NO.333 ダニエル書と黙示録


テキスト:”ペテロの手紙第二 1:19 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。”

本日は、「ダニエル書と黙示録」という題でメッセージしたいと思います。
この2つの書は、終末に起きるできごとに関して、若干記述が異なるように見える ことを見ていきたいと思います。
もちろん、どちらも、同じ聖書の中の書なので、本当は矛盾があるはずはないのですが、
「そのように見える」ことも事実なのです。

本日はそのことを見ていきたいと思います。

まず私達が黙示録を解釈しようと志す 時、その一番始めに気をつけなければならないことは、上記、
「私的解釈」と訳されたことば、具体的には、「そのテキストのみから解釈しない」ことです。
これは大原則なのです。何故なら、聖書は、「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。」として、私的解釈(その箇所のみから解釈)しないことを強調しているからです。

それで、私達は、このことを知ります。すなわち、終末に起きるできごとを「解釈する時」、
たとえば、黙示録の記述のみからは決して「結論」をだしてはいけないということです。
逆に他の箇所、たとえば、ダニエル書等からも「2重3重の確認」が必要だということなのです。

聖書はそのように私的解釈(そのテキストのみからの解釈)を厳に戒めているのですが、
現状はどうでしょうか。残念ながら、多くの解釈者が「私的解釈」に走っているように思えます。

たとえば、千年王国という考えは、黙示録のみにしか記述されていない、ダニエル書等には、全く記されていない、「要チェック」のことがらなのですが、それを忘れて、
「当然千年王国はある」といった論調が多いのです。

それから、もう一つ記憶しておかなければならないことがらは、黙示録の巻き物、すなわち
啓示のことばは、「7つの封印」で閉じられているということです。
それに比べて、たとえば、ダニエルへ語られていることばも「封じておけ」というように
封印されているのですが、しかし、その場合、ダニエルに対して、「7つの封印で封じろ」とは語 られていないことを記憶すべきです。
何をいっているのでしょうか?要するに、「一つの封印」よりも「7つの封印」の方が開いたり、解いたり、解釈するのが難しいということを言っているのです。

神が7つの封印でこの書、黙示録が閉じられているという時、我々は真面目にその通りにこの書に関して受け取らなければなりません。
あたり前のことですが、一つの鍵で封じられているドアより、7つの鍵で封じられているドアの方が開くのが難しいのです。

空き巣に入ろうと思っても7つも鍵を使われていたのでは、侵入はなかなか難しいのです。

神がこの巻き物(預言のことば)が7つの封印で封じられているというなら、そのように我々はこの書に関して受け止めなければなりません。
簡単にいえば、この書は他の封印で封じられた書より7倍も難しいのです。

しかし、多くの人はそんなことを顧みないのか自分の力を過信しているのか、無謀にもこの書、黙示録のみから解釈し、そして討ち死にしていくように思えます。

さて、この書がこのように他の書よりも7倍も難しい、非常に難解な書だとして、その書のわなにかからず、正しく預言を解釈するにはどうすればよいのでしょうか?

私が思うには、賢い方法は、無理に難解な書のみから考えず、他の易しい道から、ゴールを目指すと言う方法です。私達は黙示録やダニエル書を読んで知的ゲームを楽しんだり、推理小説の推理を楽しんだり、はたまたSF空想科学をエンジョイしようと思っているわけではありません。
あくまで、終末がどのような時代になるのか、正しい知識を得たいと思って、それを願って、
この書を学んでいるのです。

一つの家があり、その家の玄関のドアに7つの鍵がかかっていたらどうすればいいのでしょう?
そのドアの7つの鍵を一つづつ、開いていく、苦労して開錠するという方法があります。
しかし、もっと簡単な方法があって、それは、一つしか鍵のかかっていない裏口の別のドアをねらうという方法です。

家の中にとりあえず入ることが目標なら、簡単な鍵をねらうのが一番です。あえて難しいことを最初にねらう必要はありません。
間違いもないし、時間も手間もかからないのです。
 

同じことが黙示録とダニエル書の比較に関してもいえます。とりあえず終末に起きるできごとの
全体像をつかむことが目的なら、比較的とりかかりのつきやすい箇所、理解しやすい箇所、
誤解のなさそうな箇所から始めることがベストなのです。

何故なら、私達はここで「知的ゲーム」をしようとしているのではなく、真剣に終末の日の救いを
求めているからです。

一つ理解しなければならないことは、終末の日に起きるできごとに関して黙示録もダニエル書も
そして福音書の終末の記事も、皆同じことがらを記していると言うことです。
結論は同じ、答えは同じになるはずだということです。
聖書の著者はお一人、神のみであり、その方がそれぞれの書を書いている以上、
同じ終末に関して、違うことが起きるはずはないのです。

そもそも同じ時期、同じ期間をこれらの異なる書が記している以上、基本的に同じことがらが起き、
同じ順番で起きなければおかしいのです。これは大原則です。覚えておいて下さい。

この線、「終末には同じことがらが起きるはず」という原則に立つと、多くの人々がいう「黙示録の解釈、終末に起きることの順番」には、矛盾があることがわかります。何故なら、これらの黙示録の 解釈者は、ダニエル書や福音書の終末の記事等の「平行記事」が決して記していないことがらが終末に起きると声高に主張しているからです。

すなわち、千年王国とか、ロシア(ゴグ?)のイスラエル国への攻撃、メギドにおける世界最終戦争(ハルマゲドン)等です。
この件に関しては別途見ます。

聖書は神が著者であると公言している唯一の書ですから、当然その中のそれぞれの書、黙示録、ダニエル書等の個々の書の間には矛盾はありません。もし、あるように見えるなら、実は解釈する方、読む方が正しく読んでいないのです。このことを知りましょう。

聖書の個々の書の間には、矛盾がありません。福音書は4つありますが、それぞれの記述には矛盾がないのです。マタイでは、イエスの父親の名前がヨセフであり、マルコでは、それがモーセだったりという矛盾はないのです。また、例えば、イスラエル、ユダの歴史を記した書として列王上下、歴代上下と全4巻ありますが、それぞれの記述には、矛盾はありません。
また、これらの記述は、歴史的なできごとと合致します。これらの調和、矛盾のなさは、他の種類の書と比べるなら、たとえば、仏教の各仏典の調和性と比べてみるなら驚くべきものであることがわかります。

さて、このように聖書の各書はそれぞれ矛盾のないものなのですから、終末の預言に関してもダニエル書、福音書の終末の記述、また黙示録と書名は異なっても実は同じことがら、項目、順番について記してあることを再度いいますが、覚えて下さい。

そしてもし、これらの間に矛盾があるように見えるなら、
実は、読んだり、解釈する我々の方に誤りがあるのです。
これらの原則を視野に入れて上記テキストを見ていきましょう。

19 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。”

さらに確かな未来、終末を知る方法として、「預言のみことば」について語られています。
ですから、私達が「終末に関する預言のことば」から未来を知ると言うことはよいことです。
しかし、そのように大事な「預言」であるために、あらゆる種類のガセネタ、異端的解釈が
教会に注ぎ込まれていることをも知りましょう。

夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。”

「暗いところ」にいる時、我々は先に何があるのか、何が待っているのかを知ることはできません。今は暗い時代であり、未来や終末に関して光が閉ざされている時代です。

20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。”

ここに書かれていることは、預言解釈に関する最大注意事項、もっとも気をつけなければならないことです。それは何かと言えば、「私的解釈」、すなわち、そのテキストのみからの解釈です。要するに他の箇所を参照しつつ解釈せよということを言っているのです。このことに関して聖書は「預言解釈」と附随して特別に注意を促していることをとらえて下さい。

ですから、一般原則として、「黙示録のみからしか出てこない解釈、結論」には気をつけなければならないのです。他の終末に関する箇所、たとえば、ダニエル書、福音書の終末の記事には全く出てこないことがら、またはそれらと矛盾する「黙示録の解釈」は注意が必要、要チェック、吟味が必要なのです。

”21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。”

ここには、「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではな」いことが書かれています。
ですから、黙示録を書いた著者もダニエル書を書いた著者もいるが、しかし真の著者は実はただひとり、神御自身なのです。だからこそ、ここに「聖霊に動かされた人たち」というように複数形が使われているのです。
聖書には、66巻の書があり、多くの人間の著者がいますが、真の著者は神お一人なので、
それぞれの書には整合性があるのです。

その整合性と合致しない教え、すなわち「千年王国の教理」、「新天新地の教理」等、黙示録のみからしか出てこない終末の教理は要チェック、警戒が必要なのです。
私は教理のことをいっています。「千年の間、キリストとともに王となる」との記述が確かに
黙示録にあるのは、確かですが、それをもとに「文字とおり1000年の王国がある」と主張することを
「千年王国の教理」と呼びます。
 

多くの終末に関するおかしな教理は黙示録を、いや黙示録のみを根拠に起こされます。
聖書が厳に戒めている私的解釈をしているのです。これらの教理はいかに教会内で広く受け入れられていようといまいと再度吟味、再確認をされるべきです。

また黙示録のみを根拠にまことしやかに教えられる「終末に起きるできごと」の表を盲信してはいけないと思われます。すなわち、まず7つの封印の期間があり、7つのラッパの時があり、それから、7つの杯の時、その後、ハルマゲドン、千年王国、新天新地があってというようなよく「まことしやか」に教えられる例の表のことをいっているのです。

何故なら、ダニエル書にしてもまた福音書にしても黙示録以外の終末について語られている書物からは、そんなタイムテーブルは決して作り得ないからです。この表は黙示録のみを根拠にしている、すなわち、私的解釈の結果、出てきたものなのです。
ダニエル書また、福音書の終末に関する記述は非常にシンプル、そして分かりやすいものです。

いわく、
1. 終末に獣の国が起きてくること。

2.獣の国の支配の下で、主につく聖徒の迫害がある。

3.しかし最後に主の直接介入があり、この獣の国は滅ぼされる。

4.キリストの国が建てられ、主につく人はそこに入る。その国は永遠に続く。

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これだけです。もし、我々が黙示録を読んで上記の結論、他の書と同じような「終末に関する順番」を読み取ることができたら、我々は正解を見い出した可能性が高いです。しかし、全然違う結論に導かれたのなら、
実は「迷路に入ってしまった」「ひっかけ問題にだまされた」可能性が強いのです。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
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