NO.350 ベテルを求めるな、 ギルガルへ行くな


”テキスト:アモス5:1 イスラエルの家よ。聞け。私があなたがたについて哀歌を唱えるこのことばを。
2 「おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女はおのれの地に投げ倒されて、これを起こしてくれる者もいない。」
3 まことに、神である主はこう仰せられる。「イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう。」
4 まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。
5 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。」
6 主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。
7 彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。”

本日は、「ベテルを求めるな、 ギルガルへ行くな」という題で、メッセージをしたいと思います。
このことばは、上記アモス書にあります。
ここで、いわれている、「ベテルを求めるな、 ギルガルへ行くな」とは何をさしているのでしょう。
それを見ていきたいと思います。
 
 

さて、私達は、ベテル、ベルガルの変遷を少し見てき
ました。
これらから学べることは何でしょうか?

それは、素晴しい神の恵みの場所、記念の場所もいつかは変質、変化してしまうということです。
良い変化ならよいのですが、そうではなく、悪い変化、みこころから外れた変化をするのです。
 

この理解に基づき、冒頭のみことばを見ていきましょう。

”1 イスラエルの家よ。聞け。私があなたがたについて哀歌を唱えるこのことばを。

イスラエルは現在のカトリックの予表であると私は思っています。これらのことばは主である神の
その愛される民であったイスラエルへの哀歌、悲しい歌であり、また、愛された民であった、
カソリックの教会の未来を嘆いた悲しい歌です。

”2 「おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女はおのれの地に投げ倒されて、これを起こしてくれる者もいない。」”

この教会は、倒れること、すなわち、歩むべき道を踏み外して倒れることが予言されています。
 

”3 まことに、神である主はこう仰せられる。「イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう。」”

イスラエルとは神の兵士という意味あいがあります。
兵士である以上、出征し、戦いに出ていく訳です。

我々クリスチャンの戦いとは何でしょう?かつてパウロが「信仰の良き戦いを戦い、永遠の命を獲得せよ」というように信仰の戦いといえるでしょう。
戦いである以上、勝てば命を得、負ければ命を失うのです。ここでいう命は、肉体の命というより、「永遠の命」のことです。

我々は永遠の命を得るべく、兵士として召され、事実多くの我々の信仰の先祖達はその命を得てきたのですが、悲しいかな、終末の時代になると話は変わってきます。

信仰の戦いに破れ、永遠の命を得られない敗残兵が多くなるのです。「イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう。」とはこのことをさすのでしょう。

多くのカトリックの信者は信仰の戦いに破れた敗残兵のようになっています。
彼等は神が人間を創造したことすら信じておらず、「進化論と信仰は矛盾しない(?)」などという
わけのわからないたわごとをいう始末です。
こんなことさえ信じられない人々にどんな信仰の勝利があるでしょうか。

”4 まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。
5 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。」”

ベテルはかつてイスラエル民族の先祖である、イスラエル(ヤコブ)が神と出会ったところ
です。石のを枕にして寝ていたヤコブは、ここで、天使がはしごを上り下りしている
夢を見るのです。このことに何の問題があるでしょうか?この場所に何の問題があるでしょうか?
何も問題はありません。ただし「始めだけは」問題がなかったのです。
後にこの場所は変質し、この場所で、イスラエル王ヤロベアムは、金の牛を民に拝ませたのです。
この場所は変質し、この場所の「名声」が仇となったのです。

ギルガルはどうか?
ギルガルも神のすばらしい恵みの場所です。
ヨルダン川を通った民はここで、「エジプトのそしり」をぬぐわれたのです。
すばらしい恵みの体験です。しかし、この場所も時とともに変質します。
この場所、ギルガルにおいて、サウル王は、主の声を聞かず、聖絶せよといわれた牛を 残しそれを神の前に捧げました。それゆえ、この場所は、神への不従順を象徴する場所になったのです。

さて、このこと、かつての日、ベテル、ギルガルに起きたことは、現在の日に対する警告、たとえではないかと私には思えます。
これらの旧約の礼拝場所は、新約の時代の礼拝場所のたとえと思われるのです。

たとえば、カソリック、プロテスタントにおいても多くの聖人、信仰の勇者、
また神のすばらしい働きが表された場所があります。

たとえば、ルーテル派とは、マルチンルターの信仰を継承しているのでしょう。
ルターとは誰か?ルターこそ、カソリック教会の犯しているあらゆる誤りに警鐘を鳴らし、正しい、
神への礼拝、教理を取り戻した、プロテスタントの粗、信仰の勇者ではないでしょうか。
そして、ルターの名前を冠している ルーテル派には、このルターの信仰、忠実が綿々と継続されている....と私は思っていたのですが、どうも今はそうではないようです。

あろうことか、今ルーテル派は、あのカソリック、かつての祖、ルターが命がけで「分離」を果たした忌むべき、カソリック、と合同することを決定したと聞きました。
それが本当なら、まことに情けないことです。
彼等、カソリックの教理がまともになったから、ルーテル派は、合同しようと決意したのでしょうか?
いえ、そうでもないようです。カソリックは、ルターの頃より、さらに異端的な教理を
ふりかざし、近頃では、「キリストと共同のあがない主マリヤ」などととんでもないことまで、言い出す始末です。

更に異端的になったカソリックとの合同を決意した「ルターの名前を冠した教団」、確かに、
「ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。」との預言はこの教団において、成就しています。

さて、このこと、カソリックとの統合、一致は、一人ルター派だけの問題ではなく、
アメリカにおいては、多くの福音派また、アッセンブリーズオブゴッド等、多くのペンテコステ派が、
一致を表明したということを聞いています。

彼等ももう移されてしまったのでしょう。

ここにおいて、「ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。」とのことばは、多くの教団、教派において実現しています。

そのようなわけで、主は「わたしを求めて生きよ。
 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。」といわれます。

このことばは一体どういう意味あいのことばなのでしょうか。考えてみましょう。
今のことばに訳して考えればどのような意味あいになるのでしょうか。

私にはこんな風に聞こえます。教団や、教派の方針や、組織にのみ頼るな、盲信するなということではないでしょうか。

かつて、旧約に生きていた神の民は、ベテルやギルガルへ行き、そこで主を求めて礼拝しました。
何故なら、ベテルやギルガルには、かつて神が現れ、その奇しいわざを行われたからです。
また、神の顕現があったからです。これらのことは確かに事実であり、神のすばらしいわざが、あったのは事実あのですが、しかし、神はこれらの場所はとらえ移されるといわれます。
ですから、ベテル、ギルガルのみを見ている人は惑わされます。

同じ意味あいで、今の時代、新約の神の民は、それぞれのベテル、ギルガルにおいて礼拝をします。
すなわち、それぞれの教団、教派において、礼拝をするのです。これらの教団、教派には、
以前、神のすばらしいわざがあった、それは確かにそうなのでしょう。
しかし、神はまた、ベテル、ギルガルに関して、「必ず、とらえ移される」そのように語っていることも真実なのです。

ですから、今の時代、我々はもう「教団のいう通り、しているから神の前に何の問題もない」というわけにはいかないことを知りましょう。もちろん、むやみな反対を勧めているわけではありませんが。

主は、「 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。」といわれます。
教団、教派の方法、方針のみに全ての解決があるわけではないということでしょうか。
むしろ神は、「わたしを求めて生きよ。」といわれます。
それで、私達は、ベテル、ギルガルへ行くこと、すなわち、教団の方針に従い、信頼して歩むのと、
「主を求めて生きる」こととは、別のこと、対比されるべきことだということがわかるのです。
確かにこれらは同じものではなく、対比されるもの、別のものなのです。

それで、私達は、自分がどこの教団、教派に属していようとも、その中において、主を求めて生きることを学ばなければならないことを知るべきです。

何故なら、すでにギルガルがとらえ移されるということは起きており、多くの教団は、
あのカソリック「キリストと共同のあがない主マリヤ」などという、教理をかかげるカソリックとの統合を表明しはじめているからです。

これらの教団はたしかにとらえ移されつつあります。ですから、主を求め、主に聞き従うものこそ、
祝福があります。

今の時代、多くの教団、教派が、あるべきところを離れ、移され、変質してきてしまいました。
しかし、そうであっても、そのような中にあっても、主を求め、主のことばを行おうと志す人々は、
正しい声を聞き、いや聞きつづけることを知りましょう。

6 主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。”

火が下ると書いてあります。火は、霊のたとえでしょうか。主を求め、その声に聞き従わない人々は、
この火に焼き尽くされて行きます。

”7 彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。”

彼等、カソリックの人々は、公義を苦よもぎに書えています。正しい教理、教えを具にもつかない、
偽りの苦い教えに変えているということでしょうか。
聖書は、「この方による以外救いはない」と語りますが、カソリックはマリヤや聖人の御加護を持ち込み、実質「この方以外」の救いを持ち込んでいます。

繰り返しますが、聖書は終末の日に、ベテル、ギルガルすなわち、今の教団、教派が移される、
すなわち、変質して、別のものに変わってしまうことを明確に語ります。ですから、
これらのうつろいやすい、組織や、教派を自分の基準、規範とせず、逆に「私を求めて生きよ」、すなわち見えない主に頼る者に御心があることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー