No337 解き放たれるろば

”テキスト:マルコ11:1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲと(熟していないいちじく)ベタニヤ(みじめな家)に近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
3 もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」
4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。
5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」
6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。
7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」”

本日は「解き放たれるろば」として、終末の日に約束されている「後の雨」、終末の聖霊の大傾注に関してみていきましょう。

何度も見てきたように、イエスの時代は、終末の時代の型として、聖書では描かれているようです。
ですから、初降臨の主イエスがいよいよ、神の民の中心地、あの都、エルサレムへ入場される場面は、
終末の日にどのような形で、主が神の民の中にあらわれるか、それを示しているように思えます。

その日、主は「ろば」に乗って入場しました。そのことを見ていきたいと思います。

順に見ます。

”1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲと(熟していないいちじく)ベタニヤ(みじめな家)に近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して”

主イエスの3年半にわたる公生涯の一つのクライマックスはエルサレム入場でした。ここに書かれている
2つの町の名前、「ベテパゲ(熟していないいちじく)とベタニヤ(みじめな家)」は、あたかも当時の神の民の霊的状態を表しているかのように思えます。彼等はベテパゲ(熟していないいちじく)すなわち、
聖霊の実を結んでいないものであり、ベタニヤすなわち、みじめな者です。
そのような神の民に対して、神のかえりみの時が来て、この日、油塗られた者、主イエスはこの町、
エルサレムに入場したのです。

”2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。”

さて、この記念すべきエルサレム入場に際して、主は少し不思議なことをしました。
それは、わざわざ「ろばの子」を用意させ、それに乗って入場したということです。

主は「ろばの子」に乗らなくても入場できたのでしょうが、しかし、主はこのことにこだわり、
そして、「ろばの子」を前もって用意させ、それに乗って入場したのです。

このことは、偶然ではなく、何か意味あることのように思えます。このことの意味あいを考えてみましょう。ろばは、「我々を行くべき地へ運ぶ方」としての聖霊の型と思われます。だから、「まだだれも乗ったことのない、ろばの子」とは、「今まで誰も経験したことのない聖霊の大傾注」として理解できるかもしれません。これはすなわち、終末の日の大収穫のことです。

この「ろば」はつながれていました。すなわち、自由に動けないように、とどめられていたのです。
だから、このろばは本来の働き、荷物を運んだり、人を運ぶということができませんでした。終末の日においても聖霊はつながれ、自由に動けないようになっているかもしれません。

”それをほどいて、引いて来なさい。”

しかし、主はこのろばをほどくよう、解き放つよう命じました。そして、用にたつよう、
連れてくるように命じたのです。

これは、以下の「息に預言せよ」とのことばに似ています。
ここでも聖霊なる方に関してのことばがあるからです。
 

”エゼキエル37:99 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」”
 

主の前に「ろばを解き放せ」との命令は、「息に預言せよ」との命令に通じるものがあるように思われます。エゼキエルの日に預言された「息」が吹いてきたように、主イエスのエルサレム入場に関しても、
「ろば」が解き放たれました。これは、終末の日に、解き放たれる主の霊、聖霊のたとえと思われるので
す。
 

”3 もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」”
 
 

”『なぜそんなことをするのか。』と言う人が”いるかもしれません。

何故、終末の日に後の雨、聖霊の大傾注が必要なのでしょう。
『なぜそんなことをするのか。』と「ろば」を解き放すことに関する質問はこの質問に通じるものがあります。
答えは、「主がお入用なのです。」とのことばです。主は、終末の日に主のみこころの民の大収穫を予定しており、その用にこの雨、ろばは使われるのです。

”すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」”

このことばは暗示的です。主はろばは、「すぐに、またここに送り返され」ると語ったのです。
ろばが用いられること、そして、それに乗ったイエスが群集に熱狂的に受け入れられるのはすばらしいことですが、しかし、それは、長く続かず、すぐに送り返されると語ったのです。
これは、ヨセフが解いたパロ王の7年の豊作、7年の飢饉の夢に通じます。
7年の豊作、大収穫は喜ばしく、すばらしいことですが、しかし、聖書は終末の日はハッピーエンドで終わるとは語っていません。豊作、大収穫の後、ききん、迫害の時代が来ることをも語っているのです。

この「ろば」の働きは永遠に続くものではなく、すぐに送り返され、止むものであることを知りましょう。

その日主のために働こうと志す主の弟子達は、その日のために今から備えをしなければ、間に合わないことをしりましょう。
 

4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。
5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」
6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。”
 

ここで、主が前もっていわれたことがら、すなわち、「つながれたろば」、「それを解くこと」「そのことに関連して人から質問されること」がくり返されています。また、実現しています。くり返されることばは大事なことばであり、また、先のことがらを前もって告げた主のことば、
これはまた後の日、終末の日における預言であることをも知りましょう。

”7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。”

人々は、「上着をその上に掛け」ました。そして「イエスはそれに乗られた。」のです。
上着は、イエスにつく着物の中でも下着とは異なり、外につく部分です。
だから、表面的に主につく人々、すなわち、弟子(下着)と言うより群集をあらわすのでしょう。
ここで、群集が熱狂している場面と符合します。

しかし、皮肉にもここで熱狂している「群集」は、すぐに立場を、心を変え、主イエスに向かって、
「十字架につけろ」と叫ぶようになります。みことばを行おうとしない、砂の上に家を建て、
弟子の歩みに入ろうとしない人々の「感動」とは、この程度のものだということを知りましょう。
同じことは必ず終末の日にもくり返されるはずです。

”8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」”

多くの人がエルサレムに入場する主イエスの前になり、後ろになり、熱狂的に叫んでいます。
これは、後の雨で予表される聖霊が下る日の予言であり、その日、聖霊により多くの人が熱狂的に
主を賛美するでしょう。

しかし、何度もいうようですが、この日は決して長くは続かないと聖書が述べていることを覚えて下さい。必ずききんの時は来、迫害の時、試みの時、大洪水の日は来るのです。
その洪水に耐えて残る終末の日のノア、ロトの歩みにみこころがあることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー