NO.336バラム

 

 

テキスト:民数記22:18 しかしバラム(民ではない)はバラク(荒らす者)の家臣たちに答えて言った。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。
19 それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」
20 その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行なえ。」
21 朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。
22 しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。
23 ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。
24 しかし主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていた。
25 ろばは主の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、彼はまた、ろばを打った。
26 主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立った。
27 ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。
28 すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」
29 バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」
30 ろばはバラムに言った。「私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」彼は答えた。「いや、なかった。」
31 そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
32 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。
33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」”

本日は「バラム(2)」としてこの預言者に関する教えを見ていきましょう。

終末の日の預言者、今の時代の教師の陥りやすい誤りは、「バラム」の歩みの中に示されています。
このことを見ていきたいと思うのです。

順に見ます。

18 しかしバラムはバラクの家臣たちに答えて言った。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。”

「銀や金の満ちた彼の家」とは暗示的なことばです。
金銀は、信仰に比せられることの多いことばです。ですから、これは、信仰者に満ちた、すなわち
信者がいっぱいいる教会を与えてくれるという申し出かもしれません。今でいえば、
大教会の牧師として、招聘されるという申し出があったというようなことに比べられるかもしれません。

「私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。」とのバラムのことばは良いのですが、しかし、問題は、彼の行いです。

”19 それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」”

一度主のことばがあったのに、再度、「主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」という彼の態度はもう既に彼の行いであり、彼の本心、本音を表しています。
「主は心を見る」ことを忘れてはいけません。
この時、この預言者バラムに対して、彼の真価を問う試み、試験、テストが行われたことを知るべきです。
そして残念ながら、彼はこの試験の中で彼の本当の心をさらけだしてしまい、
彼が神のことばに忠実でないことが明らかになってしまいました。

あまり今の教会ではいわれないことですが、しかし、主はそのしもべを試し、試験を行い、彼の真の心をみきわめる方であることを我々はしらなければなりません。エデンの園はその試験の時の一つであり、
神のことばを受けたアダム、エバに対して蛇を介した試験が許されました。
試された時、エバは「見るによく食べるによく、賢くなる」ことを「神のことば」より、優先する
彼女の心を明らかにしてしまい、彼女の真実ははっきりした形であらわれてしまったのです。

”20 その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行なえ。」”

この時、何故神がこのようにいわれたのかは、不明です。何故なら、神はそのすぐ前にこういわれたからです。

”12 神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」”

すでに「いっしょに行ってはいけない」と明確に主はいわれているのです。

21 朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。
22 しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。”

バラムは、出かけました。彼のこの行動は主のことばより、金銀に満ちた家を本心では望んでいたことを
表しています。だからこそ、「彼が出かけると、神の怒りが燃え上が」ったのでしょう。そして、「主の使いが彼に敵対して道に立ちふさが」りました。だから、私達が主のいわれた道ではない、そうでない道を歩もう、行こうとすると、主の使いが道をふさぐということを覚えましょう。

私達がまっすぐな道と思っていたものが、実は神の思いと離れており、その結果、道が塞がれるということはありえるのです。私達は自分のなそうとしていたこと、計画していたことがとどめられた時、
「主の使い」がとどめていることがあることを知りましょう。
 
 


23 ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。”
 

ここで「ろばは...見た」ことが書かれています。逆に預言者であるはずのバラムは見ていません。
バラムの意図に反して、「ろばは道からそれて畑の中に行」ったのですが、それは、ろばが危険を見たからです。しかし、何も見ていないバラムはろばに対して怒りを発しました。
私達の歩みが時々、我々の意図に反してうまく行かなかったり、とどめられたりするのは、実は「目の開かれたお方」ろばで象徴される方が身をめぐらしているのですが、しかし、我々は自身が
盲目であるにもかかわらずこの方に怒りを発しやすい者たちであることを知りましょう。

”24 しかし主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていた。
25 ろばは主の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、彼はまた、ろばを打った。”

狭い道に剣を持った主の使いが立っているのを見たので、ろばは、それを避けるため、いわば自分がのせているバラムの命を救うために、その道の端によったのです。
もしそうしなければ彼、バラムの命が危なかったのです。ろばは、最善の道、方法を選び、バラムの命を救ったのですが、何も見ていないバラムが怒りを発し、またろばを打ちました。

盲目な預言者、何も見ていない預言者は、自分を運ぶろば、命を救ったろばを逆にたたいているのです。
バラムは「ろばが自分のいうことを聞かず、足を押し付けた」という見える現象しか、理解できなかったのです。彼は自分の目の見えない世界で起きていることを全く理解していませんでした。まことに彼は愚かな預言者ですが、しかし、私達も実は盲目であり、このようにろばを打ちやすいものであることを知らなければなりません。

「神様は私の道を開いてくれない、それどころか、こんなトラブルまで起こすなんて」等、
何も見ないで、文句をいいやすいのです。

26 主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立った。
27 ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。”

さらにバラムはろばを行かせようとしたのですが、「主の使いは、..右にも左にもよける余地のない狭い所に立った」のです。
もうよける余地がない、まっすぐ進むなら、乗っているバラムの命が危ないので、それで、ろばは
歩みをそこでとどめてうずくまってしまったのです。すなわち、もうこれ以上行かないようにしたのです。
回避ができないので停止しか、命を救う道はなかったのです。これは、目の見えるろばにとって、また見えない霊の世界においては、このこと、停止、働きをとどめることが、この時は「最善の選択」だったのですが、しかし、見えないバラムはまたも自分の命を助けてくれるろばを怒り、たたきました。

彼には、「ろばが自分の行きたいところへ行かず、それどころか、もう一歩も動こうとしない」という見えることがらしか理解できなかったのです。
彼は霊の世界、また神の前における現実を理解しませんでした。
彼の言い分、怒りは、「見える世界」においては、「十分根拠のあるもの」のように思えます。
「ろばが動かないのだからたたいて当然だ」、しかし、神の前の真理からは遠く離れており、全く真実を見ていません。

同じことが我々にもあり得ることをしりましょう。
「神様は何もなしてくれない。」「この計画は祈っているのに何もすすまない」、
しかし、ろばがとどまるのには何か理由があることを知りましょう。

”28 すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」”
 

この時、ろばが口を開きました。
ペテロの手紙には、「ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。」と書かれています。

ですから、我々が道を誤る時、主は
1.間違った道をとどめることにより、我々を制しまた、
さらに
2.人の声で語ることによりとどめることがわかります。

ですから、我々は自分の行こうと欲した道がとどめられる時、主のストップが来ていないか再考する必要があり、まして「人の声を通して」語られた時は、さらに考える必要があることがわかります。
 

”29 バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」”

このように自分には、命の危険があり、それをろばが回避してくれたのですが、バラムには、
そのろばの行動は自分をばかにしたとしか思えなかったようです。まことに見えないということは恐ろしいことです。

30 ろばはバラムに言った。「私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」彼は答えた。「いや、なかった。」”

自分の上に乗っているバラムに対して、このようなことをかつてバラムのろばはしませんでした。しかし、今はそうしたのです。それは今が尋常ではない時、彼に命の危険が押し迫っている時だからです。
同じように聖霊も我々が尋常でない道に過って進む時は、私達に介入します。このお方こそ唯一「見える方」であることをしるべきです。

”31 そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。”

この時、主が目のおおいを取り除いたので、バラムは霊の世界、見えない世界における真実を見ることができました。全て「見る目」は神により与えられることを知りましょう。
この主の使いは剣を持っていました。主の道と別の道を行こうとしていた預言者はこの剣で切り殺されそうになったのです。

このことは暗示的です。剣は御霊の剣、すなわち神のみことばと書かれているように、
みことばのたとえです。主の語られた道から外れた預言者、教師は皆、剣すなわち、惑わしの教理、解釈に倒されて、刺されていくことを知るべきです。

マリヤ崇拝、法皇崇拝にうつつを抜かしているカトリックの人々はついに、進化論まで受け入れ、
(カトリックの学校では進化論が教えられている!)このように非科学的な嘘話に倒されていきます。

また神を信じようとしない人々は、キリストは奇跡も行わず、復活もしなかったなどという、
とんでも教理に倒されていきます。彼等はみな神が示された道を外れていくために、このことばのように主の使いの手にある「剣」で倒されていくのです。

32 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。”

「敵対して出てきたのはわたしだったのだ」、すなわち、神御自身がとどめていたので、
この道が開かれなかったことが語られています。
また、「あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。」と書かれています。
ですから、良く見える道、また多くの信者を獲得できる道であっても実は、神の道と全く反対の道があることがわかるのです。

今、多くの人は神の道についてあまり語らなくなったようです。
しかし、これらの記事は、私達の目の前に置かれているはっきりとした「神の道」があることを明確にしめします。私達がこの道をいくなら祝福を得ますが、そうでなく、反対の道を行くなら、着くべきところに着かず、祝福を得ません。
バラムという名前の意味は「民ではない」という意味です。
このような「不義の報酬を愛する道」は、結局その人を民、すなわち、神の民と定めた範疇から外れ、
何と「民ではない」と神により宣言されてしまうことを覚えましょう。

33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」

「ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。」と書かれています。
ですから、我々を運ぶ方、聖霊なる方のみこの世界で、唯一、「見ることのできる方」であることを知りましょう。バラムに限らず、我々の目は限られたことしか見ていないのです。

この方のされることが、「目の見えない我々」にとっては、意図が不可解、理解不能であっても、
また、我々の願いや、欲っしない道をこの方が行くとしても実は、それは我々を神の裁きから免れさせるためであることを知りましょう。

もし、私達がそれでも強いて自分の考えや、欲する道を選ぼうとするなら、「わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」
と迄、語られていることを知りましょう。

多くの人がかたくなな道を歩み、すでに「剣」の犠牲となっています。
この方を恐れましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー