NO.335 バラム


テキスト:”黙示録2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。”

本日は「バラム」と、いう題でメッセージしたいと思います。
未来の教会に対する警告を記した黙示録、7つの教会への書簡の中には、バラムに関連した
警告が記されています。上記テキストに書かれた通りです。

これを見ると、教会において起きて来る「バラムの教え」について聖書が預言、警告していることがわかります。「あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。」と聖書は語ります。ですから、この「バラムの教え」は必ず、教会の中に起きてくる、警戒せねばならない教えであることを知りましょう。
彼の問題は、「イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた」ことです。

イスラエルは神に愛された中央の民です。彼等をつまずかせるバラムのような預言者、教師は、必ず教会の中に起きてくるのです。

さて、同じバラムに関する他の箇所を見ていきましょう。

”2ペテロ2:14 その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。
15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオル(燃やす)の子バラム(民ではない)の道に従ったのです。
16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。
17 この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。”

順に見ます。

14 その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。”

終末の日の大きな誘惑は、我々を襲うこの世の欲です。「目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知ら」ない人は裁きの危険があることを知って下さい。

この世や誘惑や罪に満ちており、私達の周りには、テレビ、映画、雑誌等多くの誘惑があることは
誰でも知っていることです。ロト、ノアの時代も同じような時代だったことを知りましょう。
そして終末の日は、ノア、ロト日のようであり、「罪に関しては飽くことを知ら」ない愚かな人は
滅ぼされることを覚えましょう。

「神は愛である」(だからもっと罪を犯せ?)かもしれませんが、もうすでに70週(70の7=7度を70倍)も過ぎ去ろうとしていることを覚えましょう。
 

”15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。”

民数記を見ると、バラムが心ひかれたのは、「銀や金の満ちたバラクの家」です。これは何を意味するのでしょう。家は教会であり、金銀はその家の宝、今で言えば、神の前で価値ある信仰(金銀)のある
信者です。ですから、銀や金の満ちた家とは信者がたくさんいる繁盛した教会のたとえかもしれません。

預言者、すなわち今の牧師としての人情は、誰でも信者の多い教会で説教したいとは思うものですが、
しかし、「正しい道を捨て」「不義の報酬を愛し」てまで人数を増やそうと思ってはいけないのです。
「艱難の前には挙げられるから大丈夫」と説教している間はにこにこして聞いている信者も「実は
我々は艱難時代を通過します」などと聖書通りのことをいえば青くなってしまい、そんなことをいうメッセンジャー
の評判も悪くなるかもしれません。

しかし御言とぶつかる教理を語ってまで、信者を増やすことがみ心とは思えません。逆にそのようにして、得られる良い評判こそ、「不義の報酬」ではないでしょうか。
また「正しい道を捨て」ていることではないでしょうか。バラムの教訓は単に昔話ではなく、
今の時代の「教師」にあてた教訓であることを知るべきです。バラムという名前は「民ではない」という意味のようですが、このような道を歩むとき、神の前に「民ではない」とみなされてしまいます。

16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。”

このようにバラムにしても今の我々にしても自分では正しいと思っても結構間違えてしまうものです。
しかし、神様のすばらしいことは、そんな我々に間違えを気付かせて下さることです。

この時はろばが声を発し、この預言者の間違えをとがめました。
「ろばが間違えを教えてくれるのか。しかし、私は自動車には乗っているが、ろばには乗っていないし、
そもそも家にはろばを飼っていないので、間違いをただしてもらえないな」という人もいるかも知れません。

度々、今の神学でいわれる「そのまま文字通り読む」「霊的解釈をしない」ということなら、そう考えるしかないのですが、しかしこれはたとえだということを知りましょう。

私は「ろば」は聖霊のたとえではないのかと思っています。
聖霊は今の時代のクリスチャンにとって、もっとも大切な存在なので、聖書にはそれこそ、
ありとあらゆる種類の聖霊に関するたとえがあります。

