NO.343 善悪の知識の木


”創世記2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」”

3:2
 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」”
 

本日は「善悪の知識の木」という題でメッセージします。
創世記に最初の人、アダム、イブが「善悪の知識の木」からとって 食べたことは、
誰でも知っている有名なできごとです。
このことの意味あいを見ていきたいと思います。

テキストを順に見ます。

”16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」”

ここでは、木についてまた食べることについて書かれています。
聖書でいう「木」とは、クリスチャンをさすようです。
「私はぶどうの木、あなた方はその枝です」とのことば通り、木は(聖霊の)実を結ぶ存在としての
クリスチャンといえるでしょう。
この時、神は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」すなわち、どのような種類のクリスチャンになってもよいが、しかし、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」といわれました。
このような種類のクリスチャンの歩みをしては
いけないといわれたのです。

「善悪の知識の木」とは何でしょう?
うーん、ちよっと難しいですが、とりあえず、「ものごとを善悪で判断するクリスチャン生活、ものごとを知識により判断するクリスチャン生活」とでも定義しておきましょうか。
「善悪で判断する」「知識により判断する」、何も悪いことではないように思えるのですが、しかし、
神は、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」といわれたのです。
それで、私達はこのことを警戒しなければならないことを知るのです。
そんな風に思えないかもしれませんが、神がわざわざそう言われるなら、「そうかもしれない」と一考することが大事なのです。

”2
 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」”

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と蛇は女にいいます。
「善悪の知識の木の実」を食べるとそうなるというのです。
現在は、教会においても神学校においても知識偏重、知性偏重といった感じですが、しかし、聖書は、
「あなたがたがそれを食べるその時」すなわち、教会、クリスチャンが知識偏重の道を歩み出す時、
「あなたがたの目が開け」と書いています。
すなわち、この知識により、以前の素朴な信仰や、単純な信仰以上に、「目が開ける」物事がわかるように感じることを語ります。

確かに知識にはそんな面があります。
「聖書には、日曜日を安息日にしろなんて書いてない」などと聞くと、
何だか目が開けて、日曜日=安息日なんて、信じ込んでいるクリスチャンより、目が開けたように感じるのかもしれません。

また、「あなたがたが神のようになり」とのことばも暗示的です。神学やら、いろんな知識に満ちてくると、不思議なことは、そういう人は往々にして、クリスチャンの一線を超えてしまうということです。
クリスチャンの一線?それはこういうことです。
私達、クリスチャンはキリストを主と呼んでいます。主とは、英語でいうLord,
主君のことであり、殿様、王様そんな意味あいです。キリストを主と呼ぶと言うことはすなわち、
クリスチャンは家来、兵隊のような存在だと自ら言っているのです。
このことは聖書的に正しく、我々は兵であり、僕であり、主君であるキリストの命に従うものです。
判断、命令を下すのは主君の仕事であり、兵である我々の仕事はそれを忠実に行うことです。
しかし、知識の増えたクリスチャンは往々にして、もう僕の立場を離れ、いつの間にか判断者、決定者、命令者になっていくのです。すなわち、「神のようにな」るのです。
彼等は一線を超えた者達、あるべきところを離れた人々です。

君主は命令を下します。「あのロシアの軍艦に攻撃しよう」
そんな時、水兵あたりが、「いやもう少し待った方が良いでしょう。明日になれば天気もよくなるから」などというべきではありません。そして、こんな水兵達がめいめい、勝手なことを言い始めたら、
もう戦いにはならないのです。彼等は自分の分際を越えて、命令する立場に立っています。

聖書はいいます。
「あなたの隣人を愛せよ。」「殺すなかれ」「在留異邦人につらくあたってはいけない」
しかし、人間の知恵に満ちたユダヤタルムードはいいます。
「ここに人と書かれたのは、ユダヤ人のことをさす。異邦人は含まない。だから、異邦人殺害は聖書の神が命じることである。」

これらのことをいうラビ達、彼等は、兵や、家来の立場を捨て、すでに君主の立場に立っている人々です。
聖書、創世記はこのような人々をさして、「それをとって食べるそのとき、...あなたがたが神のようになり」と語っているのです。確かに彼等は神のことばをさしおき、変型し、指図し、まことに神のような人々となっています。
 
 

この箇所に、善悪の知識の木と命の木という2種類の木が描かれています。対照的に描かれているのです。
それでは、もう一方の「命の木」とは何でしょうか?何を表しているのでしょうか?

聖書は命に関してこう述べています。

”ヨハネ11:25「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」”

すなわち、キリスト御自身が「いのち」だといわれるのです。
それで「善悪の知識の木」「命の木」を通して聖書が語ろうとしていることはこういうことでしょうか。
それは、全てのクリスチャンの目の前に2種類の木があり、2種類のあゆみ方があるということです。
一つは、「善悪を知る知識」すなわち、神学、世の常識、聖書知識、万巻の本等、知識に基づいた歩み方です。もう一つは、命の木、すなわちキリスト御自身の命による生き方、別のことばでいうと、
聖霊の命に頼った生き方です。

これら2つはどちらも大事、どちらも必要に我我には思えるのですが、
どうも聖書はそうはいってはいないようです。この2つは相反しており、片方を取ると、片方は成り立たないようです。

"3:2
 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」"

さて、この「知識の木」に関して、神と蛇のいうことは異なります。
神は「それを取って食べると死ぬ」といい蛇は「決して死にません」といいます。
どちらが正しいのでしょうか?いうまでもなく、神のいうことがいつも正しいのです。
それでは、女はどちらのことばを選んだのでしょうか?
これも明らかであり、女は、知識の木を選び、食べ、そしてそこから、人のあらゆる問題、罪は起きてきたのです。

さて、このエデンの園の物語りは単なる昔話ではなく、今の我々に対して語る警告であることを知りましょう。
ここでいう、知識の木とは何でしょう?何を意味しているのでしょう?私も完璧にわかるわけではありませんが、とりあえず、知識により生きる道、知性により歩む道とでも考えてみましょうか。
このことは何も悪くはないように思えるのですが、不思議にも神はこの道、知識の木を食べる道を歩みつづけるなら、「必ず死ぬ」そういっているようです。
神は反知識なのか?、神は反知性なのか?、よくわからない。そんな風に思う人もいるかもしれません。

しかし、今の教会の現状を見ると確かに、「善悪の知識の木の実」を食べると、「必ず死ぬ」といった、ことばが成就していることを見ます。

ユダヤ人が自分達の知識、知性の結晶と誇るタルムードは命の君である、キリストをののしり、さげすみ、
彼から全てのユダヤ人を遠ざけています。結果として、自分達の知識を誇る彼らユダヤ人は誰一人として、
キリスト、命の君に触れることなく、彼等はいのちを受けることができません。すなわち、
「必ず死ぬ」とのことばが成就しているのです。

また、キリスト教の神学、教理も同じような状態です。
多くの知識、文献を漁り、正しい知識を得た(と思いこんでいる)愚かな学者達は、キリストの復活は、民衆の願望が生んだおとぎ話、奇跡はないなどと、トンデモ教理を真面目に信じ込み、多くのクリスチャンの信仰をつまづかせ、命の君から、離し彼らを「死」に至らしめています。

また、彼等はQ資料や、「死海文書をもとにした嘘」をすっかり信じ込み、それを教会に
「吟味もなく、取り込ませる」愚か者達です。Q資料説は意図をもった嘘つき達が持ち込んだたわいもない大嘘だし、「死海文書をもとにした嘘」は、この文書をあの手この手で自分達だけで
独占して、大嘘をでっちあげた某偽ユダヤ人のたくらみであることは少し調べればわかることなのですが、「善悪の知識の木」すなわち、聖霊に頼るより、知識優先、知性優先の学者先生達は情けなくも愚かにもだまされていきます。

まことにまことに「この実を食べる時、必ず死ぬ」とのことばは、正しく成就しているのです。
 

”6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。”

この女はこの賢くするという木の魅力にひかれてしまいました。女は教会のたとえであり、
教会は知識の木の実を食べること、それにより賢くなる道を選んだのです。
このことは、まさしく、教会において実現しており、教会の一つの特徴は、知識優先、
学問優先、知恵優先ということです。有用だか、無用だかはともかく、何しろたくさん知識を持った学者が教会においては優先され、その指示に従うことが牧師、信者の役目であるように喧伝されるようになったのです。

その学者が持ってくる教理というのは、マリヤはキリストと共同のあがない主だとか、
キリストは復活しなかっただとか、聖書には書いていないキリストの秘密の再臨があるという艱難前携挙説だとか、わけのわからないもの、信仰をくつがえすものなのですが、しかし、教会はそのような、
わけのわからない知識の木の実を食べつづけ、結果として、命を失い、死を迎えています。「実を食べる時...必ず死ぬ」とのことばは確かに成就しているのです。
しかし、今も教会はこの実、知識の実を食べ続けており、これは彼女にとっては、今も「食べるのに良く、目に慕わしく、賢く」するように思えるのでしょう。

”8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」”
 

しかし、この道、知識や人間の知恵に頼る道は確かに神が「食べてはならない、と命じておいた木」であることを知りましょう。
教会がこの愚かな道を悔い改めない限り、いのちの君を知ることはありえません。
 

”12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」”

女、教会は確かに惑わされ、その惑わしは蛇から来たのです。蛇は、「蛇よ、まむしのすえよ」と言われた律法学者、バリサイ人に通じそれは、今で言う神学者達をさします。
彼等を通して、惑わしは教会に入ると言われているのです。

”14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。”

蛇は呪われ、「一生、腹ばいで歩く」、すなわち地にどっぷりとつくことが語られています。
また、「ちりを食べ」ることが語られています。

ユダヤ教のラビ、学者達はまさにこのような人々であり、彼等はこの世についた聖書解釈をします。
彼等は来世を知らず、語らず、この現世のことのみを語ります。
その影響を大いに受けているキリスト教の学者達も、似たような者となり、「進化論は正しい」「復活はない」などと、この世についたたわごとを喜んで語ります。
 
 

”15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」”

さて、このように蛇のわなに破れ、今も死に至らせる知識を一生懸命食べ続けている教会ですが、
しかし、聖書は、この教会に関して、希望の預言を与えています。「おまえの子孫と女の子孫との」間、すなわち、終末の日の教会と蛇学者との間に関する預言です。このことは、
イエスの時代において一つの成就をみました。
女のすえである、主イエスはその日、蛇、まむしのすえである、律法学者、パリサイ人と対峙しました。
主イエスは十字架につけられ、たしかにかかとは砕かれたのです。しかし、その死は致命傷ではなく、かかとが砕かれたに過ぎないと聖書は語ります。
逆にこの戦いを通して、「蛇のかしら」は砕かれたのだと神は語るのです。
確かにこのことは成就しました、女のすえである、主イエスまた、その教えを受けたペテロ、ヨハネ、パウロ達の働きは、「蛇の頭」を粉々に打ち砕きました。

彼等、パリサイ人、律法学者、すなわち蛇教師達の教えは、12使徒を始めとするイエスの教え、またしるしと不思議に対抗することができず、イエスの教えは世界を席巻しました。

さて、このことイエスの時代に起きた「いのちの君イエス」と「蛇学者達」との戦いは、
エデンの園における「蛇の勧めた善悪の知識の木」と「命の木」の話と密接に関連していることを知りましょう。
すなわち、律法学者達は、知識の木の実を食べ、食べ続け、結果として、知識はあるが命から遠い蛇のようなものになり、結果として命の君を殺してしまったのです。

しかし、逆に命の君大工の家に生まれたイエスや無学なただ人、元漁師ペテロ、ヨハネ達は知識の道というより、いのちの木の実を食べることを選びつづけ、結果として、正しい選択をし、永遠の命を得ました。
イエスの時代に起きたことは、実は別の一面では「善悪の知識の木」対「命の木」との戦い、選択ともいえることを知って下さい。
 
 
 

さて、このこと、イエスの時代に起きたことは終末の日に起こらんとすることの型であることを知りましょう。
黙示録には以下のように預言されています。

”黙示録12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。”

ここに書かれている「天」は、飛行機が飛ぶ「天」ではなく、「キリストとともに天に座す」といわれた
クリスチャンのいる真の教会のことです。
その日、真に主につく者達と「竜とその使いたち」との間で、戦い、論争があります。これは、
かつての日、キリストに日々論戦を挑んだ、律法学者、パリサイ人のすえに連なる人々、今で言う神学者や学者達との戦いのことと思われます。
この戦いの結末はすでに預言されています。「勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。」と書かれているように、彼等はみこころの教会の中から一掃されます。

「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。」と書いてあるように、1000年以上もの長い間、
教会の中心を席巻していた偽りの教理、神学と、その追随者はまことの教会から一掃されるのです。
しかし、これはあくまで「天」と称される真の教会におけることがらであり、
そうでない教会においては、彼等蛇の偽りはますます大きなものとなります。

「 しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」と書かれているからです。
惑わされた教会においては窓わしがさらに激しくなり、いずれ自分の兄弟達の迫害へ進むでしょう。
悪魔が彼等に下り、惑わしの霊が下るからです。

もとのテキストに戻ります。

”16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」”

知識の木の実を食べた女は、結果として、「苦しんで子を生む」ことになります。
女は教会のたとえであり、「苦しんで子を生む」とは、簡単にクリスチャンになる、救われる人が現れないということです。
確かに知識偏重、理性偏重で、神学用語を羅列した説教をしているような教会には、
簡単にクリスチャンになる人は現れません。「苦しんで子を生む」とのことばは成就しています。

”17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。”

「食べてはならないとわたしが命じておいた木」すなわち、知識の木から食べたアダムに関して、
呪われることが語られています。

知識偏重の道は決して神の祝福を
受ける道ではないことを知りましょう。

また、「食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」と書かれています。土地は、木、クリスチャンを産出する場所としての教会のたとえでしょうか。知識偏重、この世の知恵を追い求める教会は呪われてしまい、そこには祝福がないのです。
 
 

”18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。”

知識偏重の道を歩む時、
土地、教会には、いばらとあざみが生えい出てきます。まともでないクリスチャンが多くなるのです。
 


19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」”

この道、知識の木の道、知識偏重の道を歩む時、土地は呪われ、収穫は容易なものではなくなります。
「顔に汗を流して糧を得」るようになるのです。すなわち、この道、知識偏重の教会においては、聖書から、えられるべきパンが得られないのです。一生懸命伝道しても救いを受ける人々が少なくなります。
 

”20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」”

「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と書かれています。
知識の実を食べる、知識偏重のクリスチャン生活の行き着く先は、「神の一人」のようになることです。

もちろん、実際は人が神になるはずはないのですが、「気分だけは神様きどり」になります。
そのいい例、知識偏重で「神様」になっってしまった、賢いというか愚か者の見本は、
タルムードを書いたユダヤ教のラビ達でしょうか。
彼等の一人はこういいます。「(我々ラビが書いたタルムードはすばらしい本であり)神もまた、夜
タルムードを学ぶ」(!!!)
神が人の書いた注解書であるタルムードを学ぶ?本当にそのラビがそう考えていたのなら、
ほとんどこの人、キ印ですが、どうもよく調べると、このラビは真剣にそう思い込んでいたようです。
何ともはやと思いますが、しかし、確かに「知識の木の実を食べ続け」て、自信を深めていくと、「人が神のようになり」
、神様さえ、「ラビ様のことばに聞き入る」と盲信してしまうことがわかります。
彼等は聖書や、神以上に尊大なものと自分を考え、思いこんでいるようですが、いうまでもありませんが、
残念ながら、それは「ただのキ印の妄想」に過ぎません。

彼等の思い込みには、何ともはや言葉もありませんし、こんなタルムードを信望するメシヤニックジューの言葉をすっかり
うのみにしている某国キリスト教会の愚かなクリスチャン、雑誌、新聞等も困ったものです。

さて、このように「人が神のようになる」いや神以上のもの、神さえも批判するという驚くべき
風潮は、ユダヤ、タルムードにとどまらず、キリスト教会にもしっかりと定着しています。

「聖書の差別用語はけしからん。書きなおせ」と1年生の作文を書きなおさせる先生様よろしく、聖書を書かれた神様に書きなおしを命ずる、ごりっぱというか、おどろくべきごう慢な聖書学者達。
また、「らい病が罪の象徴であるとの解釈はまかりならん」と、聖書を書かれた神御自身さえも
叱責するかのような、「自分を何かと勘違いしている」何しろ神様以上にごりっぱな方々。
さらに、「神を男性形のHeと書くのは、とんでもない」と、聖書を書かれた神様に食ってかかる、驚くべき「フエニミスト神学」の方々、まさしくまさしく教会は「神のような方々」で満ちています。

そして、彼等がこんなにも驚くべき「ごう満な位置」に辿り着いたその原因は「知恵の木の実」を食べつづけてきたからです。確かに、「神のようになる」との預言は成就しています。

また、「いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」と書かれています。
ですから、「いのちの木」から食べることと「善悪の知識の木」からとって食べることは
対照的であることがわかります。また、どちらかを選べば、他方を選べない、そのこともわかるのです。

そんなケチなことをいうな、知識の木の実も、命の木の実もどちらも食べられるようにしてくれ、なんていう意見もあるかもしれませんが、しかし、聖書で神が命じておられることは、命じておられることであり、我々はその事実に基づいて考えるべきです。
そのようなわけで、ここに書かれている明白な教え、すなわち、「善悪の知識の木」からとって
食べるものは誰でも命の木に達したり、永遠の命を得ることはできない、このことを覚えて下さい。

そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、事実がこれを裏書きしています。
クリスチャンの信仰の土台、大事な一線は、キリストが神の子であることを信じ、
この方が救い主であること、死んで蘇ったことを信じること、また聖書が偽りのない
神のことばであると信じること等です。
しかし、これらの信仰の土台、基礎を熱心に、崩し、崩壊させようとしている人々がいます。

すなわち、キリストの復活は、歴史的な事実ではない、民衆の願望が作り上げたものであると主張する人々がいます。また、聖書の歴史的な真実性を疑う人々がいます。
すなわち、文献学と称して、もっともらしいことばで、聖書のことばは、実は人が書いたものに過ぎず、変更、改ざんがいくらでもあったと主張する人々です。そのような人々は誰か?
それこそ、知識の木を追い求め、また求め続けている、神学者
注解者達です。
彼等はこのように動くことのない聖書のことばを信じようとしません。
そしてそれゆえ、彼等に対して「命の木」への道は閉ざされてしまったのです。
まさしく、「いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」とのことばは成就していることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー