NO.366 火で焼かれる(2)


”テキスト:マタイ7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」”

本日は「火で焼かれる(2)」として、この事を更に見ていきたいと思います。
上記箇所には2つのことがらが書かれています。

すなわち:
1.良い実を結ばない木が火で焼かれること。
2.みことばを行わない人が、雨、洪水、風により倒されてしまうこと。

以上の2つです。

これらの2つは実は同じことをさしていることを知りましょう。

すなわち、火は霊のたとえであり、また雨、洪水、風もまた、霊のたとえなのです。
それで、この箇所が語っていることは、私達が良い実を結ばず、またみことばを行わない時、霊の攻撃が許され、そして、私達はそれに対応、抵抗することができず、倒れていくそのことを語っているように思えます。

この箇所は単純な真理、霊について語ります。そして、それは私達に対して、クリスチャン人生の本質について語るように思えます。

すなわち、クリスチャン人生を私達が正しく歩めるかどうかは、ひとえに我々がどのように
「霊」を対応できるかどうか、そのことにかかっている、それを見ていきたいと思います。

テキストを順に見ます。

”19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。”

「良い実を結ばない木は、火に投げ込まれ」る、すなわち、霊の惑わしに入ります。もし一度、惑わしの霊に投げ込まれたのなら、
これを逃れることは人には難しいことを知りましょう。
多くの人は今、惑わしの霊の下にいます。ですから、彼等にとって、現在は、終末では決してないのでしょう。しかし、その「確信」は悪霊の惑わしです。

”20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。”

主よ主よと言う者、クリスチャンの全てが天の御国にはいるのではありません。
そんな馬鹿なという人もいるかもしれませんが、この箇所はそのように理解するしか解釈のしようがない箇所です。愚かな「クリスチャンと名がつけば全て天国へ入る」という偽教理に基づき、広い門、滅びの門を語る偽預言者の働きに加わってはいけません。「天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」と書かれています。逆にいうと、主よ主よといいながら、父なる神のみこころを行わない人々があらわれることが想像できます。
 

”22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』”

彼等は不法を行う者達です。何故そういうのか?はっきり、「不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と書いてあるではないですか。
不法とはなにか?不法とは神の法を犯すことであり、姦淫、盗み、邪しま、等の罪を行うことです。
これも明確なことであり、議論の余地のないことです。今さらながら、
あたりまえのことを私はここで、もう教会時代も終わろうとしているのに、この「成熟した教会」の人々に語らなければなりません。それは、もし我らがこれらの「不法を行い続けるなら」、神の国を継ぐことは決して決してないということです。
パウロもこういってはいませんか?

”ガラテヤ5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。”

「こんなこと(不法)をしている者たちが神の国を相続することはありません。」と明確に彼は述べています。そんなわけで、我々は何とかして、「不法」から浄められるように求めようではありませんか。
「罪を犯しつづけてもクリスチャンと名がつけば、神の国を相続する」などというネゴトをいう嘘つき達に惑わされてはいけません。

さて、この箇所で我々が考えなければならないことがあります。それは、何故、クリスチャン、すなわち、悪霊を追い出し、奇跡をたくさん行ったクリスチャンが不法を行うようになってしまったのか?
我々が彼等の轍を踏まない為にはどうすれば良いのか?そのことです。

その理由の一つ、というより恐らく最大の理由は、始めの方に書かれているみことば、「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」とのことばです。彼等は良い実を結ばなかった、その結果、火、惑わしの霊に投げ込まれ、そのため、不法を行うようになったのです。
さて、このこと、火で焼かれることとは、実は以下で書かれている、雨、洪水と同じことなのです。
ですから、何を言っているのかというと、私達が不法に入る、罪を犯す生活に入り、そこから抜け出せない、その理由は我々が霊の攻撃を受け、そして、それに対応できない、そのためだということがわかるんです。

”24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。”

私達が岩の上に家を建てる、すなわち、みことばを行うクリスチャン生活を送る時、
聖書は、悪魔の惑わしや、悪霊による罪への誘いが来ないとはいっていません。
むしろ、雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹く、すなわち、これらの霊による攻撃は
大いにあることを述べています。そういう意味では、公平なのです。
しかし、幸いなことは、これら岩の上に家を建てた、みことばを行う人々は、皆、それらの攻撃の中でも流されず倒されることはないのです。

”26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」”

しかし、同じような霊の攻撃(雨、洪水等は霊と思われます)を受けて、家を倒され、信仰を失い、しかも、ひどい信仰崩壊を受けてしまう人々がいます。それは誰か?それは、
みことばを行わない人々です。

そんなわけで、ここに書かれている単純なクリスチャンの区分には、非常に大事な面があります。
我々クリスチャンは良く、しっかりしたクリスチャンとか、立派な歩みとかいいます。
しっかりしたクリスチャン生活をするその秘けつは何か?ここにたった一つのことが書かれています。
それは、その人が努力家か、実行力があるか、弁説さわやかか、通信簿に5が多いか少ないかということでなく、ひとえに「みことばを行う」か否かにかかるのです。

強調していいますが、もしこの聖書のことばが正しいのから、それのみにかかるのです。
そんなわけで、このことばに基づき、こう断言できるのかもしれません。
みことばを行わない、クリスチャンは等しく、霊の惑わしに入り、惑わしの霊の攻撃が来た時、対応、対抗できず、倒されてしまう、不法から出ることはできない。その反面、
みことばを行うクリスチャンは等しく、霊の惑わしに入ることなく、惑わしの霊の攻撃が来た時、対応、対抗でき、決して倒されてしまうことはない、不法に入らない。いえ、倒されても立ち上がるのです。

これはひとえにひとえに、その人が「みことばを行うかどうか」のみにかかり、それ以外の要素は関係ない。

繰り返していいますが、この箇所に非常に厳然とした、クリスチャンの歩みに関する区分、分類があることを知って下さい。

ここには、たとえ私達がどれ程、社会的に立派な人であろうと、その人がみことばを行わない人なら、
必ず、霊の攻撃に倒され、崩されてしまうことを述べているのです。

そんなわけで、私達が、いざ主の前に立った時、「知らない。不法を行う者よ」などと言われない為の歩みを正しくとらえていきましょう。それは、みことばを行う歩みであり、みことばを行う者は、
たとえ弱く、能力の貧しい人であっても、霊や惑わしに対抗できるのです。

この歩みに入りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー