NO.341 目から隠されている


テキスト:”ルカの福音書 19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」”

本日は、「目から隠されている」との題でメッセージをしたいと思います。

終末に起きることがらの「真理」は神の民の目から隠されている、そのことを見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ていきたいと思います。

”41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、”

エルサレムは神の愛された都であり、今でいえば、神に愛される教会のたとえです。

”その都のために泣いて”

主が泣かれることは、特別なことです。
主はこの都を見、今は起きていないが、この後必ずやってくるこの都の裁きを現実のものとして
見ていました。それで涙を流されたのです。

このことは、歴史上実際に起き、主の十字架の死から40年後の西暦70年にこの都、エルサレムはローマの軍隊に囲まれ、最後の一人迄、殺されてしまったのです。このエルサレム滅亡は、主が都を見た時から、何十年も後のことなのですが、しかし、主の霊の目はそのこれから起きることがらを「現実のこと」「確かに起きること」「確定的」なこととして見、そして、嘆いたのです。

このことは、しかし、この時代で終了したことではなく、終末の日に再度、もっと大規模な形で繰り返されることを知らなければなりません。

その日は、今中東のエルサレムで罪なき人々の殺害を繰り返している悪魔的な民族とは何の関係もなく、
新約のエルサレム、教会の裁きの日です。

”42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。”

災い、裁きはこの都に迫ろうとしており、このことは霊の世界で定められた事実なのですが、
しかし、問題は「そのことがおまえの目から隠されている」ことなのです。

このこと、エルサレムが神の怒りをかっていること、それゆえに裁きに合うことは、霊的に
確定された事実であり、イエスの目は、今そこで裁きが起きているように、目の前にその
裁きの日、子供達をたたきつける日を見ているのですが、しかし、
問題は、肝心のこの都に住む人々が見ていない、全く見えていない、彼等にとって、「そのことが..目から隠されている」ことなのです。

まとめますと、ここでの事実は以下のようになると思います。

1.神の雨、霊の世界で確定されたことがら、未来に必ず起きる事柄がある。
2.目の開かれた人(ここではイエス)はそれを見る。
3.しかし、見えない、目から隠されている人にとっては、その「確定した事実」は見えない。
それゆえ裁きにあう。

このパターンは終末においても恐らく繰りかえされるようになるでしょう。

すなわち、
1.神は聖書の中で明らかに終末の日の神の民への裁きを語り、ある特定の日をその
日と定めている。
2.神により、霊の目が開かれた人はそれを見る。
3. しかし、目が曇らされ、妨げられている人はそれを見ない、そして、
裁きに直面する。

このように考えられます。

「この日のうちに、平和のことを知っていたのなら」
 

ここで主は確かに「時、日」について語っています。
私達が前もって気付かなければならない時、日というものがあるのです。

エルサレムの人々は、イエスがいる間に、彼こそが救いであること、またこの都の上に来らんとする神の「御怒り」
について理解しておくべき、見ておくべきでした。
何故なら、この都がローマの軍隊に囲まれ、最後の一人になる時に理解したのでは遅すぎるからです。

同じ意味あいで、終末において、私達が、理解しなければならない時があります。
その時、日に理解しておかないと、もう遅すぎるという時があるのです。

その時は近いのでしょうか?それともまだまだ先なのでしょうか?
私の理解では、もう理解すべき時はとっくに到来しています。「眠りから覚めるべき」時は来ていると思われます。

多くの盲人クリスチャンがいうような「気楽な時」は過ぎ去りました。
米國の数学者、暗号の専門家が認めた聖書の暗号、神が聖書を記した時に組み込まれたこの「人手によらない暗号」は、1996/7年(この年はキリスト生誕2000年目)より、「終わりの時代」に入ったことを告げます。

また私達の目は私達の回りで日々起きている「終わりの時代について語っている聖書の成就」を
見ないでしょうか。

ダニエル書、黙示録は、世の終わりに起きてくる「獣」といわれる一つの特別な國について預言しました。

その國は、一本の強い角(70人訳)と書かれているように、軍事大国です。
そして、その一本の強い角と言われる国が10本の角(ギリシャ、ヨーロッパの末裔の国々)
を自分の手足の指のように使うことをも聖書は預言しています。
そして、この一本の強い角といわれる国は、この10本の角、すなわち、ヨーロッパの国々の間から
出ることもダニエル書には書かれています。

このようなことがらは、現在に至る迄、世界の歴史に起きたことはありませんでした。

しかし、今はものの見事に成就していることを日々私達は見ています。
すなわち;

*一本の強い角、すなわち全世界の全ての国の総軍事費の40%をも一国で占める異常な軍事偏重国、
アメリカが世界の指導国として台頭し。

*この国こそ、10本の角、すなわちヨーロッパ各国の間から、すなわち、これらのヨーロッパ諸国の
それぞれの国からの移民により成り立っている国です。「10本の角の間から出る国」との
ことば通りです。

*そして、最近のニュースはこの米国がNATO、すなわちヨーロッパの軍事グループの盟主となっていること、そして、この国の命令、指導の下に「全世界のどの地域にも派遣される軍隊」が創設されることが報じています。すなわち、10本の角、ヨーロッパの国々の軍隊は、獣の国の10本の指のように、使用される、用いられるようになったのです。

このような明らかな預言の成就を見ても、残念ながら、多くのクリスチャンの目は閉じられているようです。
その理由の一つは、多くのガセネタ、偽情報、デイスインフオメーションが教会内に行き渡り、
多くの人が惑わされているからの様に思えます。

特に米国が今の中東のイスラエル国を支援しているので、この国こそ、ダニエル書の預言している
獣の国だと気付く人は少ないようです。

確かに黙示録に書かれているように、終末の日にイスラエル12部族、14万4千人が聖霊の印を受ける、
ということは事実でしょうが、しかし、聖書には、「日の上る方」すなわち、世界の東、アジア(東という意味がある)でこのことが起きる、かつてのイスラエル民族の救い、聖霊の大傾注があることを語っています。
ですから、聖書によれば、かつてのアブラハム、ダビデに連なる、イスラエル12部族は、世界の東、具体的にはアジアに来ている可能性が強いのです。アブラハムはセム、黄色人種であり、その面からも
このことは符合します。また、日本には、聖書に記されている多くの習慣が残っていることもこれと符合します。おもち=過ぎこしの種無しパン、神輿=契約の箱、大晦日の夜は寝ないで起きている習慣等です。

それでは、中東にいるあの「イスラエル人」と称している人々は誰なのか、という疑問が当然、沸き起こりますが、彼等こそ、黙示録がいう「ユダヤ人だと嘘をいっている悪魔礼拝者」達だと思うのが、
合理的だと思えます。
その理由は;

*セム族(黄色人種)だというには、色が白い、「白を黄色といいくるめる」人種であるから。
*もとから、その土地に住んでいた、パレスチナ人の土地や家を奪い、また今も命を奪いつづける人々だから。
*この国が何故、米国から多くの財政支援を受ける理由は、同じ民族がこの2つの国を支配しているから。すなわち、この民族は米国を通して終末の悪魔の願いを行っている。
*このイスラエル建国のもととなったバルフオア宣言とは、ロスチャイルドすなわち、有名な悪魔礼拝者にあてたものだから。すなわち、この国の建国に悪魔礼拝者が関係している。

*この国の建国物語りとセットとなっている「ナチ ガス室の600万人の虐殺」とは、
全くのほら話、うそ話であり、この国は嘘を建国の基いとしている。

*そもそもこの国へヨーロッパから移り住んだ人々はヨーロッパ各国から追い出された人々である。
すなわち、彼等はイギリス、ドイツ、スペイン、フランス、ロシア、あらゆる国から追い出された。第二次大戦が終わった後、どこの国も「彼等にへきえきして」受け入れないので、マダガスカル島に住むしかないといわれた人々である。
彼等がそのように嫌われ、追い出されたのは、彼等が神の戒めを守る神の民だからでは決してなく、
彼等の悪行に民が耐えきれなくなったから。この国は、悪魔礼拝者達を国民としている。

この国が黙示録でいう「ユダヤ人だと嘘をいっている悪魔礼拝者」と関係あることを知るとき、
何故、あの獣の国、アメリカが多くの国連決議を無視してこの国、イスラエルを擁護しているのかも理解できるというものです。

今行われていることは、「キリスト教国アメリカが約束の国の建国を助けている」のではなく、
獣の国を支配する某民族が、イスラエルに住む自分達と同じ民族に加担し、中東における虐殺に援助している:それが真実なのです。

しかし、この国は多くのクリスチャンの終末預言に対する目をとざすのに役たっています。

「この中東の国を再建することは、聖書における神の約束の成就であり、クリスチャンは何はともあれ、
彼等を支援しなければならない」という盲人の教理です。

確かにロマ書でパウロは、以下のようにイスラエルは皆救われると(真の)イスラエル民族が救いを得ると語っていることは事実であり、私もそれを「堅く」信じている者です。

ローマ人への手紙 11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」”

そして黙示録7章に記されているイスラエル12部族、14万4千人が聖霊の印を受けるとの記述はまさにその成就の記述、預言と思われます。
しかし、この記述の中で、ユダを含む12部族全てが「東」で聖霊の印を受けると書かれていることを決して見落としてはいけません。
 

”ヨハネの黙示録 7:4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
5 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、

彼等が東、すなわち世界の東、アジア(東という意味)地方で終末に聖霊の印を受ける以上、彼等は
その時、東、すなわちアジア地方にいなければなりません。
ですから、よくいわれる噂、捕囚されたイスラエル民族が東へ移り、東地方にまで至った可能性があることの噂は信ぴょう性があり、この箇所からも裏付けられるように思えます。
いわゆる「失われたイスラエル10部族説」です。
しかし、この黙示録の箇所は、10部族すなわち北イスラエルのみでなく、全12部族が全て東の
地にいることを語っています。すなわち、「ユダの部族で印を押された者が一万二千人」と書かれているようにユダ族も東で印を受ける、すなわち、この部族も東、アジア地域に捕囚されている可能性があるのです。聖書的には、「失われた12部族全て」が東で回復されると考えるべきと思われます。
 

あの中東で「ユダヤ人」と自称している人々が実は嘘をいっている可能性が高い以上、
実は、ユダもアジア、特に日本に来ている可能性が高いのです。そして、その時、色々なことにつじつまが合います。

ユダ迄、アジアへ来ているというとびっくりする人もいるかもしれません。しかし、それを裏付ける、それらしい証拠はいくつもいくつもあるのですが、そのうち一つだけあげましょう。
それは、万世一系の天皇家です。
この同じ家系、血筋が延々と続いているという世界でも稀な王族の特徴は、実は聖書の中の
ユダの王族の特徴でもあるのです。聖書を読むなら、ダビデ、ソロモンというようにユダの家系は代々王の血筋が
延々と続いていることがわかります。ですから、このダビデの王朝(ユダ国の王朝)が今でも続いているなら、
それにもっとも近いのは、日本の天皇家といえるでしょうか。

逆に北イスラエル10部族の王朝に関しては「血筋が続く」ということは、ありませんでした。
ですから、もし日本の天皇家がよくいわれるようにイスラエル民族と関係があるのなら、北
イスラエル王朝より、ユダの系統に近いことがわかります。

「しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。」

繰り返しますが、神の前に定まった事実、定められ、決定したことがらというものがあるのです。
ここで、「エルサレムの都への裁き」は確定しており、主の目は、その何十年も先のことがらを
今、目の前で見るかのように、見ており、そしてそれを嘆き、涙を流されたのです。
このこと「後の日のエルサレムの裁き」は、「あるかもしれない」「そうなる可能性がある」のではなく、全く定まったものであることを知って下さい。そして、もう一つ「目が開かれている人」はそれを
見ることをも知って下さい。

このこと、「後の日のエルサレムの裁きを見て嘆く」ということがらは、しかし、
このイエスの時代だけのこととは限りません。

終末の日にもし、確かに教会の裁きが定まっているのなら、そして、それを前もって見る人々がいるなら、その「もう決定したことがら、未来の事実」を見てしまった人々は、それを見て嘆かないでしょうか?
 

何故この時代、ある人々は繰り返し、繰り返しあきもせず終末のことを語り、黙示録について語り、 また裁きについて語るのでしょうか?
彼等は偏執狂なのか、それとも他にすることがないのか。
そうではなく、確かに見たのなら、嘆きがその胸にあることを知って下さい。

また、この時、この裁きを前もって見た人は多くはなく、逆に見えなかった人々の方が大多数だったということをも記憶して下さい。

そうです、終末の日にも多くの人の目には、「この裁き」は隠されているでしょう。

今の時代の教会の問題とは何でしょう?
それは、神は確かにその民に対して怒りを発しておられるのですが、それが民の目には、
隠されているということです。

そもそも終末の日が神の民に対する裁きの日となるというもっとも
基本的なことがらさえ教会では語られていないようです。

”43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、”

彼等、イエスの時代のエルサレムの住民は自分達が神の怒りをかっていることさえ気がつきませんでした。
しかし、彼等の行いに応じて、神は報われ、かれらが気がつかず、安心している間に、
「敵が、..塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ」るようになりました。

同じ意味あいで、教会に対しても密かに「敵が、..塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ」ていることを知るべきです。

いつの間にか教会で読まれる本は、ファンタジーじみたもの、すなわち魔術的な本が多くなりました。
また、「ヤベツの祈り」に関する本は、魔術の原則、全く同じことばを何日も何ヶ月も何年も祈る、すなわち神を強制する祈りだということを聞いたことがあります。
たしかに教会は敵に囲まれています。

”44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」”

「神の訪れの時」を理解しなかった、エルサレムは後の日に裁きに遭遇しました。
神の訪れの時とは具体的には何をさすのでしょう?
それは、70週の預言で前もって語られていた、油塗られた者、主イエスのエルサレム入場です。
エルサレムは都をあげて、歓呼の声でこの油塗られた者、主の入場を歓迎したのですが、
しかし、それは姑くの間だけであり、しばらくしてこの都の人々はこの方を非難し始め、十字架につけろと大声をあげ、そして油塗られた者は断たれ、彼は都の外で苦しみを受けたのです。

同じパターンが終末にも繰り返されるでしょう。

世の終わりにも同じく「神の訪れの時」がやってくるのです。
それはどのようにやってくるのでしょう?
一つわかること、主イエスの時代の教訓からわかることは、それが「わかりにくい、間違えやすい」ものだということです。

その「神の訪れの時」を目の前にしてもそれでもそれがそうだとは気付かない、
間違える、それどころか、自分の手でそれに反対し、排斥し、死罪にさえしてしまう、そんな可能性があると思われます。

そんなばかなと思うかもしれませんが、主の時に起きたことはまさにそうだったと思えるのですが、
どうでしょう。

終末がさらに深くなるなかで、神の訪れの時が今来ようとしています。
しかし、それは恐らく多くのクリスチャンが聞いていた方法、形とはだいぶ異なるものとなるのでしょう。
しかし、この「神の訪れの時」を知らない、理解できないことは、私達に永遠の区分をもたらすことを知りましょう。

その日それを見る目を持つものは幸いです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー