NO.357 エルサレムから主のことばが出る


”テキスト:ミカ4:1 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。
2 多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
3 主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
4 彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。
5 まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。
6 その日、「「主の御告げ。「「わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。
7 わたしは足なえを、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。
8 羊の群れのやぐら、シオンの娘の丘よ。あなたに、以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る。
9 なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの議官は滅びうせたのか。子を産む女のような苦痛があなたを捕えたのか。
10 シオンの娘よ。子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。そこであなたは救われる。そこで主はあなたを敵の手から贖われる。
11 今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり、そして言う。「シオンが犯されるのをこの目で見よう。」と。
12 しかし彼らは主の御計らいを知らず、そのはかりごとを悟らない。主が彼らを打ち場の麦束のように集められたことを。
13 シオンの娘よ。立って麦を打て。わたしはあなたの角を鉄とし、あなたのひづめを青銅とする。あなたは多くの国々の民を粉々に砕き、彼らの利得を主にささげ、彼らの財宝を全地の主にささげる。”

本日は、「エルサレムから主のことばが出る」という題でメッセージしたいと思います。

終末の日に、神のわざが、東から起き、日が上る方角で、イスラエル12部族が聖霊の印を受ける、すなわち、聖霊にあずかることは、明確に黙示録に預言されたことです。
ですから、この日、終末の日の神のわざの中心、働きは、西というより、東の地に移っていくことが予想されます。
かつて、神の恵み、救いは、旧約の神の民から、異邦人へと移っていってしまいました。「救いは異邦人へ」と書かれている通りです。
その理由は、彼等旧約の神の民の違反と冒涜が、頂点に達したため、神の恵みは彼等から離れたからです。同じ意味あいで、西側の国に始めにキリスト教が伝えられたことは事実ですが、しかし、その後、
もう2千年もの時が過ぎ、彼等の背きと冒涜は頂点に達しています。
神の恵みは東に移りつつあります。何故か?何故ならこの地にこそ、かつてのイスラエル12部族の子孫がおり、わけてもそのもっとも東の国、日本には、獅子の部族、ユダの子孫がいるからです。

このことを念頭に起きつつテキストを見ていきたいと思います。

”1 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。”

終わりの日に、主の家の山といわれる山、教会が立ちます。
この教会はそれ迄の教会とは明らかに異なる教会であると思われます。
かつてイエスの時代に起きた山、教会はそれまでの山、教会(教会とは会衆のこと)、すなわち、
神の会衆、旧約の集まりとは明らかに異なっていました。
同じことが終末にも起きるでしょう。
この教会は、今迄の教会と明らかに異なり、それらに勝る大きな恵みと恩寵の歩みをするでしょう。
「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち」と書かれている通りです。
また、多くの教会の会衆はこの働きをめざして集まるでしょう。「、国々の民はそこに流れて来る。」と書かれている通りです。

”2 多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。”

シオン、エルサレム、ユダという時、2種類の意味あいをとらえていくことが必要です。
*一つは霊的なイスラエルは教会であり、その中でもユダはプロテスタントをさしていること。
*もう一つは、聖書はしかしまた、肉的なイスラエル、ユダのことを全く述べていないというわけではなく、このことをも述べている。そういう意味では、ユダ族の子孫、日本に関わる預言ともいえる。

尚、シオンとはエルサレムの別名です。そして、エルサレムはユダの首都です。

さて、上記のようにシオン、エルサレムに関する預言には、2種類の意味あいがあります。
そして、どれがどれをさしているのかはわかりません。
そんなわけで、あいまいですが、どちらでも良いように解釈していくしか、とりあえずは
ないと思えます。

「多くの異邦の民が来て言う。」

多くのエルサレム、シオンといわれる中央の民以外のクリスチャンのことをさします。それは、エドムといわれる、俗悪なクリスチャン、またバビロンと呼ばれる、
バビロン化したクリスチャンかもしれません。

「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。」

この日、主の山といわれる教会、グループ、人々があらわれます。その人々に恵みと奇跡と神のわざがあらわれます。それで、それを求めて多くの回りのクリスチャンは集ってくるのです。

「主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」

この日、この人々、教会を通して、神の教える、命に至る狭い、小道が明らかになります。
それで、人々はこの狭い道、命へ至る道を歩みだすようになるのです。
それは、今盛んに嘘だらけの注解書や偽預言者が人々に語る広い、滅びに至る道ではなく、
正しい、狭い道です。
クリスチャンの終末の備えをつき崩す、2段階携挙説や、ユダヤ人の空想話、デイスペンセーション主義などとは無縁の正しい道です。
 

「それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」

さて、その教えは、どこから、誰が語るのでしょうか?
それは、シオン、エルサレムから出ることが語られています。
このことばの意味あいはどのようにとるべきなのでしょうか?まずいえることは、
シオン、エルサレムは神の國の中心地だということです。

イスラエルは他の國、エドム、エジプト、バビロンなどとくらべると、神に選ばれた國です。
しかし、そのイスラエルの中でもさらに選びがあります。多くの町の中でも、エルサレム、シオン
こそ、中心の町、選びの中でも選ばれた町なのです。
それで、これは、終末の日、神に選ばれたクリスチャン達、そのように解釈できると思います。
しかし、もう一つの面も見なければならないと思います。それは、肉的なイスラエル、すなわち、
かつてのイスラエル民族の血統を継いでいる者達です。
その意味あいを考えるなら、ユダ族の血を継いでいる(と思われる)日本こそ、そのシオン、エルサレム
にあたる國なのです。すなわち、「シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」
とは、要するにその終末の日、この日本から、神のみことばに沿ったメッセージが開かれてくる、
そのようにも読めるのです。

「メッセージが開かれる?」「メッセージなんて、世界中どこの教会でもあるじゃないか」という意見もあるかもしれません。
この件に関してもイエスの時代のことが参考になると思います。
その日、イエスの日、このことば、「シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」
との預言の最初の成就がありました。

「みおしえが出」「主のことばが出るからだ」とわざわざ書かれているということは、裏返すと、
その頃には、教えも主のことばもない状態が神の民の間に続いていたということが暗示されます。
それは事実であり、主の来られる前、律法学者、パリサイ人が会堂で教えていたのでしょうが、
しかし、そこには、真の教えはなく、真の神のことばはなかったのです。

しかし、その日、ベツレヘムで生まれたユダ族出身のダビデの根、イエスキリストが現れた時、
状況は変わりました。恵みとうるわしいみことばに人々は、強められ力付けられたのです。

そして、その時代、イエスの時代の再来が終末にあるのではないかと私は思っているのです。
その再来はどこから来るのか?それは、かつての成就が、肉にあるユダ族の子孫、イエスキリスト
を通して起きたたように、終末の日にも肉にあるユダ族の子孫を通して来るのではないかと思われます。
ユダ族の子孫は、この東の島国、日本に住んでおり、このもっとも小さい、キリスト教会を通して、
起きると思われるのです。もちろん、その中でもかたく主についている人々を通してです。

”3 主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
4 彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。”

その日、”国々に、判決を下す。”と主はいわれます。国々は、教団、教会のたとえと思われます。
どの教団、教会が忠実だったかはその日、明らかになるでしょう。
キリストは2回に渡って再臨するなどという、聖書に書いていないトンデモ教理をつかんでしまう愚かな教団、教会は、実は聖書より、人間の教え、注解書を優先する、愚か者に過ぎなかったことが判明するでしょう。

5 まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。”

「おのおの自分の神の名によって歩む。」とは象徴的です。これは新約の教会においても成就しています。ルーテル派はルーテル(ルター)の教えをそれこそ、金科玉条のように崇めるかもしれません。
ルターの教えがすばらしいことを誰が疑うでしょうか。
しかし、彼は、ヤコブ書は、わらの書だなどと、
変なことをいっています。信仰だけという彼の主張が今、悪い意味で用いられ、「みことばを行う」ことが、教会から、取り去られてしまった感があります。
しかし、ルターを神とせず、聖書のことばを神とする者は祝福を受けます。
メソジストはジョンウエスレーの教えをそれこそ、金科玉条のように崇めるのでしょうか。
彼も立派なことをいっているかもしれません。
しかし、彼のいう、完全なきよめ、第二の祝福という教えは用いかたによっては、
クリスチャンに重い荷を負わせます。全くきよめられなければ、まともなクリスチャンではない、あるべきところに達していないなどと
誤解してしまうからです。
この教えは、聖書の中で、いわれている「すでに得たのでも、完全にされたのでもない、得ようとして
追い求めている」という態度と異なることをクリスチャンに求めます。要吟味の教えです。
ウエスレーの言葉より、聖書の神のことばを尊重する者は真理にいきつきます。
ブラザレン系の人々は、 JNダービーまたウオッチマン ニーなどの教えをそれこそ、金科玉条のように崇めるのでしょうか。彼等の教えによいところもあるかもしれません。しかし、彼等はともに、
キリストの二度にわたる再臨という「非常に危険な教え」を受け入れていることを留意すべきです。
このこと、終末の神の民の備えを崩すような異端教理を持ち込んだということを
考慮するなら、ブラザレン系の働きは功罪相半ば、いや見方によっては、
罪が大きいかもしれません。ですから、
彼等の言葉より、聖書の神のことばを尊重する者は幸いです。

これらの人のことば、教えより、神のことばを優先する人こそ、「しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。」とのことばを実践する者であり、彼等に真の祝福があります。

”6 その日、「「主の御告げ。「「わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。”
 

寄せ集めるとは、マタイ伝に書かれている「四方から、選びの民を集める」とのことばと関連するのかもしれません。その日、選ばれ、集められるのは、足萎えなのです。
足は「信仰の歩み」と関係があります。自分で歩めない者が足なえです。
主により頼むしか方法のない者、その者こそ、その日主から、栄光を受ける、強い者に変えられます。
 

”7 わたしは足なえを、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。”

「足なえ」すなわち、主に頼る者は「残りの者」すなわち、惑わされる多数の中に入らず、残ることができるでしょう。「遠くへ移された者」すなわち、神のみこころとかなり遠い所で信仰生活を送り、
たとえば、悪霊マリヤを一生懸命拝んでいたような人でも、主に立ち返るなら、強い国民すなわち、
敵との戦いに勝利を得る者となります。

8 羊の群れのやぐら、シオンの娘の丘よ。あなたに、以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る。”

かつてシオン、エルサレムは大王の都と呼ばれ、真の神に会いたいと願う人々は、
皆この都を訪れたものです。
今、かつてのシオン、エルサレムのいたユダ民族は日本にいます。
この地に、主にまみえたいと願う人が再び、集う日が近付いています。
これが、「あなたに、以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る。」とのことばの意味あいではないかと思われます。

9 なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの議官は滅びうせたのか。子を産む女のような苦痛があなたを捕えたのか。
10 シオンの娘よ。子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。そこであなたは救われる。そこで主はあなたを敵の手から贖われる。”

「子を産む女のような苦痛」とは、マタイ福音書に書かれている、終末の日を「産みの苦しみの始め」との表現と対応すると思えます。すなわち、教会が回復する日は、産みの苦しみの日、すなわち、
終末の艱難の時代の中であることを暗示しているように思えるのです。

11 今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり、そして言う。「シオンが犯されるのをこの目で見よう。」と。

「多くの異邦の民があなたを攻めに集まり」とはいわば、ハルマゲドンの戦いのような時のことでしょう。
その日、彼等は主につくみこころの民を攻撃するのです。「シオンが犯されるのをこの目で見よう。」とはこのことをさします。これは、またロトの日に彼の戸口に集まり、群がったソドムの民に通じます。
彼等は義の人々を乱暴しようとしましたが、逆に盲目にされてしまいました。

 「12しかし彼らは主の御計らいを知らず、そのはかりごとを悟らない。主が彼らを打ち場の麦束のように集められたことを。」

彼等はただ、異端の民を攻撃しに集まっただけと思っているかもしれませんが、しかし、これは、
主から出たはかりごとなのです。

”13 シオンの娘よ。立って麦を打て。わたしはあなたの角を鉄とし、あなたのひづめを青銅とする。あなたは多くの国々の民を粉々に砕き、彼らの利得を主にささげ、彼らの財宝を全地の主にささげる。”

麦はみことばのたとえです。ですから、この日、みことば、神学に関する論争が起きるのでしょう。
その結果はどうなるか?「わたしはあなたの角を鉄とし、あなたのひづめを青銅とする。」とのことばのように、主につく人々に勝利があります。

「あなたは多くの国々の民を粉々に砕き、彼らの利得を主にささげ、彼らの財宝を全地の主にささげる。」とは要するにこの論争の中で、多くの主に立ち返る人々みことばの真理に立ち戻る人々が起きる、そのことをさすと思われます。
 

繰り返しますが、終末の日には、多くの聖書の箇所が示しているように、みことばに関する論争が起き、また真のみことばが回復します。そして、その働きの大きな鍵がこのユダ族の住む地、日本に
あると聖書は語っているように思えます。このことをとらえ、その日のために備えましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー