No.353 つくり話

”テキスト:2ペテロ1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
(KJV:うまく考え出した作り話に従ったりせず、キリストの栄光の証人となりなさい。
私達はあなた方に力と主の来臨を教えたからです。)”

本日は「作り話」という題でメッセージしたいと思います。
終末には、「うまく考え出した作り話」が出現するということを見ていきたいと思うのです。

このテキストの箇所の訳は、新改訳とKJVで大分違います。
KJV訳には、「(終末の)うまく考え出した作り話に従うな」という警告が含まれており、これが
本来の意味としてふさわしく思われるのですが、新改訳ではそのニュアンスがすっぽり抜け落ちています。
警告になっていないのです。これは、ゆゆしき問題であり、どっちが正しいのかはっきりして欲しいのですが、このような大事なことがら、聖書翻訳の違いに関しては残念ながら、キリスト教会では議論になりません。また、原典と異なる訳があるという、事実さえ、気付かないようになっているようです。

このHPに関連していくつもの聖書箇所を調べて否応無しに気付くことは、日本語訳の聖書は
だいぶ原典の聖書が語っていることと訳が違うらしいということです。
今まで見てきたように結構多くの箇所が異なっているようです。

何でこうなってしまうのでしょう?いつだかクリスチャン新聞に日本語聖書(確か新改訳)に関する訴訟騒ぎの記事が掲載されていました。その記事によと日本の新改訳なりの聖書の著作権は、日本聖書協会なりには、なくて外国の何とか言うカタカナ名の聞いたことのない財団が持っているとのことです。
私の記事の記憶が間違いでなければ、その財団は、「この訳を勝手に変えることはまかりならん」とのことで、訴訟騒ぎを起こしたと記憶しています。

この話が正しければ、日本のクリスチャンが読む聖書にもし間違いや誤訳があっても日本人の我々がそれを変更することはできない、それ(誤りの多い聖書)を読みつづけ、受け入れつづけなければならないという不思議な事態が続くことになります。
そのせいだか、「日本の我々で、納得のいく聖書翻訳をしよう」との運動が日本にあるとも聞きました。
日本の聖書には、あまりにも怪し気な翻訳が多いようですので、是非そんな働きがあるなら、
期待したいものです。

聖書翻訳に対する統制、コントロールということで思い出すのは、エホバの証人、ものみの塔の
「新世界訳」です。この聖書はものみの塔では、すばらしい聖書、究極の聖書なんていっているようですが、それは自画自賛に過ぎず、事情を知っている人々は、この聖書こそ、ものみの塔の「胃端的な聖書解釈の中心、元凶」になっているとんでもない聖書だということで考えが一致しています。

この訳はこのようにして成立します。まず、原典である、ヘブル、ギリシャ語から、英語の聖書に翻訳されます。その英語の訳から、さらに日本、中国語、フランス語等各国のことばに翻訳されていくのです。
その際、最初に訳された英語の聖書の意味から、決して異なる訳にならないよう、細心の注意が払われるとのことです。

この聖書は特殊な聖書であり、普通に我々が読む聖書と訳が異なっています。
特にものみの塔の教理と密接に関係する箇所に関しては、「彼等にとって都合の良い訳」となっています。
たとえば、普通の聖書を読むなら、「キリストが神である」ことを裏ずける箇所はたくさんあるのですが、
この新世界訳では、それらの箇所はことごとく、改ざん、変更されています。
またこの聖書本文の下にある注記、関連聖書箇所の記述もみな、彼等の「教理」を裏ずけるようになっています。

このように「人工的に改ざん、故意に変えられた訳」になっている聖書をもとにこのものみの塔の信者達は、「聖書には、キリストが神であるとは書いていない」という結論を持つようになるのです。
しかし実際は彼等は自分では聖書を読んでいると思っていても、「改ざん、意図的に意味を取り違えた聖書」を読んでいるのに過ぎないのです。ですから、聖書翻訳、特に意図的に聖書の意味あいを変える翻訳には、くれぐれも気をつけなければならないことがわかります。
聖書の翻訳とは、専門の語学の知識がなければ、難しいものだと思われますが、
これらの改ざんの裏には、それらの聖書や語学の知識を自在にあやつり、それらしい嘘を教える人々の
存在があるといったら言い過ぎでしょうか。よく事情を知ればそうでもありません。
ものみの塔、また、同じく怪し気な聖書、モルモン経を使用しているモルモン教にしても
その創始者はあの悪魔礼拝者、フリーメーソンと関係があることを研究者は述べます。
これらの聖書、教理の改ざんの裏には「意図的な力、組織」が存在するのです。

さて、ものみの塔、モルモン教等はいわゆるプロテスタント、カトリック等の正統的といわれるキリスト教からは異端と呼ばれる宗派です。

これらの教義、聖書が、改ざんされ、コントロールされていることは、「あり得る話」と思われます。
しかし、問題は「正統的」と
自負している日本のキリスト教会の最深部、また聖書に統制、コントロールがある(ように見える)といことです。

さて、テキストに入りましょう。

”KJV:うまく考え出した作り話に従ったりせず、キリストの栄光の証人となりなさい。
私達はあなた方に力と主の来臨を教えたからです。”

ここでは、「主の来臨」、すなわち、再臨について書いてあります。
そして、それとともに「うまく考え出した作り話」に関して書かれています。
すなわち、これらは、切っても切れない関係のようにワンセットで書かれているのです。

ワンセット?たとえて見ればこういうことでしょうか。
偽一円玉ということは聞いたことがありません。偽物を作っても
もうからないからでしょうか。逆に「偽一万円札」のことはよく聞きます。
一万円札と偽札、これらは関係があります。

同じ意味あいで主の来臨、すなわち、再臨に関わる話には、偽物、「うまく考え出した作り話」がつきものなのです。

聖書は、洗礼の話に関連して「うまく考え出した作り話」に関する警告はしていません。
また聖餐式に関連して、「うまく考え出した作り話」については述べていません。
しかし、主の再臨に関連しては、「うまく考え出した作り話」に関する警告を述べているのです。
いかにこの件に関しては偽物が多いのか、気をつけなければいけないのかわかります。

さて、この観点、キリストの再臨に関する話には、偽物、インチキが多いという観点で、現在の
正統的な再臨の教理を見直してみましょう。

するとわかることは、現在の教会で「これが、正統的だ」として、まかり通っている教理には、
まさにこの「うまく考え出した作り話」が多いことです。

彼等はあの「聖書に書いていない」二度にわたる再臨という異端の教理ーこれは、聖書のことばに
付け加える罪ですーを恥ずかし気もなく、受け入れています。
しかし、質問です。一体聖書のどこに「2回にわたってキリストが来臨する」という都合のよいみことばが書いてあるのでしょうか?
 

聖書箇所を示せない以上、彼等は恐れげもなく、聖書に「自分のことば」を付け加える者達ではないのでしょうか。

「うまく考え出した作り話」ということばも暗示的です。
偽1万円札がお店でばれない、うまく通用する条件は、「うまく作られた偽札」であることです。
裏が真っ白なお札や、福沢諭吉の代わりにアブラハムリンカーンの肖像が描いてある札では、
すぐ偽物であることがばれてしまいます。
しかし、うまくできた偽札は、いつもお札を見なれているお店の人にも気付かれず、
そのまま流通していったりします。
さて、同じ意味あいで、再臨に関する「うまく考え出した作り話」は、それが本物のように見えるので、
多くの人の間に受け入れられ、流通していくことが想像されます。
 

今、多くの人々が吟味もなく、受け入れている平均的な再臨にかかわる教理は、
それこそ、「うまく考え出した作り話」ではないかと私は疑っており、もっと強くいえば、意図的な
作り話であると確信しています。

現在多くのクリスチャンが受け入れている再臨に関わる教理は、以下のようにそれらしく、できており、首尾一貫しているように見えます。

*「時代時代により、神の働きの方法、中心は異なる(デイスペンセーション主義)。
かつてイエスの時代に、神の働きはユダヤ人のもとを離れ、教会へと移ったように、
終末の時代になると、教会の時代は終わり、ユダヤ人の時代に再度なる。」

*「教会時代とは、大かっこ、挿入されたものであり、終末の時代には、再び、神の働きの中心はユダヤ人となる。その終末の時、教会は働きを終え、天に挙げられる。」

*「だから、終末の艱難時代に艱難に会うのは、ユダヤ人である。」
(教会は艱難に会わない)

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こんな風にエデンの園で、みことばに堅くつかないエバをだました蛇よろしく、
聖書のことばを偽る人々は、「教会は艱難に会わない。前もって携挙される(だから終末の備えは不要)」
と甘言をもってみことばにつかない人々をたぶらかしているわけです。
 

そして、

*「中東のイスラエル国にユダヤ人が国を再建したのは、聖書の預言の成就。まもなく、
教会時代は終わりを告げる。ユダヤ人の時代へ入っていく。」
 

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こんな風な大嘘へつながっていくわけです。そして、今のイスラエルは神の選んだ選民であり、
神の働き、計画をになっているので、たとえ何を彼らがしても、「クリスチャンたるもの、何が何でもイスラエルを応援しなければならない」(???)などというトンデモないたわごとを言う愚か者まであらわれる始末です。

しかし、今、中東で行われていることは、某民族による公然たる、土地侵略、家、畑、そして、
人命の強奪です。この中東のイスラエル国の建国はその「真実の」歴史を見ればわかるように、
嘘と殺りくと略奪の歴史であり、神の約束どころか、悪魔の咆哮です。
この国の建国は、バルフオア宣言、すなわちイギリスの役人バルフオアが借金のかたに
この土地の所有を666の人、悪魔礼拝者ロスチャイルドに許したことから
始まったことであることからも象徴されるように、
その始まりからして、悪魔礼拝者がかかわっている、神のみむね、約束などとは、正反対のことがらなのです。

しかし、愚かで盲目な人々の目には、この殺りくが「素晴しい神の約束の成就」、嘘つきの民、悪魔的な民が、「神の約束を
になう者」に見えるようです。このように見える人々は愚かで、蛇にうまくいいくるめられ、神のことばを曲げられ、目をくらませられた愚かな女、エバの子孫達です。
しかし、私が理解している限り、聖書は決して、終末の日にイスラエルの民が、中東の地に回復されることなど述べておりません。逆に黙示録に書かれているように、終末の日にイスラエル12部族全てが日の上る方、すなわち、世界の東、アジア地方で、回復、聖霊の印を受けることを語っているのです。

しかし、私がどう思うかはともかく、上記のような一連の教理、デイスペンセーション主義、艱難前再臨説、中東のイスラエル国の建設は神の約束の成就等の教理は、広くクリスチャンの間で広まっていることは事実です。

しかし、それとともに聖書はこの日、この話が広がる日を見越すかのように、「うまく考え出した作り話に従ったりせず」と前もって警告していることを知りましょう。
このことばは、警告であり、かつ終末の日を前もって見ているかのような預言的なことばでもあるのです。
あたかも今の日、艱難前携挙説を初めとする「まく考え出した作り話」が蔓延する日を見越したかのように神が前もって語られていることを知りましょう。

この警告を覚えましょう。

何故、終末の日に、このような「うまく考え出した作り話」が蔓延することが許されたのでしょうか?
私が思うのに、これは、終末の日に生きる私達の心を試すために主によって、許されたように思えます。

かつて日本で有名な赤穂浪士の討ち入りがありました。その時の浪士の人数は、47人ですが、この人たちは、選ばれた人達、試しを経た人たちなのです。

当初、討ち入りに参加を表明していた人々の人数はもうずっと多かったのです。
そして、リーダーである大石蔵之助は、これらの人々の「真の心」を試す試験を行いました。
本当に命をも捨てる覚悟のある同士のみと討ち入りを敢行しようと思ったのです。彼による
試験はこんな風に行われました。当初、討ち入りに参加を表明した人々全てから、
彼は盟約書をもらっていました。

しばらくの時が過ぎた後、それらの決意を表明した人々の家に、蔵之助のもとから、
使者が訪れました。そして、こういうのです。「まだ討ち入りがいつどうなるか、しばらくわからない。それで、あなたから受け取り、預かったこの盟約書をとりあえずお返ししたい」

その時、
1)「そうでしたか。ご苦労様」などといいながら、いそいそと自分の出した盟約書を喜んで受け取り、返してもらう侍に関しては、討ち入りのメンバーから除外。

しかし、

2)「武士が命をかけるつもりで、一度出した盟約書を今さら受け取れるか。ばかやろう!」と胸ぐらをつかまんばかりに受け取らない侍は、メンバーにとどめる。

このような判別があったのです。
要するに蔵之助は大事をなしとげる前にその人が本当に同志としてふさわしいのか、真の心をさぐったのです。

そして、見事この試験にパスした同志と共にこの大事を成し遂げたのです。

さて、これは人の話ですが、同じように、主も終末において、私達の心をみわけ、また試みる方であることを知りましょう。
 

黙示録に 「地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練(試験)の時」
黙示3:10と書いてあるではありませんか。

主は、この終末の日、真に命をかけても、主に従おう、そのような人々を求めておられます。そして、「盟約状返却の試し」よろしく、「実は艱難には会わない」という、嘘話、2段階携挙説の流布を許されたのです。

その結果、多くの人の真の心はあらわにされ、キリストの為に苦難なんか実は私は会いたくない、という彼等の本音があらわになってしまったのです。

しかし、これらの偽りに加担せず、主のみこころを行う人にみこころがあることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー