 主は私に答えて言われた。幻を書きしるせ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書きしるせ。
3 この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。”
 

本日は「急使として走る」という題でメッセージしたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”1 私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。”

ここでハバククがいう「主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。」とは何を意味しているのでしょう。

彼の訴えとは1章の以下のことばと関係あるように思えます。

”ハバクク1:2 主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐。」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。
3 なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。
4 それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。”

ハバクク書全体を見ると、ここでの「あなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか」との言葉こそ、ハバククの主への訴えといえるようです。

ここでの訴えは、単にハバクク個人の訴えと言うより、終末の日に主につく義人、正しい人々の
訴えともいえるかもしれません。何故ならこれらのことばは、3節の「それは終わりについて告げ」との
ことばのように世の終わりと関係することがらを扱っているからです。
世の終わりには、主につく人々、義人は迫害、困難があることを聖書は何度も繰りかえして
語っており、このハバクク書は、そのような人々に向けて欠かれたものです。

「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り」

彼は「見張り所」、に立って「見張る」ことを述べています。
町の中には色々な場所があり、それぞれの場所にはそれぞれの意味があります。
鍛冶屋は鉄製品を作るところ、ぶどう畑は人がぶどうを作るところです。
見張り所とは何か?見張り所とは、町に向かって戦いを挑む、敵を前もって見つけ出すために、
特別に立てられた高い場所です。ここで、なすべき仕事は、鍛冶屋の仕事でもぶどう作りでもなく、
しっかりと敵の来襲を「見張る」ことです。
 

さて、見張る者に関して、大事なことは何でしょう?それは、何といっても「目が良い」ことです。
いくら「自分は終末の日の急使になろう」と志したとしても、その人の目がほとんど、近視だったりして、もう目の前に「偽りの霊を下す敵」が大活躍しているのに、何も見えず、逆にその敵の姿が、
味方に見え、すっかり敵の悪魔的な霊を受け入れる人は、見張り、また急使としての
資格がありません。また、「おい、何やってんだ、敵が来たぞ」と大声で警告する、
味方を逆に敵扱いしたり、あろうことか、味方に対して、一斉射撃する人は「見張り人」とは呼べず、
また、「急使」とは呼びません。ただの盲人、惑わされた人と呼ぶのです。
はっきりいって、役立たずです。

もちろん、2回にわたって再臨するキリスト等の偽りを警告する味方を敵、異端扱い、カルト扱いする盲目な人々も察するところ、乱視ぎみであり、「見張り」、「急使」としての役不足です。
いつまでも愚かなことを言っていると主の召しから外されてしまいます。

繰り返すようですが、主がその国の見張りと立てようとする人々においては、「見える」ことが、必須であることを知って下さい。

「私の訴えに何と答えるかを見よう。」

さて、終末に関することを語ったハバククは自分の終末に関する預言に関して、「私の訴えに何と答えるかを見よう。」と語りました。私の訴えとは、「義を行いながらも、迫害、困難に会う」、正しい人々の訴えです。
主は、この義人、ハバククの訴えに関して、町に災いがくることを語られたのです。

「国々の民は、ただ火で焼かれるために労し、諸国の民は、むなしく疲れ果てる。」という言葉のように、町が焼かれることに関して語られたのです。

そんなわけで、このハバクク書の中には、終末に関するある一面が語られていることがわかります。
その一面とは、終末の日に裁きが神の民に下る、その理由です。
その理由、何故裁きが下るかの理由は、「私の訴えに何と答えるか」という義人ハバククのことばにはっきりと示されています。

すなわち、義人への迫害への裁きとして、終末の日の困難が、神の民に臨むのです。
このことは、黙示録6章の以下の記述と呼応します。

黙示録6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
11 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。
...
17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」”
 

ここでも終末の裁きは、義人への迫害への報いとして与えられることが書かれています。
「義人の迫害」そして、「迫害するものへの終末の裁き」この2つが、
ハバクク書の基本であることを知りましょう。

次を見ます。

”2 主は私に答えて言われた。幻を書きしるせ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書きしるせ。”

ここでは、幻を書き記すことについて書かれています。
ただ書けというのではなく、「幻」を書き記せと書かれているのです。
さて、幻とは、ダニエル書によく出てくることばです。
以下の通りです。

”ダニエル2:28 しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだはこれです。
29 王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。

4:4 私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていたとき、
5 私は一つの夢を見たが、それが私を恐れさせた。私の寝床での様々な幻想と頭に浮かんだが、私を脅かした。

7:1 バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだを見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。
2 ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、
3 四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。”

ここでは、「幻」は終末に関する啓示を神が示すことと関連して用いられています。
「幻や夢」と「日常起こること」との違いは何でしょうか?
ダニエル書で見る限り、幻には「解釈」が必要だということです。

バビロン王ネブカデネザルの見た夢、金の像の夢に関しては、「解釈」が必要でした。
そのままでは意味が理解できなかったのです。それで、王は、バビロン中の知者を呼び集めたのです。

同じ意味あいでここで主は、「幻を書きしるせ。」と言っています。
「普通のわかりやすいことば」で書けと命じているのではなく、「幻を書きしるせ。」と言われているのです。それで、この「終末の幻」は、全ての者に理解、解釈できるとは限らない、逆に
それを真の意味で、理解、解釈、読むことのできる人は限られている、そんなニュアンス
が隠されていることがわかります。

「これを読む者が急使として走るために、」

そんなわけで、この幻、夢を読み、解きあかすことのできる人は決して多くはないかもしれません。
しかし、世の終わりになった時、神により、目が開かれそれを「読む」人々が起こります。
それは、かつて、バビロンの知者が集まって頭を悩ませても理解することのできなかった、夢、幻 を解いたダニエルの様な人々が現れる時代のことです。

そして、それを「読む人」の特徴は、「走る」ことです。
走るということばのいわんとしていることは、座って落ち着いているのでも、ゆっくり歩くのでもなく、
急いで走るというニュアンスがあります。すなわち、この幻を本当に見てしまい、理解してしまうなら、
その人は、自然に走ってしまう、そんなニュアンスがあるように思えます。

例をあげます。
ある時、私が歩道を歩いていた時のことです。前の方で自転車と自動車が出合い頭に、接触してしまいました。大事故という程でもないのですが、しかし、
接触された主婦の自転車は倒れてしまい、その後ろの座席に座っていた幼児は、傾いた自転車から、落ちそうになっています。「危ない!」と思っていた時、自然に私の体が走っていました。
ちょっとタイミング的に間に合わなかったのですが、しかし、倒れた自転車から、子供を
助けおこしました。

特に意識して歩いているわけではないのですが、危ない場面を見ると人間は自然に「走り」だすものです。

「これを読む者」が「急使として走る」という時、このようなニュアンスがあるのではないかと思います。
事故を目撃したので、自然に走ってしまうように、この終わりの幻を真に読む者は自然に「走る」はずなのです。

逆にこの件で、全く走らない人々は、実は何も「見ていない」からかもしれません。

そんなわけで、私達がもしこの終末の時代に、神の急使として走ろうと志すなら、それは
悪い考えではありません。しかし、急使として走る者には一つ、たった一つ条件があることを
知るべきです。条件とは?それは、この幻を「読む」ことです。

「この手紙の内容を大至急で、あのフランス人に伝えて下さい。」などと依頼されても、
そのフランス語の手紙の内容が「読め」なければ、急使となることは不可能です。
「お母さんが危篤です」と書いてあるのか、はたまた、「すぐ金おくれ」と書いてあるのか、
そのフランス語の手紙を「読め」なければ、走り、急使となる資格がないのです。そうです、いくら我々が欲しても読めない手紙の内容を急使として伝えることはできません。

私達の日本の教会の現状を見てみましょう。
今の時代の緊急性をとらえ、早鐘を打つように、教会の危急を知らせる人はいまだに現れません。
誰も彼も、太平の眠りの中にいるかのようなありさまです。
急使は、まだあらわれないようです。

しかし、主は後の日に、この幻を見た者が急使として走ること、教会への急使として、
その「大変」を告知をすることを明らかに告げています。
今が終末なら、急使は確かに遣わされる「はず」なのです。

神から遣わされるはずの急使の到来を、待ちましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー