NO.360 島国(日本)にエホバの栄光恐るべし(2)

”テキスト:イザヤ24:
1 見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。
2 民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。
3 地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。主がこのことばを語られたからである。
4 地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。
5 地はその住民によって汚された。彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。
6 それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。
7 新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心楽しむ者はみな、ため息をつく。
8 陽気なタンバリンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な立琴の音も終わる。
9 歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒を飲んでも、それは苦い。
10 乱れた都はこわされ、すべての家は閉ざされて、はいれない。
11 ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。
12 町はただ荒れ果てたままに残され、城門は打ち砕かれて荒れ果てる。
13 それは、世界の真中で、国々の民の間で、オリーブの木を打つときのように、ぶどうの取り入れが終わって、取り残しの実を集めるときのようになるからだ。
14 彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。
15 それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。
<(ブレントン70人訳)それゆえ、主の栄光が海の島々にあるべし、主の名は栄光であるべし。>
16 私たちは、「正しい者に誉れあれ。」という地の果てからのほめ歌を聞く。しかし、私は言った。「私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者は裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」
17 地上の住民よ。恐れと、落とし穴と、わなとがあなたにかけられ、
18 その恐れの叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴からはい上がる者は、そのわなに捕えられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。
19 地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。
20 地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。
21 その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。
22 彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる。
23 月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。”

本日は「島国(日本)にエホバの栄光恐るべし(2)」との題で更に、イザヤ書の
箇所を見ていきたいと思います。

島国における主の栄光について預言している箇所は、イザヤ24:
15節です。この章の背景を見ていきましょう。

順にみます。

”1 見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。
2 民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。”

島国日本に神の栄光が表される日はどのような日でしょうか。
その日は、「地を荒れすたらせ」すなわち、教会が荒廃した末の日です。その日は「民は祭司と等しくなり」すなわち、神の前に仕えるべき人も俗世間の人も同じようになる、すなわち、どの神父もタバコ大好き、酒は良く飲む、スキャンダルは起こす、すなわち、世の中の人となんにも変わりのない堕落した者となった、情けない時代のことです。今がその時でしょうか。このように主の名を汚している冒涜神父達、彼等は決して「心が広い」のでも、「狭い考えに捕らわれない」、「進歩的」なのでもなく、ただ、罪から逃れることのできない、罪の奴隷に過ぎません。
だからこそ、「奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と...等しくなる」と書かれているのです。

3 地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。主がこのことばを語られたからである。
4 地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。”

教会はかすめ奪われ、正しい信仰、神への義、聖霊のたまものを求めることなど、良いことは、
教会から奪い去られています。


5 地はその住民によって汚された。彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。”

今の教会の問題は何か?それは、「彼らが律法を犯し」すなわち、神のことばを守らず、
侵していることです。また、「定めを変え」ているからです。聖書は、終末に艱難があること、その為の備えをなすことを語っていますが、彼等はそれを変え、「もう一回、別の再臨」を勝手に増やし、
「艱難はあるけれど、その時、教会は天に挙げられている(高みの見物?)」から
大丈夫などと、とんでもない大嘘話と取り替えました。勝手に「定めを変え」ているのです。

”6 それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。”

今の教会をのろいが覆っています。その理由は彼等が神のことばを捨て去り、
これらの空想話に迎合したためです。また、「その地の住民は罪ある者とされる」ます。
すなわち、「自分達が義とされた」とは、思い込みに過ぎず、神の前に罪あるものとして残るのです。

”7 新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心楽しむ者はみな、ため息をつく。
8 陽気なタンバリンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な立琴の音も終わる。
9 歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒を飲んでも、それは苦い。”

「新しいぶどう酒」だ、すばらしいリバイバルだなどという触れ込みでも、実際は獣の霊が下されているのに過ぎず、教会はいやされません。それで、「新しいぶどう酒は嘆き悲しみ」「強い酒を飲んでも、それは苦い」ということになるのでしょう。
 
 
 
 

”10 乱れた都はこわされ、すべての家は閉ざされて、はいれない。
11 ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。
12 町はただ荒れ果てたままに残され、城門は打ち砕かれて荒れ果てる。
13 それは、世界の真中で、国々の民の間で、オリーブの木を打つときのように、ぶどうの取り入れが終わって、取り残しの実を集めるときのようになるからだ。”

その時、時代は、「町はただ荒れ果てたままに残され、城門は打ち砕かれて荒れ果てる。」というように、
教会が荒廃し、教えが荒廃し、「城門は打ち砕かれ」そして、敵が好きなように攻撃できる時代です。
「マリヤはキリストと共同の購い主」などというトンデモ教理が教会のまん中に堂々と掲げられる日なのです。

14 彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。”

さて、ここから全然、別の調子でみことばが語られます。
今迄は終末の日における、教会の荒廃、堕落について語られていました。
しかし、ここからは、別の人々について語られます。
誰について?
他でもない、海の向こうの民、島国日本、ユダの末裔が住む国について語られているのです。
彼等は今迄語られていたような荒廃と混乱の教会のまっただなかの時代にあって、突然、
神の祝福に入り、「声を張り上げて喜び歌い」ます。そして、「海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。」
のです。海の向こうとは、聖書の記述の中心である、イスラエル、ユダ国のあった中東の地、すなわち、ユーラシア大陸から見た「海の向こう」について語られているのです。
その島国はどこか?
以下のように書かれています。


15
<(ブレントン70人訳)それゆえ、主の栄光が海の島々にあるべし、主の名は栄光であるべし。>”

ここには、その終末の日、多くの教会が堕落、荒廃したその日、主の栄光が海の島々にあることが
書かれています。ユーラシア大陸の東にある島々の国とは、他でもない日本のことであり、日本以外ありええません。
この箇所は他でもない日本のことを預言したものであると、ヘブル語を
解する故川守田英二博士は述べました。この人こそ、人に先立って、「日本=南朝ユダ国説」を唱えた
先見の明のあった人です。

16 私たちは、「正しい者に誉れあれ。」という地の果てからのほめ歌を聞く。”

ここではこの賛美が、「地の果て」から聞こえると書かれています。
イスラエル、エルサレムから考えるなら、東の地、島国
日本はまさしく「地の果て」に属する島国であり、その意味でもここには、「日本」をさしていると理解できます。

それで、これらの箇所が語っていることは、このことです。
すなわち、終末の日、多くの教会が堕落荒廃したその日、忽然と朝日が上るように主の栄光が
上る国がある、その国は、黙示録で、「日の上がる方で聖霊の印を受ける」と約束された国でもある。
その国は東の島国であり、その島国にあふれるばかりの神の栄光があらわれる。
そのことを聖書は預言しているのです。
この日は、以下のようにロマ書でパウロが預言したかつての神の民が復活する日です。

”ロマ11:12もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。”

次を見ます。

しかし、私は言った。「私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者は裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」
17 地上の住民よ。恐れと、落とし穴と、わなとがあなたにかけられ、”

これらの東からのすばらしい栄光が起きる日は、また、教会が裁かれる日でもあります。
その日、黙示録でいう「地に住むもの」すなわち、この世につく人々には、災いが来ます。
「地上の住民よ。恐れと、落とし穴と..」とはこのことをさします。
そのような人々のために、終末に落とし穴とわなとがかけられます。
落とし穴は相手に気付かれないようにかけられ、そして、相手を陥れます。わなも同じです。
終末の日、この世についたクリスチャンにかけられ、それにひっかかった人々は、裁きと
滅びにはいります。

終末には、教会の時代は終わり、異邦人の時は終わる。使命の終わった教会は艱難前に挙げられるという
あの嘘話、デイスペンセーション主義こそ、まさにこのわなです。
2回に渡ってキリストが再臨することを裏ずける聖書箇所など、どこにもないことは多くの聖書学者が指摘することですが、(というより、自分で聖書を読めばそんな箇所はないことはすぐわかることなのですが..。)しかし、信者になった時から、「キリストは2回再臨する」と嘘を教会で教え込まれて来たクリスチャン達は、「刷り込み効果」よろしく、偽りの教理から抜け出ることが難しいです。
カソリックの人々が何故、聖書には書かれていない、いや聖書の教えと真っ向から反対する教え、
マリヤ崇拝や、無原罪法皇等のインチキ教理をやすやすと受け入れるのか、不思議ですが、
これも刷り込み効果のなせるわざなのでしょう。

18 その恐れの叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴からはい上がる者は、そのわなに捕えられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。”

ここで書かれていることは、教会が荒らされ、教理が曲げられ、また、偽りの霊がまんえんし、
どこに行ってもこれらの偽りを逃れるすべがない、状況をさしているように思えます。

19 地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。
20 地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。”

地は、教会のたとえでしょう。
その日、「地は裂けに裂け」すなわち、教会、教団は分裂、紛争を大いに起こします。
兄弟の間に争いが起こる日だからです。「地はゆるぎにゆるぎ」すなわち、教団、教会の歩み、方針は定まらなくなります。

”21 その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。
22 彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる。”

その日は多くのクリスチャンが裁かれる日です。

23 月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。”

日、月は「光を出す」ものとしての器のたとえです。その日、主につかない器は恥をみます。
シオンの山、エルサレムは、ユダの首都であり、日本と関係していることばともいえます。
その日、多くのキリスト教会が堕落と崩壊の中にいるその時、主は、ユダすなわち日本の教会で
王となると解釈することができると思えます。
その日、多くの世界の教会が、法皇崇拝や、器崇拝に興じるその時、一人に本の教会においては、
この方、イエスキリストのみが王であり、主の主任牧会が始まるのかもしれません。
このこと、このキリストを王とすることこそ、尊いことであり、その日、この方を王とする
「その長老たちの前に」栄光が輝きます。

このようにこの箇所も終末の日に荒廃した世界のキリスト教世界の中に忽然と現れる、
ユダ、日本を中心とした教会の復活に関して語っているように思えます。

かつて第二時世界大戦の時に起きたことはこの日の予表かもしれません。
すなわち、世界のアジア、アフリカの諸国が、
キリシャの末裔である白人達の
圧制、植民地政策の下に呻吟していた時、
アジア、アフリカのほとんどの国ぐにが植民地となっていたその時、暗闇に忽然と上がる、
旭日、朝日のように現れた東方の島国、日本が唯一反旗を翻し、これらの圧制、
占領に立ち向かったのです。
もちろん、日本はその戦いのゆえに、多くの犠牲を払いましたが、
しかし、その日本の戦いを契機に世界の多くの植民地は独立を勝ち取りました。

今のゆがめられた歴史観から見るとこの日本の戦争を悪くいわれているようですが、
しかし、事実は事実として見ていかなければなりません。
日本は明らかに聖書で書かれている「始めに戦いに出ていく部族」すなわち、先陣を切る
部族、ユダとしての役割を演じたのです。
さて、これらは、しかし、この世の戦いに属することに過ぎません。

本番は信仰、霊の世界において行われます。
まだその日を我々は見ていませんが、しかし、その日、この民族、ユダは必ずや、
神のわざの復興の働きにおいても先陣を切るはずです。
このこと、日本、ユダの未来の働きを、まだ何らの働きも見えていない今、前もって語っておきます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
 
 
 
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