No.339天地はかわる


テキスト:”2ペテロ3:1 愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
2 それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。
3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
17 愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。
18 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。”

本日は「天地は変わる」という題でメッセージしたいと思います。

聖書がくり返し、くり返し警告し、預言しているのは、終末の日に教会が変質してしまう、
あたかも別のもののようになってしまう、そのことです。

かつての旧約の民に関しても繰り替えし、くり返し、神は神の民の変質、不信仰化、不忠実になることを預言し、そして警告しています。

それにもかかわらず、神の民は、変質してしまい、その結果、前もって預言された裁きと神がその民を見捨てることは実現してしまったのですが、このことは、終末の日に同じようにくり返されます。

新約の神の民が変質することも聖書の中で、あらゆる表現で語られています。
神の民は羊といわれるのですが、終末の日には、羊ばかりでなく、山羊も教会の中にあらわれるようになります。そのことは終末の日に羊と山羊との区分が行われることにより、
表現されています。

また、別の表現で、神の民は、麦と称されるのですが、その神の民の中に麦だけでなく、毒麦があらわれることをまた聖書は述べています。(マタイ13章)

また、神の民は、魚としても表現されます。主がペテロを招命しながら、「人間をとる
漁師にしよう」といった時、まさに、神の民を魚として表現していることを
みます。そして、この魚に関しても終末には、網を引いて、良い魚と悪い魚との区分をなすことが
述べられています。また、さらに神の民はぶどうの枝としても表現されています。
「私はまことのぶどうの木、あなたがたはその枝です」と書かれている通りです。
そして、その枝に関しても終末の日に区分があることが語られています。

ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。”

すなわち主に留り実を結ぶ枝と、とどまらず、火で焼かれる枝とです。

このようにあらゆる種類の神の民の表現に関して、終末の日に2種類の区分があることを
聖書は明らかに語っています。片方は、報いと誉れを受け、他方は裁きに入るようです。

さて、本日のテキストに関する話に移ります。
ここには、天地が焼けくずれることに関して書かれています。
これを文字通り、宇宙が焼けくずれるととる人もいるようですが、
しかし、主はたとえについて言われたのでたとえの面を見ていきましょう。

たとえを考えるなら、天地は、天の星、地の砂にたとえられる「アブラハムの子孫」、
クリスチャンの住むところとして、「教会」のたとえであることに気がつきます。

ですから、ここで記されていることは、上記、麦、羊、魚、ぶどうのたとえで示されている、
「終末における神の民の2つの区分」の流れの中にある話であることが理解できるのです。

終末の日に変質してしまった教会へのさばきが「天地が焼け崩れる」と表現され、
また、その日、主の前にみこころを歩み続けるもう一つの教会が、新しい天地と表現されているのです。
これらの理解をもとに順にテキストを見ていきたいと思います。

”1 愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。”

ここでペテロは「第二の手紙」の手紙について述べています。
「第二の手紙」という何気ない表現にももしかすると、かくされた意味あいがあるのかもしれません。黙示録の中でヨハネが2度にわたって、預言していることは、よく知られたことです。

”ヨハネの黙示録 10:11 そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」

また、エレミヤの時にも以下のように語られています。

”エレミヤ書 36:28 「あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。”

エホヤキム王は警告のことばを記した巻き物を切って燃やしてしまったのですが、
神は再度書くようにエレミヤに命じています。何故、神は2度にわたって語られるのでしょう?
 

”2 それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。

ペテロがこの第2の手紙を書くことにより、人々に「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせ」ようとしました。
同じように神は終末の日に第2の手紙を書くのではないかと私は予感しています。
「第2の手紙?また変なことをいって」と思う人がいるかもしれませんが、聞いて下さい。
新しい聖書ができると思っているわけではありません。聖書そのものに何の変更もあるわけではないのでしょうが、しかし、「啓示が開かれてくる」、それが第2の手紙ではないかと思っているのです。

それが黙示録でいわれている、「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」ということばの成就の日ではないかと思っているのです。
私の理解が間違えでなければ今、この2つめの手紙、啓示が開かれようとしているように思えます。

”3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」”
 

さて、ここでは、終末に関連して、「何も変わっていないではないか」という人々について
書かれています。彼等は、「先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」といっているのです。

この何気なく入っていることばは、実は終末の日を理解する大変大事なポイント、キー、鍵であることを知って下さい。くり返します。これは、重要な、ポイント、キー、鍵なのです。

私の理解が間違えでなければ、終末の日の特徴は、多くの人々には、今迄と何も変わっていないように見える。
しかし、主によって目を開かれた人々は、その変化を理解できる、そのような日ではないかと
思われます。「主の日は盗人のように来る」とはまさにこのことをあらわすように思えます。

終末の日の教会の変質、変型とは、大きな目に見えるような変質ではないのかも知れません。
教会の建物はそのままであり、教会の組織も牧師がいたり、監督がいたり、また法皇がいたり、枢機卿がいたり、何も変化していないように見える。
しかし、その内側、実質は全く別のものに変わってしまう、そのような変化があると語られているように思えます。今迄と同じように法皇がいるようだが、「進化論は全く科学的」(進化論とぶつかる、
創世記の記述は、非科学的、ただの神話)などと冒涜的なことをいう獣法皇にいつの間にか変わってしまっているのです。

このこと、「外側は今迄と同じようだが、突然中身が変わってしまう」ということは、
終末の日の非常に重要なポイントです。これは、教会にとどまらず、世の中にも通用するように
思えます。

昨日迄、友好的、平和の守り手だった、米国がまるで、別の国になったかのように他国に無理難題を
ふりかけ、一方的に爆撃、破壊する、そのような変化が起こります。
今迄科学、知恵、民主主義の守り手、先進国の鑑のように思えていた、英国、ドイツ、フランスが
獣に従う、ダニエル書の3本の角よろしく......。

5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。”

ここで、ペテロは、「先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」という人々は、「見落としてい」る、すなわち見るべきことを見ていないと語っているのです。
彼等の「何も変わっていない」との主張に、反対しているのです。

ですから、終末の日の特徴は;
1. この世につく人々、敬けん、忠実、信仰をあざける人々には「何も変わっていないように見える」
2.しかし、主につくペテロを始めとする忠実な人々には、天地(教会)の変化が見える。

以上のようです。
これは、まさに今の時代にあてはまることを覚えて下さい。

”天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、”

ここで、天地は水と神のことばによってなったことが書かれています。
これは、創世記の記述通りですが、しかし、もう一つ隠れた意味あいがあります。
天地は教会のたとえであり、それは、水、すなわち聖霊と、神のことばとにより、創造された、
造り上げられたことが述べられているのです。

これは、確かにその通りであり、教会の基い、基本は聖霊の働きであり、また、
我々に命を与える神のみことばなのです。このことは、祝福です。

”当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。”

しかし、ここに書かれているのは、祝福とは、全く反対の滅び、呪いです。

この世界の基いは水であり、水により多くの命あるものが創造されたのに、
ノアの日にこの世界が逆にこの「水」により滅ぼされてしまったことが記されているのです。

「恵みが呪い」に変わってしまったのです。そして、これは、終末の日のたとえです。
終末の日にこの水、霊が別の霊、悪霊へと変わり、祝福から呪いへと変化し、人々を滅ぼすものとなるでしょう。

”7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。”

今の天と地とは、今の教会、我々の時代の教会について語っているのです。

同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ”

みことばをあなどる人々にとって、みことばが仇となる日が来るでしょう。
聖書のことばをもって、「罪を犯すことを奨励するような」偽りの教えがでるでしょう。
また、同じみことばをもって、「地獄はない」ともっともらしく惑わす人々がでるでしょう。
また、同じみことばをもって、「艱難時代が来ても、その日には上に挙げられているから大丈夫」などとうそを信じ込ませる人々が出てくるでしょう。
これらは、「同じみことばによって」見分けがたく、だまされやすいのです。
そしてこのような偽りに入り込む人々は、「火に焼かれる」、すなわち、悪霊の惑わしのリバイバル、
しるしと不思議はあるが、聖霊はいないリバイバルへと惑わされていくようになるでしょう。

プロテスタントで大きく取り上げられている、聖霊の第3の波とは、まさしくこの集会のことであり、カトリックの聖霊刷新運動、カリスマ運動もその流れです。
エキュメニカル、カリスマ運動を推進する人々はまさにこの火で焼かれる人々です。

不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。”

天地が保たれている、すなわち、今でも教会が存続しているのは、「不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで」と書かれています。ですから、今の教会は、不敬虔な者どもの裁きの日に向かっていることがわかります。

それですから、いかに私達はこの方の前に敬けんに生きるべきでしょうか。
その日は来ようとしている、いいえ、この偽りのリバイバルの日は既に大きく燃え盛っています。
主に正しく聞き従わない、不敬けんな人々は既に巻き込まれつつあります。

”8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。”
 

「千年は一日のようです。」と書かれています。ですから、聖書の中で、1000年と書かれている記述は、ある一日をさしたたとえである可能性があります。

9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。”

主は長い間、忍耐をし、「すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」ます。
ですから、もし私達の歩みが敬けんなものでないなら、今、悔い改め(方向転換)しましょう。
それを主は喜ばれます。
 

10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。”

「盗人のようにやって来」るという時、聖書は「決して人にはわからない」というニュアンスを語っています。何故なら、どろぼうというものは、普通、人がいなかったり、寝ていたり、何しろ
「人に気付かれない」ことを再重点において、やってくるからです。
足音をたてず、細心の注意を払って、こっそり、ぬき足、さし足で静かにやって来て、
しらぬ間にいなくなるのが、盗人、どろぼうというものです。

聖書がこのようにわざわざ「主の日は、盗人のようにやって来」るという時、そのことばを真剣に
受け止め、謙虚に主に「その時が理解できるよう祈り求める人々」は幸いです。
その人はその時を理解することでしょう。

しかし、話半分、神のことばをまともに受けない人々はあとで、後悔することになるのでしょう。
聖書の暗号のいう「終わりの時」が正しいのなら、今、我々はその時にすでに入りつつあるはずです。
私の理解では、「天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り」ということばは
成就しつつあります。

聖霊の第3の波と称する悪霊のリバイバルはペンテコステ、カリスマ派を席巻し、更に
福音派もこの波に巻き込まれつつあります。このことは成就しつつあるのです。 

”地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます”

教会の多くのわざはこの火の中で、焼き尽くされ、意味のないものとなっていきます。

11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。”

ここに書かれているのは、教会が悪霊の火で焼き尽くされていくことと関連して、我々に対する、「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう」との警告です。
ですから、天地が焼けくずれるとは、要するに教会への裁きであることが、確かにわかるのです。
私達が「聖い生き方をする」こと、「敬虔な人」であることは、この裁きと密接に関係しているのです。

12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。”

「天の万象は焼け溶け」ると書かれています。天の万象とは要するに太陽、月、星のことであり、
これは、アブラハムの子孫、教会のクリスチャンをさすのです。
彼等は悪霊のリバイバルに飲み込まれていきます。

今、プロテスタントで行われている、聖霊の第3の波、リニューワルとはまさにこの火のことであり、
カトリックで行われるカリスマ現象、聖霊刷新、リニューワルはまさにこれをさします。

13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。”

ここで、古い過ぎ去る天地、燃え尽きる天地と対照的に新しい新しい天地について書かれています。
これは、古い焼かれるエルサレムと新しいエルサレムの対照的な記述と似ています。
古い過ぎ去る天地が教会であるように、新しい天地も教会です。新しい教会です。

ですから、聖書は明らかに終末の日に新しい教会が起きてくることを述べています。
私達はいずれ、この教会、働き、運動について聞くようになるでしょう。

”14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。”

しみやきずは衣、義の衣と関係しているようです。ですから、義を求めろということを
いっているのでしょうか。

”15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。”

主の忍耐は確かに救いです。主は今に至るまで、確かに私達に警告を与えて下さっているのではないでしょうか。そうではありませんか?

”16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。”

パウロの手紙にしても他の聖書の箇所にしても、「無知な、心の定まらない人」が「それらの手紙を曲解」する時、「自分自身に滅びを招いて」いることが書かれています。

この警告は大事です。何故なら、私達の周りには曲解した、間違えた人々がたくさんいるからです。
彼等は自分自身に滅びを招きます。

彼等は聖書を正しく読むことができず、「2回にわたってキリストが再臨する」というおとぎ話を
得意になって吹聴しています。この子供だましの空想話を妄信することにより、キリストがいわれた全ての終末の日に関する警告を無効にしています。彼等はいずれ、「自分自身に滅びを招」くでしょう。

彼等は正しく聖書を読むことができず、ダニエル書が2千数百年前から、延々と聖書の中で
明確に預言していた獣の国が目の前に出現してもこれを理解することも、人々に警告することもできない
「役立たず」な聖書教師、盲人の弟子となっています。

かつての律法学者、パリサイ人達も
自分は聖書を知っていると自画自賛していましたが、肝心のメシヤとして来られたキリストを認めることができなかったのですから、主の言われるように、「盲人の手を引く盲人」です。
彼等の聖書知識は、実際には何の役にもたたなかったのです。
今の預言解釈者や聖書学者も似たようなもの、同じく盲人を手引きする盲人ではないでしょうか。

彼等の多くは、聖書を曲解した人々であり、彼等が曲がった道を歩みつづける限り、自分自身に滅びを招きます。

17 愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。
18 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。”

終末の時代には、「無節操な者たち」が多いのです。彼等は歩みの定まらない人々です。
しかし、このような人々の歩みに連なってはいけません。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー