No.338 悪人は一人も悟らない


”テキスト:ダニエル12:10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。”
 

本日は「悪人は一人も悟らない」としてダニエル書から見ていきましょう。
上記テキストには、「悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない」と明確に記されています。
ですから、終末の日のみことばには一つのはっきりした性格があることがわかります。
すなわち
a)悪者は悟らない
b)正しい者は悟る

以上です。

そのような訳で黙示録やダニエル書を書かれた方は終末の日に一つの大きな区分をしようとして
いることがわかります。
すなわち、悪人と善を行う者との区別です。この二つの区分は難しいようですが、しかし、神はそれをしようとしておられるのです。そしてその区分の方法とは、悟る、悟らないで区分されるようです。
何を悟るのか?もちろん、終末の預言のことばをです。

この区分に関しては、主が「悪人はひとりも悟る者がいない」と書かれた以上、完全な区分であることを知って下さい。

この理解に基づき、以下のこのテキストの箇所を見ていきたいと思います。
 

ダニエル12:1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。
2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。
4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」
5 私、ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。
6 それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。「この不思議なことは、いつになって終わるのですか。」
7 すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」
8 私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」
9 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。
10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。
11 常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。
12 幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。
13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」”

順に見ます。

1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。”

この時は終末の時であり、また回復の時です。何故なら、この箇所で書かれているミカエル
は黙示録では以下のように記されているからです。

”黙示録12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

この時、ミカエルと彼の使いにより、天において勝利が得られました。
ここでいう天とは、「アブラハムの子孫(星)が住むところ」としての教会のたとえと思われます。

ですから、この箇所は教会における勝利に関して記されているのです。「竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」が教会から投げ落とされる、その日について
述べているのです。
教会の全き回復の日について述べられているのです。
 

”2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
 

「地のちりの中に眠っている者」が目をさます日がきます。
そして、その後の運命は2つに分かれます。ある者は永遠のいのちに入ります。
そしてある者はそしりと永遠の忌みに。

私達の今の人生は有限ですが、しかし、後の人生は永遠の世界であることがわかります。
それで、私達は、今の人生だけを考えるのはおろかであることがわかるのです。

私はある時、エジプトへ行くことになりました。私だけでなく、
子供も一緒です。しかし、私はそのために子供にエジプト語を習えとはいいませんでした。
また、自分でも習ったりはしませんでした。
何故なら、その時はただ、旅行の途中にエジプトの国に何日か滞在するだけのことであり、
長い年月いるわけではなかったからです。
せっかく覚えても覚えた頃にはその国を 出なければならないでしょう。
しかし、反面私は子供に日本の、国語や漢字をよく習うようにいいます。
何故なら、子供はこれから先、何年も何十年も日本に住むので、日本の漢字を覚えなければ
不便だからです。

その国に長い間住むなら、その備えをしなければならないのです。
私達は後の世界、永遠の世界に住む時間の方がずっと長いのです。ですから、そのための備えをしなければならないことを知りましょう。私達は何はともあれ、「永遠のいのち」を確保しなければ
ならないのです。「全世界を得ても自分の命を損したら何の益があるか」とはこのことをいっているのです。このことを優先しましょう。その日、泣いたり歯がみしたりしないようにしましょう。
 

”3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。”

思慮深い人は、「たとえや謎をとく」ことに関連します。これらの終末のことばを解く人には
みこころがあります。

4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」”
 

このことばは「終わりの時」というある特定の終末の時までは封じられます。
あたかもタイムカプセルが封じられかのように、
封じられるのです。しかし、その時、定められた時が来れば、開封され、
封印がとかれ、また啓示が開けてきます。
聖書の暗号によれば、1997年(この年はキリスト生誕から2000年目)から「終わりの時代」に入ったということです。これが本当なら、今はもう「啓示の開かれた時代」に入ったことになります。
すでに啓示の霊は注がれ始めたはずであり、求める者はそれを受けるはずなのです。

「多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」とのことばは文脈からいえば、封印と関連したことばでしょう。すなわち、終末の啓示に関する知識を求めて皆探り回るということでしょうか。

5 私、ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。
6 それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。「この不思議なことは、いつになって終わるのですか。」
7 すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」”

最後の時、すなわち、終末の大艱難の時代が、「ひと時とふた時と半時」すなわち、三年半続くことが
書かれています。
この期間は定められ、決められています。我々はその時のために
用意をしなければなりません。

家に回覧版が回って来て、「明日から3日半、断水です」と書かれていれば、その断水のため、
備えをすべきです。飲み水をためたり、飲料水を買ってきたり、またポリバケツに水を貯蔵すべきなのです。しかもその回覧やお知らせが一度ならず、2度、3度まわってきたのなら、
「やっぱり、この断水は現実に起きるのだ。今から覚悟して、用意しておかないと後で、水がなく
て苦労するぞ」と思うのが真っ当な健全な常識ある考えです。

「私の家は愛想が良いから水道局は私の家だけは特別に便宜をはかって、何とかしてくれるはず」などと、根拠のない、
楽観は禁物です。その日になれば、確かに断水し、一滴の水も出なくなって、
備えのない家は苦労するでしょう。だてに回覧や掲示板で注意を喚起していたのではないことが
その日わかるでしょう。

人間の世界でもかくなるありさまです。
まして、聖書を書かれた神が度々、三年半、42ヶ月、1260日、一時と2時と半時というように
何度もことばを変えて警告を行っていることを無視し、聖書にもない「2回に渡る再臨」などという根拠なき、楽観論を唱える人々は「その日」大いに恥を見、また後悔をするようになるでしょう。

”8 私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」
9 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。”

この時、ダニエルはこの終末の預言に関して、「悟ることができなかった」といいました。
そして、それを受けて、この「川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人」は、「このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。」といいました。
このことを正しくとらえましょう。

ここで神の知恵を持つ人、居並ぶバビロンの知者が解きあかすことのできなかった、夢、謎を解いた、
ダニエルは終末の預言を「悟ることができなかった」といったのです。決して、
「悟ることができた」といったのではありません。
そして、この神から遣わされた「川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人」もそれを肯定するように、
「このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。」といったのです。

要するにダニエルの時以来、ダニエルを含めて誰もこの「終末の預言」を解いた人はいないのです。
何故なら、「終わりの時」というある一定の時が来るまでは、神が封印を封ずるからです。
そして神が封じたなら、誰一人それを見る、解くことはできないのです。
ですから、結論として、「終末の預言」に関しては、「世の終わり」というある一定の時が始まる迄は、ダニエルを含め、誰一人解くことができないし、
解けないということが正しいのです。

ダイムカプセルの例で考えれば、2千数百年前のダニエルの時にカプセルは封じられ、堅く
閉じられ、土に埋められてしまったのです。残念ながら、ダニエルさえ、その中身を見ませんでした。
だから、彼は「悟ることができなかった」といったのです。
このカプセルは2千数百年後の「終わりの時」というある一定の時に至る迄、
決して開かれることはありません。
何故なら、神がその権威を以て封じたのでもう誰も開くことができないからです。
けっとばしても、たたいても、こじあげようとしても、その時が来るまでは、
もう開かないのです。
それが神の「封印」というものなのです。

それなのに、何を勘違いしたのか、「自称ダニエルに勝る知恵者」がたくさん、キリスト教会には、いるようです。それでもって、まだ「定められた時」が来る前から、「何もかもわかったような、悟ったような、理解したかのような」
解釈や、解説をしているのです。中には念のいったことには、「7つの封印の時の後に...の時が続き」
などと見てきたような解説をする人々までいます。しかし、これらは、「講釈師、見てきたような..をいい」の類ではないでしょうか。

しかし、我々は「終わりの時」迄は封印は閉じられるといわれた主のことばを尊重すべきではないでしょうか。神がそういわれたら、決してその時まで、誰も悟ることも理解することもできないのです。
100年も200年も前の「封印が開かれる」はるか以前の「愚かな人の知恵に満ちた解釈」で
何もかもわかったように納得すべきではありません。

しかし、それとともに「終わりの時」に至るならば、約束通り、神は「封印を開く」ことをもしらなければなりません。
そして聖書の暗号によれば、西暦1996/7年、この年はキリスト生誕後ちょうど2000年目にあたります、に「終わりの時」に入ったということです。
もし、これが事実なら、今もう封印の開かれた時代に我々は入っているはずなのです。
それで、主は啓示の霊を教会に下し始め、主のしもべはこれを受けるようになっているはずなのです。
ですから、聖書的にいうなら、もう「啓示の開かれる時代に入った」という方が正しいと思われます。
もちろん、今の(盲人の)神学はそんなことを認めないでしょうが。

”10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。”

終末の備えをしまた、罪から浄められる、すなわち「身を清め、白く」する人々、また艱難の中で、「練られる」人々がいます。これらの人々は永遠のみくにを受け継ぐようになるでしょう。

そして、「悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。」のです。
ここには、「(学校の成績が悪いもの)どもは、ひとりも悟る者がいない。」とは書いていないことを覚えて下さい。学校の成績や、頭のよしあしは関係ないのです。

しかし、ここには、「悪者どのは...ひとりも悟る者がいない」と書かれていることを
覚えましょう。

それで、終末に生き、神の裁きや怒りから免れ、多くの惑わしや偽りから、
抜け出し、主の救いを得ようと志す人は誰でも決して「悪」に染まることなく、
「善」を追い求めなければならないことを知りましょう。

火事になったら、まず自分の命を救うことを求めなければなりません。
貯金通牒も金庫もそれから、趣味のピアノも大事かもしれませんが、
しかし、何はともあれ、命を救わなければならないのではないでしょうか。

色々と確保しなければならないもの、大事なものは多いでしょうが、しかし、何はともあれ、
命を救わなければなりません。

私達はいかに「義」を追い求めなければならないかがわかるのです。
この終わりの時の特徴は、神が選別、区分、分離を神の民の間になされるということです。
そのことを聖書はありとあらゆる方法、表現で語っています。
いわく、ノアの時代(洪水に合うものと逃れる者)、ロトの時代(火の裁きで滅ぼされる者、
逃れる者)、麦と毒麦、良い魚と悪い魚、羊と山羊、等です。

この両者の区分を神はするというのですが、その方法の一つは、
「悟る」ということを通してです。
区分は簡単明瞭であり、
すなわち、

正しい者は悟り、
悪人は悟らない
という区分です。

ですから、これからの時代は聖書の語っているいわゆる「終わりの時代」の様相がさらに
深まり、終末の預言の啓示も明確に開かれてくるでしょう。
しかし、この啓示に関して明確に異なる2つの反応がでてくるでしょう。
すなわち、「悟る正しい者」と「悟らない悪人」という区分です。

神が正しい者、悪人の区分を「悟る」ことによりなすという以上、このようになることが
確かに予想されるのです。

ですから、これから開かれようとする「啓示」に関して、我々がどのように反応するかは、
大きな区分をもたらすことをよくよく心にとめましょう。

啓示?そうです、確かに、主は終末の時代に開かれる啓示とそれを悟ることについて
語っているように思えるのです。
かつてのイエスの時代がそうでした。

この時代は「啓示の開かれた時代」なのだということをどうぞ正しく認識して下さい。
今、旧約のみことばとまた、主のいわれた福音書のことば、また使徒達の書簡のことばを
比べるとそれらは全く異なるもののように思えます。
しかし、はっきり知らなければならないことは、これらの新約の教え、教理、みことばは、
皆、旧約のことばに土台を置いているということ、またこれらの旧約、新約のことばは、
実は同じライン、流れの中にあるということです。
だからこそ、イエスのことば、また、ペテロ、パウロ達のことばに頻繁に旧約のことばが
引用されているのです。

彼等はこれらの教え、教理を旧約のみことばを読む中で、「啓示」されたのだということを
はっきりと覚えて下さい。
彼等はこれらの教えの啓示を受け、そして「悟った」のです。
一方、これらの「啓示」を聞きながら、受け入れず「悟らなかった」人々もいます。

すなわち、律法学者、パリサイ人、祭司長達です。

彼等は何故「悟ら」なかったのでしょう?ダニエル書によれば、理由ははっきりしています。
「悪人」は悟らないのです。
彼等について主は「白く塗られた墓」であると述べました。
人々は気付かないが、その内側はあらゆる汚れたもので満ちているといわれたのです。
彼等はそれで、区分されてしまい、「悟らない」組に入ってしまったのです。
しかし、悟った人々もいます。たとえば、ガリラヤの漁師であるペテロ、ヨハネ、ヤコブ達です。
彼等が神の前にどのように正しいのか、正しくないのか、誰も知りませんが、
また外からは察しようがないのですが、しかし、彼等がこの方を知り、彼の語ることばを「悟る」ことができた理由は、彼等、弟子達が義人であり、正しい者達であったからです。
それで、神は彼等の心を開き、「啓示」を見えるようにされたのです。

ことほどさように、神は義人と悪人の区分を「悟る」ことを通して明確に行う方であることを
はっきりととらえて下さい。
何故なら、この区分は終末にもいや、終末においてこそ、明確になされるはずだからです。

この区分は終末においては、このようになると思われます。
すなわち、終末の時代に入り、同じ聖書を読みながら、今迄と全く異なる「啓示」を
受ける人々があらわれてくる。そしてある人々は、その「啓示」を聞いて「悟る」、その悟る人々は
行いにおいて義人、正しい人々でしょう。
また、決して悟らない人々もいます、それらの人々は、頭が悪いのでも、知識がないのでも
学問がないのでもなく、ただ、行いが悪い、「悪人」なのでしょう。
もちろん、この「義人」「悪人」の区分は人によるのではありません。
人間には、それぞれの人の隠れた行いや、心の真のありさまなどわからないからです。
しかし、この区分は神によりなされるはずです。そして、神の区分こそ、いや神の区分のみ正しいのです。
誰がこれに異を唱えることができるでしょう。
 

”11 常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。
12 幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。”

幸いなのは、「忍んで待ち、千三百三十五日に達する者」だということです。
ですから、終末の艱難の日はサバイバルゲームのようなものなのでしょうか。私達は
その日に対して備えていかなければなりません。

”13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」

私達はこの「割り当ての地」を得られるよう、歩みましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー
 
 
 
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