いわく、火、水、ぶどう酒等です。火は全焼の捧げものを焼き付くす火として表現されており、
「クリスチャンの肉を焼き付くす方」としての聖霊のたとえと思われます。
また、聖霊は水にたとえられます。これは、主がペテロの足を洗う物語からも理解できるように、
我らの罪を浄め洗う方としての聖霊のたとえです。我々は歩み、信仰の歩みにともない、どうしても
足がけがれるものです。この世を歩けば必ず汚れがついてしまうものなのです。

「完全なきよめ」「第2の恵み」などという非聖書的な教えに騙されてはいけません。
もし、ペテロのように「私の足は洗わないで下さい」(私は全くきよめられています、完全なきよめをいただいています)というなら、主に「あなたと私とは何の関係もない」といわれてしまうのです。

サンダルで砂浜を歩けばどんなに気をつけても砂や泥が足につくものです。
泥や砂は望ましくはありませんが、しかし、どうしても汚れてしまうものを「私の足はもう2度と汚れない」などと強く心に念じてもきれいになるものではありません。神経衰弱になるのがおちです。
素直にその度その度、主の水(聖霊)により浄めていただくのが、しかるべきクリスチャン生活というものです。世迷いごとを述べた異端まがいの教理にだまされてはいけません。

また、聖霊は酒、ぶどう酒にたとえられます。お酒を飲むとほがらかになったり、歌が出て陽気になりますが、聖霊の「こころを強める」働きをこれは述べているのでしょうか。
 

さて、聖霊は、「ろば」等の乗り物にたとえられるのではとこれは私の個人的な意見ですが、
そのように思っています。聖霊は私達を「運ぶ」方です。
たとえば、私がヨーロッパへ行きたいと思ってもいくら何でも歩いてはいけません。
たとえ陸続きだとしても第一体力が持たないし、道だってわからないのです。ですから、私には
私を運んでくれる飛行機なり船が必要です。これらの「乗り物」があって、始めて私は
それらの遠い地へ行くことができます。このようにこれらの乗り物は「私が行きたいけれど行けない場所」へ私達を運んでくれます。また、重い荷物も一緒に運んでくれます。
「ろば」もこれと同じ意味あいでの「乗り物」を意味するのではと私は思っています。
ろばが目的地まで、人を運ぶように、聖霊なる方も我々が名前だけは聞いているが、どのようにしてそこに辿り着けばよいのかかいもく見当がつかない「御国」へと我らを運んでくれます。
私達がこの聖霊なる方の声に聞き従うとき、そこまで、我々を連れていって下さるのです。
また、我々のこの世における重荷をもともに運んでくれます。「全て重荷を負って..私のもとへ来なさい」と書かれている通りです。

”ろばが、..、この預言者の気違いざたをはばんだのです。”

また、我々を運ぶ方である聖霊は、我々の「気違いざた」、大間違いをただし、教える方であることを知りましょう。
我々は誰も「自分は気違いざたを起こそう」と志してはいないのですが、しかし結果として、よく間違えたりとんでもないことをしでかしてしまうものなのです。
その時、父である方は、我々に叱責や、注意、訓戒を与えられます。
箴言に書かれているように、「訓戒を心によめる」者は幸いです。
 

”ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。”

ここで、「ろば」はものをいうことがないと書かれています。
普通ろばは人間としゃべりません。オウム、九官鳥とはことばを交わせるかもしれませんが、
ろばとは我々は普通会話をしないのです。

おなじように我々を運ぶ方、聖霊は普通、我々とことばで会話をすることはしません。
電話をとったら、向こうで友だちや母親の声が聞こえるということはあっても、向こうから、「聖霊」の声が聞こえるということはあまりないのです。
しかし、このものをいわないろばは「人間の声でものを」言ったことが書かれています。
これはついでながらどういった意味なのでしょう。

私にはこうとれます。ものをいうことのない「聖霊」なる方が語る方法があり、
その一つは、「人間の声」を通すと言う方法である、そのことを言っているのではないかと思えます。

ですから、私達は人の声にはよく注意した方が良いのでしょう。思いもかけない人、方法を通して、実は「ものをいわない方」聖霊が語られていることがあり得るからです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー