No.363 戦場の馬


テキスト:ゼカリヤ10:1 後の雨のときに、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。
2 テラフィムはつまらないことをしゃべり、占い師は偽りを見、夢見る者はむなしいことを語り、むなしい慰めを与えた。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので悩む。
3 わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰しよう。万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。
4 この群れからかしら石が、この群れから鉄のくいが、この群れからいくさ弓が、この群れからすべての指揮者が、ともどもに出て来る。
5 道ばたの泥を踏みつける勇士のようになって、彼らは戦場で戦う。主が彼らとともにおられるからだ。馬に乗る者どもは恥を見る。
6 わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが、彼らの神、主であり、彼らに答えるからだ。
7 エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。
8 わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼らは以前のように数がふえる。
9 わたしは彼らを国々の民の間にまき散らすが、彼らは遠くの国々でわたしを思い出し、その子らとともに生きながらえて帰って来る。
10 わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリヤから彼らを寄せ集める。わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる。
11 彼らは苦難の海を渡り、海では波を打つ。彼らはナイル川のすべての淵をからす。アッシリヤの誇りは低くされ、エジプトの杖は離れる。
12 彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。「「主の御告げ。「「”

本日は、「戦場の馬」という題で終末の日におけるユダ、日本の働きを見ていきたいと思います。
ゼカリヤ10章を順に見ます。

”1 後の雨のときに、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。”

後の雨のときとは終末の日の聖霊傾注の日であり、その日、神により、大雨を受ける人、また
受けない人もいます。しかし、その日、この雨、霊を悪霊などと呼ばず、「主に雨を求め」る人に
みこころがあります。

”2 テラフィムはつまらないことをしゃべり、占い師は偽りを見、夢見る者はむなしいことを語り、むなしい慰めを与えた。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので悩む。”

その日は、終末の日、教会が荒廃、道が曲げられた日であり、「占い師は偽りを見」、
偽りのリバイバルを語り、「夢見る者はむなしいことを語り」、キリストが2回再臨するなどとの空想話を語り伝えます。また、目の前に現れている獣の国、「アメリカは聖書に書かれていない?!」などと、
たわごとを語ります。
「それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので悩む。」のです。

それゆえ、主は「わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰しよう。」といわれるのです。

ここまでは、終わりの日の荒廃した教会に関する現状と裁きについて述べてあります。
さて、この後、主題が一変し、
ユダ、日本について語られます。これも同じ終末の日のできごとです。

「万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。」

さて、このように世界の教会が堕落、荒廃、行くべき道を忘れてしまった、終末のその日、
主の目は地の果てである、東の地に注がれ、その地に住む、かつてのユダの子孫が住む島国へと
注がれます。その国の教会に注がれるのです。その日、主はこの国の「主につく人々」を訪れ、
彼等を「戦場のすばらしい馬のようにされる」のです。

戦場、馬は戦いに関係しています。その日、世界の教会は敗色濃く、落城、荒廃の極みに達し、
何らの勝利も見えない、そんな状態になるのかもしれません。
しかし、見よ、突然日は東から上り、突然の勝利は、東の勇士達を通して起こります。勝利を得る方は、その馬に乗り、
その方は王の王、主の主です。この馬とは黙示録で書かれているように、勝利を得る方が乗られる白い馬のことでもあり、彼等こそ、終末の教会に大勝利をもたらせる人々です。
この馬はどこから起きるのか?それは日の上る方、アジアの国々であり、最も東に属する国、我らが日本は、その先鋒です。

”4 この群れからかしら石が、この群れから鉄のくいが、この群れからいくさ弓が、この群れからすべての指揮者が、ともどもに出て来る。

かしら石は、礎石であり、建物の一番の土台です。ですから、教会の基礎、建てあげる人々です。
また、鉄のくいは、幕屋すなわち教会の基いです。これも教会の土台となる人々です。
ですから、この国、ユダの教会の中から、「すべての指揮者が、ともどもに出て来る」のです。
今、この国の教会の中で、みこころを行う人はこの使命を負うようになるでしょう。
これは、しかし、大変な召しです。世界的な教会回復の働きの何と中心的な使命をこの
国の教会が負うようになるといわれているのですから。

かつて、アジア、アフリカの国々が欧米の国の植民地として、呻吟し、うめいていた時、
救いと助けは東の地、世界の東の島国から起き、東亜の星、日本の決起とともに、
アジアの植民地は一掃されました。彼等はこの国の戦いと勝利を契機にして、
長い間の従属を捨て、自らの国の復活、独立を勝ち得たのです。このことは、後の日に
霊の世界で起きる事柄のたとえ、予表とも思えます。かつて政治、社会の世界で起きたこの国を
先鋒とした動き、回復が教会に関して起きます。その日、回復が、
今度は教会に関して起こるのでしょう。
 

”5 道ばたの泥を踏みつける勇士のようになって、彼らは戦場で戦う。主が彼らとともにおられるからだ。馬に乗る者どもは恥を見る。”

今、情けなくも獣の国の神学、偽りのしもべとなっているような愚かな日本の教会に主の手が臨む、その
時、何と、この国の主につく人々は、「道ばたの泥を踏みつける勇士のようにな」ります。
「彼らは戦場で戦」います。何に対して、そして誰と戦うのでしょうか?
もちろん、終末の教会を惑わす、偽りの教え、かつてゲッセマネの日にイエスを取り囲んだ「剣」のように、今「ことばなる方」に戦いを挑む、生意気な剣、教理、教えに対してです。
かつての日、2振りの剣が、イエスのために用意されたように、今この日、主につく剣が用意されようとしています。

その勝敗のゆくえは?いうまでもないことですが、ユダが勝利を収め、主につく剣が勝利をおさめるようになるでしょう。何故彼等が勝利を納めるのか?その理由は?「主が彼らとともにおられるからだ」ということがその理由になります。そんなわけで、これからキリスト教会に大戦争、大きな教理論争が起きると明らかに聖書は預言していることを知るべきです。
その日、偽りの教理、広く行き渡っているが、しかし、聖書のことばと全く異なる教えを
奉ずる人々は大恥を受けるでしょう。「馬に乗る者どもは恥を見る。」と書かれている通りです。

”6 わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが、彼らの神、主であり、彼らに答えるからだ。”

その日、アジアに住むかつてのイスラエル12部族の子孫は、この方、主を見い出します。
「わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。」とはこのことをさします。
「わたしは彼らを連れ戻す。」とは、決して、地理的な移動を意味するものではありません。
今、アジアの中国、韓国、日本などに住む、イスラエル12部族の子孫が中東の地に地理的に戻るということは、決してありません。そもそももし、彼らが移っても、何億という人が住む場所も家もありません。

しかし、彼等は神の部族としての立場、位置に戻ります。それが、「わたしは彼らを連れ戻す。」ということばの意味です。長い間、例えば、日本においては、その歴史が始まって以来、私達の国民は
神から見捨てられたかのようでした。

かって確かにこの国にあったはずの生ける神との交わり、奇跡は遠い、遠い過去のもののようであり、
聖書の神はこの国と何の関係もないかのように見えます。そう、私達の国は、神から捨てられた国のようにさえ見えるのです。神がこの国を見捨てられたその理由は我々の先祖が不信の罪を侵したからであり、また、ユダ国の人々がキリストを殺したそのためです。

しかし、終わりの日にもう一度神はこの国の民を振り返ります。その日、私達の国、日本において、
「彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる」ということばが成就します。
聖書の神、キリストの教えは、何の違和感もないように、あたかもこの国は、今迄ずっとこの神を知っていたかのように深い霊的な知識が及ぶでしょう。今迄ずっとそうであったように、すばらしい
キリスト教国へと変身するようになるでしょう。

このことをさしてパウロは「野生のオリーブがもとの性質に反して、つながれるなら、元木のオリーブはもっと容易につながる」と表現しています。その日、すみやかにすみやかにこの国は「キリスト教国」へと変身するようになるでしょう。

「そんなうまいことをいったって、この日本の国、頑固な国民には決してそんなことは起きない」と
クリスチャン歴が長い人程、思いやすいものです。
しかし、これらのことばがこのこと、日本を始めとするイスラエル12部族を語っているなら、それは、
必ず起きることを知りましょう。

”7 エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。”

その日、アジアにいるイスラエルの部族の子孫は、「ぶどう酒に酔ったように喜ぶ」すなわち、
聖霊に満たされるでしょう。

”8 わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼らは以前のように数がふえる。”

その日、主はこの地方を顧み、私達がどのような者なのかを悟らせ、そして、私達は主のもとに集められます。「彼らは以前のように数がふえる」とは、神を知る人々の数がこの地に多くなることをさすのでしょう。
 

”9 わたしは彼らを国々の民の間にまき散らすが、彼らは遠くの国々でわたしを思い出し、その子らとともに生きながらえて帰って来る。”
 

かつて主は、イスラエル12部族の子孫を「国々の民の間にまき散ら」しました。
しかし、彼等は遠い地、アジアの地で、自分達の神について思い出します。
「彼らは遠くの国々でわたしを思い出し」とはこのことをさします。そして、彼等12部族は、神のもとへ、「その子らとともに生きながらえて帰って来る。」のです。ただし、これは、信仰の世界のことであり、物理的、地理的に中東に帰還するということは、意味していません。
 
 

”10 わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリヤから彼らを寄せ集める。わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる。
11 彼らは苦難の海を渡り、海では波を打つ。彼らはナイル川のすべての淵をからす。アッシリヤの誇りは低くされ、エジプトの杖は離れる。
 

「エジプトの杖は離れる」と書いてありますが、エジプトはこの世的なものをさすとするなら、
エジプトの杖、すなわちこの世的な教え、教師をもはや頼みにしなくなるということをいうのでしょうか。

「彼らはナイル川のすべての淵をからす」との表現は、黙示録の中で、「日の上がる方から来る王達に道を備えるため、ユーフラテス川の水が干上がる」ことと関係するように思えます。
要は悪霊の水、悪霊のリバイバルと、この回復したイスラエル12部族は戦うのです。

”12 彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。「「主の御告げ。「「”

その日、これら12部族の子孫は、主にのみ頼り、それゆえ、神の奇跡とわざを見ていきます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー