NO.359 島国(日本)にエホバの栄光恐るべし


テキスト:イザヤ書 24:15(新改訳) それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。(口語訳) それゆえ、東で主をあがめ、海沿いの国々でイスラエルの神、主の名をあがめよ。(新共同訳) それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。
(ブレントン70人訳)それゆえ、主の栄光が海の島々にあるべし、主の名は栄光であるべし。”

本日は、「島国(日本)にエホバの栄光恐るべし」という題でメッセージをします。
終わりの時代は、西というより、東の時代になること、また、
異邦人の時代が終わり、かつての肉にある、イスラエル人の子孫にその恵みが移って来ることは、
聖書が暗示していることです。
そして、この2つのことはある意味同時に起きることも想像されます。2つとは?
すなわち、

*西から、東へと神の恵み、働き、栄光が移ること
*異邦人から、肉にあるイスラエル人の子孫へとその恵みが移ること
この2つです。

その意味あいで、東すなわち、アジアに属し、なおかつかつてのイスラエルの子孫が住んでいる
と思われる国々、なかんずくユダの子孫が住んでいると思われる日本の使命は大きなものであることが想像されます。東の国々は、2重の意味あいで、終末の日の鍵となるのです。

さて、終末の日に日の上がる方において、神の大きなわざ、働きがあり、終末の日の
聖霊復興の鍵となることは実は聖書のいくつかの箇所が預言していることです。
私達の目が開かれるなら、これを見ることを得るでしょう。

1)たとえば、、黙示録7章に記されている有名な14万4千人の聖霊の印を受ける、
イスラエルの子孫は何と日の上がる方で、その印を受けます。
彼等、イスラエルの子孫が中東の地で聖霊の印を受けるとは、書かれてはいません。
また、もちろんニューヨークで受けるとも書いていません。
ですから、実は中東で、パレスチナ人を虐殺したり、ニューヨークで色々怪しいことをたくらんで、
いる色の白い「ユダヤ人だと自称している人々」は、実は、「ユダヤ人だと嘘をついている人々」
に過ぎないことをも聖書は暗示しているのです。

2)また、以下の箇所も東に関することがらです。

”黙示録16:12第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。”

大ユーフラテス川とは、旧約の神の民の領土の境界を流れていました。
すなわち、この川は、信者と未信者とを分けていたのです。
この川は、聖霊の川を象徴しており、その聖霊の働きは、終わりの日に全く枯渇します。
しかし、大雨が終わりの日に降ります。それは、前の雨(ペンテコステ)、後の雨(終末の聖霊復興)と
預言された雨であり、終わりの日の大収穫をもたらします。その働きの中心は誰か?
ここで、「日の出るほうから来る王たち」と書かれているように、日の出る方、すなわち、
アジアに住んでいるかつてのイスラエル12
部族の子孫の住む国々です。
なかんずく、その中でもかつて聖徳太子が、「日出る國」と誇りをこめて語ったこの日の本の國、
日本の活躍が、大きいだろうことは期待できるのです。
あの黙示録7章の記述を見てみましょう。

”4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
5 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、.....。”

12部族の名前が綿々と書き続けられている中で、その筆頭、先頭にユダ、すなわち、日本の名前が
記されていないでしょうか。旧約のイスラエルの戦いの中で、必ず必ずその先陣を勤めるのは、
ユダと決まっていました。
この最後の戦い、終末の大きな戦いにも必ず、その先陣は、ユダ、この日本が勤めるようになるでしょう。
一番槍の誉れは必ず、この日本が取るようになります。
私は知っています。今の日本のキリスト教会の実情を知りつつそんなことを述べるのはほとんど、キチガイざたです。
しかし、このことは、主が語られているように思うので私は前もって書き記しておきます。
外れたら是非大笑いして下さい。しかし、もしこのことばが成就したら、その日、主が誰を通して語っていたのかを思い出して下さい。

3)さて、以下の預言もユダ、日本の働きを預言しているものと思えます。

黙示録5:5”すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」”

ユダ族から出たしし、ダビデの根とは第一義的には、イエスキリストのことですが、
しかし、終末においては、もう一つの意味あいがあり、ユダ、ダビデの子孫により、巻き物すなわち、
聖書のみことばの封印が開ける、啓示が開けることを語っているようにも解釈できます。
ユダの子孫とは、他でもない東の國、日本のことであり、この國に住む、クリスチャンのことです。
終末の啓示がこの國のクリスチャンを通して開かれると主張することは決して無理な解釈ではありません。

このように聖書のいくつかの箇所は明らかに終末の日は、東にみこころがあるこ、神のわざが開かれることを語っています。
さて、本日はそれに加えて、上記テキストの箇所を見ていきたいと思います。

”(ブレントン70人訳)それゆえ、主の栄光が海の島々にあるべし、主の名は栄光であるべし。”

この箇所は聖書の訳により、全然意味あいが異なって訳されています。

どうして、こんなに訳が異なるのか、一体どれが正しい訳なのか不思議です。
大事な箇所に限って変な訳が横行しているのは残念なことです。
特に新改訳では、重要な「島」ということばがすっぽり抜け落ちています。
一体なんでこうなるのか不思議です。

さて、この箇所を70人訳で見るとき、何と驚くべきことには、主の栄光が島国にあることを語っている、おそるべき神の栄光が、島国に現れることを預言している箇所であることがわかります。

旧約の神の民の舞台であった、イスラエルの地は島国どころか、大陸にあったことは、誰でも知っていることだと思います。
ですから、このみことばは、「終末の日にイスラエル民族が中東に帰還する」という考えで読むと理解できない箇所なのです。何故なら、中東のイスラエル国は島国ではないからです。しかし、
このようなキリスト教会に出回っているヨタ話、デマ話に乗せられず、聖書が語っていることばに立つなら、すなわち、「日の上る方におけるイスラエル12部族の回復」「日の出る方の王達」との記述と合わせて考えるなら、この箇所は自ずからすっきりと理解できます。

すなわち、この箇所で語られている島国とは、かつて中東の地から、移動し、東の島国、日本にまで、
辿り着いたユダ族の末裔が、終末の日に神のわざ、栄光をその国であらわす、そのことを預言しているのです。

このように私達の目が開かれるなら、聖書は明らかに終末の日における「東」の地における神のわざを語っていることがわかるでしょう。

今、この国に住む私達クリスチャンの使命は大きいことを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー