NO.364 白い馬


”テキスト:ヨハネの黙示録 6:1 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。
2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。”

本日は「白い馬」という題でメッセージしたいと思います。

黙示録に書かれている「白い馬」の意味あいを考えてみたいと思うのです。
テキストを順に見ます。


1 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。”

巻き物は、封印により閉じられていました。この巻き物とは、聖書のことです。
聖書はかつての日、巻かれた書物だったからです。今の聖書学者は決してみとめないことですが、
聖書の多くのことばは、実は、教会時代の間、封印をもって閉じられています。しかし、
黙示録の時代、終末の時代になるとその封印は開け、隠された預言の意味あいが開けてくるのです。
ですから、裏返すと終わりの時代が始まる以前、聖書の暗号によれば、1996/7年以前に語られた終末預言の解釈は、
皆、「封印が開かれた時代」以前のものであり、「人間の解釈を述べた」ものに過ぎないことがわかります。

私達は、主が「世の終わり、終わりの時代が始まる迄封印は開かれない」と語るなら、そのようにいうべき、聖書の主張を尊重すべきです。人の猿知恵を優先すべきではありません。

「雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。」

さて、終わりの時代に入り、神の「終末に関する啓示の」封印が開かれるやいなや、「来なさい」とその到来を命じられるものがいます。それは何か?

”2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。”

それは白い馬です。馬とは、ヤコブ書の馬と馬のくつわのたとえから、教会をさすことがわかります。
この終末に起きる、白い馬、教会とは何か?
以下のゼカリヤ書に描かれている、終末のユダ、日本の教会と関係があるのではと私は思います。

”ゼカリヤ10:3 万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしいのようにされる。
6 わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。”

戦場のすばらしい馬は、戦いに用いられます。
同じく、黙示録の白い馬も主の戦いに用いられ、終わりの日に「主の示しに逆らって立てられた」
あらゆるやぐらをこぼち、論説を撃ち破ります。

馬は単独で戦いに行くのではなく、乗り手がいるわけです。乗り手は主御自身であり、その方は、
終末の日の戦いに参加する者を始めから選んでおり、それは、常に常に、イスラエルの戦いの先陣を切る、ユダの民です。
ユダを含む、かつてのイスラエル12部族は、黙示録によれば、終末の日に東、すなわち、アジア
の地で回復するように預言されており、このユダはそのアジアの中でももっとも東にある島国、
「日出るところにおいて、エホバの栄光おそるべし」と預言された、この国、日本です。

白は義の衣をさし、この教会には神の義があふれているでしょう。
また、「勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った」とは、この教会、日本の教会が出ていくときの世界のキリスト教会の状態を暗示します。

かつて大東亜戦争において、
日本が「出ていった」時、日本が出ていかざるをえない状況が世界にはありました。
欧米列強の支配の下で、アジア、アフリカのほとんどの国は独立を奪われ、労苦と搾取の下で、
呻吟していたのです。しかし、その日、日本、ユダは戦いにたけき獅子として出ていき、
その戦いを契機にして、これらの国々は独立を勝ち取ったのです。

さて、しかし、かつて起きたこれらのことは、この世のことであり、型、予表に過ぎません。
このことは、霊の世界、信仰の世界においても再度起きようとしています。
欧米のあらゆる間違った聖書解釈、荒廃した、教え、キリスト教の下で、呻吟している
多くのクリスチャンは、この国が「出ていった」その時、真の解放、解放を得る、そのように
思えます。

イスラエル12部族の中で、ユダこそ、戦いの先陣を勤める部族であり、また
戦いに猛き獅子に象徴される部族です。何をいっているのかというと、「勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行」くのにもっともふさわしいのは、このユダ、日本の主につくクリスチャンなのです。

しかし、もちろんユダだけが戦うのでなく、イスラエル12部族、すなわち、今、アジアにいる
彼等の子孫はこの戦いに参戦するのです。

戦いとは?それは、かつてゲッセマネの日に「ことばは神」といわれたイエスを取り囲んだ、剣や槍を持つ不遜な群集に匹敵する人々との戦いです。彼等は、かつて長老や律法学者により先導され、送られて来た人々です。それは、すなわち、今の日にいう偽りの聖書解釈に加担する盲人達のたとえです。
彼等との戦いに備えるため、かつて2振りの剣が用意されました。
私達もその剣をとって戦うのです。

さて、黙示録にはもう一箇所、白い馬について書かれている箇所があります。

”ヨハネの黙示録 19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。”

ここを見ます。

”ヨハネの黙示録 19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。”

何度もいうようですが、黙示録はたとえの書です。ここに書かれている白い馬が何をたとえているのかを
読み取れないなら、私達は、何も読んだことにはなりません。

主は王でありますが、非常に感謝なことは、この王は、単独で、戦いに出ていくのではなく、
その「馬」を伴ってくれます。馬は、ユダすなわち、日本を始めとする主につく人々です。
彼等は終末の日、主につき、主は彼等を用いられます。

”それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり”

馬に乗る方が「忠実また真実」と呼ばれるなら、その方に従う者達も「忠実また真実」
であるべきです。

終わりの日には、地震が許され、また多くの者は試され、ふるいにかけられていきます。
主に忠実な者は、「原理主義者」だとか、「バイブルカルト」だとかいわれ、
偽り者に非難されるようになります。また、主のいわれる牧会を行おうとすれば、信仰という名前で虐待している、マインドコントロールしているなどと、色々難くせをつける人があらわれるかもしれません。

逆に真理(真実)を捨て去り、「奇跡は実際に起きたわけではなく、民衆の願望を
記したもの」などとたわごとを言っている人は何にも非難されることはないかもしれません。
しかし、どのような非難、いいがかり、すりかえが行われたとしてもこのような
困難のただなかで、この「ことばなる方」に「忠実また真実」を尽くす人々にみこころがあることを知りましょう。

「義をもってさばきをし、戦いをされる。」

さばき主はもう我々に手が届くところに来られており、この方はこの「ことば」に忠実であるかどうかをもって裁かれます。

”12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。”

この方の名前は、「神のことば」です。ですから、我々がこの方のことばに忠実であるかどうかで、
その日、裁かれることを知りましょう。

「ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」

名前は、その人の本質やあらわれを示します。たとえば、「林家三平」なんていう名前は、いかにもお笑いという感じの名前で、
名前を聞いただけで、何か面白いだじゃれを期待できそうな気がします。
「アントニオ猪木」とか「ストロング小林」なんて聞くと、いかにも強そうなプロレスラーのイメージ
が沸き起こります。
 

かつて「ことばなる神」がイエスキリストという名前をもって、
「ことばは肉体をもって我々の間にあらわれた」時、それは新しい名前でした。
厳しい神、裁き主というように思われた方、神の別の面、救い主なる方、
罪を購う方という面を表したのです。

さて、世の終わりの時、再度、この方は、「だれも知らない名」をもって現れます。
「だれも知らない名」をもって現れる?これは何を意味しているのでしょう。一つは、
我々が知らなかった神の面をその日、表されるということでしょう。
我々が思い描いている、「何でも許す神」「大甘の神」からは懸け離れた面を我々はその日、見るのでしょう。
また、もう一つの意味あいは、想像するに、思いもかけなかった、人々、グループを用いるということかもしれません。

かつて、ナザレのイエスという「だれも知らない名」の異端者及び、その追随者が現れた時、宗教の専門家である律法学者、
祭司達は、皆彼を信用しませんでした。彼等はこぞって、このイエスの教えは神や、聖書と
ぶつかる者であり、異端と判断したのです。
しかし、神の前の事実は異なり、実際は、このイエスという
「名前」の人物こそ、神から送られてきたメシヤだったのです。
その日、神は「誰も知らない」人々を用いたのです。

恐らく同じことは、この終末の「だれも知らない名」に関しても行われるのでしょう。
その日、真に神により、選ばれた人々は、誰も知らない、思いもかけない人々かもしれません。

”14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。”

「天にある軍勢」とは、イエスとともに天に座す、すなわち、地に住む、この世の歩みをしない、
クリスチャンのことです。また、ここに「白い馬」が出てきます。
これは、その日、主につく教会のことであり、その先陣は、イスラエル12部族、中でも
ユダ、すなわち日本の獅子たる人々が勤めるはずです。
白は義をあらわします。

”15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。”

ここで、「諸国の民」といわれるみこころから外れた人々がいます。
世界地図を広げるなら、世界の中心は、イスラエル、エルサレムです。
この町は、地理的に世界の中心に置かれています。これは、たとえであり、
神のみこころの中心に置かれた民、国をさします。「諸国の民」は中心に住まず、
神のみこころの焦点からはずれた、「的外れな」クリスチャンのたとえです。

蛇足ながら、現在の虐殺を続けるイスラエル国は、地理的には中心であっても、神のみこころからは
もっとも離れた国です。

諸国の民は、みことばを曲げ、「地獄はない」「クリスチャンと名がつけば、
艱難時代には上に挙げられるから大丈夫」等の偽りの教えを奉じているのですが、この日、
「鋭い剣」を持つ方に裁かれます。

「この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。」

酒ぶねは、ぶどう酒、すなわち聖霊と関係があります。この日、霊の面でも裁きが顕われ、
聖霊の声に聞き従おうとしない人々は、悪霊のとりことなります。

”16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。”

この方、ことばなる方こそ、「王の王、主の主。」です。
この方のことば、聖書のことばを投げ捨て、人の猿知恵に過ぎない、
神学書や、猿学者の注解書を優先する人々は、その日、大いなる恥と裁きを受けることを知りましょう。

繰り返しますが、黙示録の「白い馬」はその日主につく教会、なかんずく、
戦場の馬ユダ、すなわち、日本の「主につく教会」を表しているように思えます。ですから、終末の
この日、この国で主につく人々の使命は重いことを知りましょう。

終末における主のみこころを知りましょう。

ー以上ー