No.349 ギルガル


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ヨシュア記 5:9 すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。”

ギルガルとはどういうところなのでしょうか?それを見ましょう。テキストから考えます。
 

かつて、エジプトにいたイスラエルの民は、曠野を経てヨルダン川を渡り、カナンの地に入りました。
その場所について、主は、ギルガルと呼びました。
この場所は、「エジプトのそしりを、..取り除いた」場所です。今でいえば、この世から、
クリスチャンを救い出した神の恵みの経験というような感じでしょうか。このこと自体は素晴しいことであり、記念すべきことなのです。

そして、そのような記念の場所なので、ここは聖なるところとして、
民はギルガルで神に礼拝をささげるようになったのです。
しかし、その礼拝がある日、異なるものへと変質していってしまいました。
以下のサウル王のことがらです。

”1サムエル15:
2 万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。
3 今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。』」”

この時、主のことばは、「アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ」とのことばでした。
全てという以上、すべてだったのです。「男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。」と具体的に命令されていたので、その命令には、間違える余地はなかったのでした。聖絶とは、
要するに皆殺しということです。「皆殺しをしていいのか」「人を殺していいのか」という
議論があるかもしれませんが、今は、そんな議論をするつもりはありません。
私達は何様ではないので、神のしたことの善し悪しまで、偉そうに論ずるつもりはありません。

”1サムエル15:7 サウルは、ハビラから、エジプトの東にあるシュルのほうのアマレク人を打ち、
8 アマレク人の王アガグを生けどりにし、その民を残らず剣の刃で聖絶した。
9 しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。”

この時、サウル王は確かにアマレクを打ったのですが、しかし、彼は
主の命じられたことの全てを行うつもりはありませんでした。
一部を殺し、一部を残しておいたのです。
「良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した」のです。

彼の考えは合理的なように見え、むだがなく、気がきいているように見えます。
しかし、これは、主のしもべの方法ではありません。
彼は自分の判断を神の判断の上にする人です。また、神の側に立ち、神のことばを徹底して行おうとの心を持たない人です。

10 そのとき、サムエルに次のような主のことばがあった。
11 「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。
12 翌朝早く、サムエルがサウルに会いに行こうとしていたとき、サムエルに告げて言う者があった。「サウルはカルメルに行って、もう、自分のために記念碑を立てました。それから、引き返して、進んで、ギルガルに下りました。」”

このこと、神のことばを忠実に実行しなかったことは、神の前に問題です。神の前における、神のしもべの条件は、「神のことばを忠実に行う」、このことに尽きるようです。

その結果が(人の目に)よくなろうと、悪くなろうと、その責任はしもべは負いません。何はともあれ、神のことばを忠実に行う、
それを聖書の中で神は繰り返し求めておられるように思えます。

この時、自分の判断、考え、理性、損得、これらを優先したサウル王は神のみこころから外れました。

「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。」と主はいわれました。私達に関しても話は同じです。
もし、私達が神により、選ばれ、サウルのように用いられるようになったとしても、
神のことばを守らないようになったのなら、その時神は「悔いる」でしょう。

ここで、「それから、引き返して、進んで、ギルガルに下りました。」というように、ギルガルということばが出てきました。
 
 

”13 サムエルがサウルのところに行くと、サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」
14 しかしサムエルは言った。「では、私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」”
 

ここで、サウル及び、主のことばを受けたサムエルとの間に大きな意見の相違があります。
サウルは、「私は主のことばを守りました。」とのことばに表されるように、「自分は神のことばを守った」と思いこんでいるのです。

しかし、神の祭司である、サムエルの目にはそう見えませんでした。
彼は、「では、私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」
と疑問を呈しています。全て聖絶、殺りくしたのなら、何故生きた牛の声が聞こえるのかというもっともな質問です。
 

”15 サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」”

彼、サウルには理屈があります。また、(神ではない)自分の判断があります。
すなわち、「良いものは残していいだろう。神へのささげものにも使えるし。」という、理性的、合理的、むだのないぬけめのない判断です。
しかし、結果として、彼は「神のことばに従わなかった」と判断されました。

”16 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、主が私に仰せられたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」
17 サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。
18 主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』
19 あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」”

私達の唯一の判断の基準は、神御自身であり、そのことばです。主が聖絶しろといった時は、そのようにしなければいけません。自分の考えや、思い、価値観を優先してはいけないのです。

”20 サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。
21 しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」”

ここでも彼、サウルは、自分は神の声に聞き従ったと思っています。思い込んでいるのです。
「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。」とのことばは、
彼の思いのあらわれです。しかし、問題は主がどう思われるかです。

さて、この箇所で、ギルガルということばが用いられています。
「ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために」と書かれています。
ギルガル(輪、ころがる)とのことば通り、この時、神の民とその王は別の道へ転がっていってしまったのです。

”22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」”

サウルは初代のイスラエルの王として選ばれながら、その王位から退けられ、
悲劇的な終わりを迎えるようになります。

その原因は何でしょう?そのきっかけ、原因こそ、他でもない彼が「神のことばに聞き従わず、行わなかった」からなのです。
全て神のことばをないがしろにする人々には、同じような危険があることを知りましょう。

「聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」という有名なことばを考えてみましょう。

このことばのいわんとしていることは何でしょう?
いけにえは要するに奉仕のことのようです。賛美のいけにえということばがありますが、これは、賛美の奉仕のことです。

我々の感覚では、奉仕をたくさんする人は、すばらしい人ですが、神の前においては、そうとは限りません。「聞き従うことは、いけにえにまさる」、すなわち、奉仕することより、神の声に聞き従うことの方がまさると明言されているのです。

このことは、あの有名な話、マルタ、マリヤの例話でさらにはっきりと示されています。
多くの奉仕に忙しい、マルタに対して、主は主の声に聞き従っている、マリヤをほめていいました。
「なくてならぬ物は多くない。いやただ一つである。マリヤはその良い方を選んだのだ」と。
マリヤがえらんだ良いこととは、すなわち、イエスの声に耳を傾けることだったのです。
それで、こういうことがいえます。

神に奉仕することと、神、主の声を聞くこととは異なる。奉仕をする人が必ずしも主の声に耳を傾けているとは限らない。主は奉仕と主の声を聞くこととを比較し、はっきりと、主の声を聞くことこそ、重要だると明言した。

このようにはっきりと示されているのですから、「主の声を聞く」という一つのことがらが、
クリスチャン生活にはあり、そして、そのことを神は非常に重大視していることを知りましょう。

また、「耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」と記されています。
雄羊の脂肪とは、要するに脂肪、聖霊の油に関することです。
聖霊の働きがあればよい、すばらしい、恵みの集会であればよいとは、我々が思い込みやすいものですが、どうもそうではないようです。
霊の働き、恵みがあるようでも、それでも神の声に耳を傾けていない、そのようなことがあり得るのでしょう。

さて、このこと、主の声に耳を傾けること、聞き従うことは、今の時代においても、いや今の時代に対して述べられていることを知りましょう。
教室に先生がいれば、当然、先生の声があります。
「漢字の練習の宿題を明日迄にやってきなさい」等の声があるのです。
この声に聞き従い、行う生徒は、良い成績を得、先生からの信頼もあつくなるでしょう。
逆に何一つ聞かず、次の日に「えっそんなこと聞いてない!」などという生徒は、ろくな成績にならないでしょう。
会社にも社長がいる以上、社長の声があります。
「明日の朝は特別に早出で、7
時半迄に出社するように」との声を聞いて、その通り出社する人は、覚えはよいでしょうが、
何にも聞かず、10時位にのこのこ来る社員はボーナスが減るかもしれません。

同じ意味あいで、教会の頭が主イエスである以上、当然教会に対して語っておられる「主の声」があることを知りましょう。
その声を真剣に聞くことを選ぶ人は、主からほまれを受けるでしょう。
しかし、その声をないがしろにし、自分の判断、考えを尊重する人々は、サウルのように、その働きから降ろされ、誉れを失うでしょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー