NO.329 終末の2つの教会(3)

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黙示3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
13 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』”

かつて主が、「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来」るといわれた時、明らかに、今迄と異なる神の民の区分について語られたのではないでしょうか。
この山とは、サマリヤの山であり、今で言うカトリック教会に相当します。
また、エルサレムとは、今のプロテスタントの教会に相当します
この当時の人々にとって、全ての神の民は、北イスラエルの國、及びユダ国のどちらかに
分けられる、それ以外の分類はありえないし、考えることもできなかったのです。
 

「ヨハネ4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」

しかし、主はわざわざ「わたしの言うことを信じなさい。」とまでことばを付け加えて、
新しい神の民の区分、真の礼拝者とそうでないものとの区分について語ったのです。
この区分、「真の礼拝者」かどうか、その区分こそ、神が来にかけ大事にしていたポイントであることば察せられるのです。

ですから、全ての神の民は知らなければなりません。
主は私達が「カソリックの教えに忠実な者であるかどうか」には、あまり関心をもっておられず(何故なら、この教会の中には、法皇、マリヤ崇拝をはじめ、あらゆる誤りが満ちているからです)、
ただ、その人が「霊とまこと」、すなわち、聖霊による礼拝をしているか、そして、偽りの教理に従わず、まこと、すなわち聖書の真理に従った歩みをしているかに多大な関心をもっておられることを。
また、福音派、聖霊派、長老派その他のプロテスタントのどこに属しているのかということでなく、
その人が「霊とまこと」による礼拝をしているかどうかに関心をもっておられることを知るべきなのです。
 

また、明らかに神はこの2種類の教会のどこに属しているかということで、神の民の
線引きをしようとされていることを知りましょう。
かつての旧約の日において、自分は北イスラエルまたはユダの国のどちらに属しているかを知らない人はいませんでした。全ての民はどちらかに分類され、自分がどちらに属しているかを知らない人など誰もいなかったのです。また、今日、自分がカソリック、プロテスタントどちらに属しているかを知らない神の民はありません。全てのクリスチャンは、「私はカソリックです」というように、自分がどちらに属しているのかを知っています。
これは、自分でもまた他人にもわかる明白な区分なのです。

同じ意味あいで、主のいわれた「真の礼拝者」かどうかという区分も
人の前にどうかはともかく、神の前には非常に明白なものであることを知りましょう。
全ての神の民はどちらかに分類されるのです。

さて、黙示録の中に7つの教会が記されていることは、誰でも知っていることです。
そして、この7つの教会の中で、終末まで残る教会は、後半の4つの教会、すなわちテアテラ、サルデス、フイラデルフイア、ラオデキヤの4つの教会であろうと研究者は述べています。
その理由は、この4つの教会には、「わたしは、すぐに来る。」というような再臨に関することばが記されているからです。前の3つの教会にはありません。

ですから、再臨を前にした終末の今の時代には、この4つの教会が存在しているはずなのです。
これらの4つの教会は平行して存在します。
さて、これらの理解に基づき、終末の2つの教会、フイラデルフイア、ラオデキヤについて見ていきましょう。順に見ます。

”7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。”

さて、終末に対照的な2つの教会があることを述べましたが、その一つは、フイラデルフイア、
兄弟愛の教会です。この教会の名前は何を意味しているのでしょうか?

兄弟間相互の愛などという、親睦会みたいな意味ではなく、我々にとって唯一の兄弟、
キリストへの愛を全うした教会、そんな意味あいがあるのではないかと思っています。「我らもその兄弟のために命を捨つべきなり」と聖書は、我々の唯一の兄弟、キリストのために命を捨てることを語っていいますが、それを実践している、すなわち、殉教の匂いのする教会がフイラデルフイアなのです。
兄弟の立場に立つとか、中間階級を排除するとか、共産主義みたいなことば言っている教会をさすとは、私は思っていません。

「聖なる方、真実な方」

この教会に対して、キリストが聖なる方であり、真実な方であることが語られています。
何故か?それは、この教会こそ、聖なる教会、この世の汚れ、あらゆる偽りから抜け出た存在だからです。神のみこころはこの教会にこそあります。また、この教会こそ、真実、真理に基づいた教会です。
これは、例のサマリヤの女に主の語られたことば、「霊とまこと(真実)による礼拝」とのことばと
一致します。この教会においてこそ、「霊とまこと(真実)による礼拝」が復活するのです。

”ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。”

かぎに関する意味あいは、主が律法学者に語られた「知識のかぎを持ち去り、入らせようとしない」とのことばから理解できます。閉じられた知識や啓示と関連しているのです。ですから、この教会においてこそ、正しい聖書の知識、啓示が回復します。

「ダビデのかぎ」とはどんな意味あいなのでしょう?ダビデは受膏者として有名です。
ですから、油、聖霊により知識、啓示を開くというニュンアスをさすのかもしれません。

”8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。”

「わたしは、あなたの行ないを知っている。」「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」とのことばは明らかに「行い」に関することばです。
そして、主はこの教会の行いをほめています。
真の礼拝者達の教会、フイラデルフイアにおいては、「みことばを行う」ことが復活することを知るべきです。

また、この教会においては、「わたしのことばを守り」とのことばのように、「神のみことばを守る」ことが起こされます。
今は、クリスチャンが色々理屈をつけてみことばを守らない時代ですが、しかし、この教会において、「ことばを守る」ことが復活します。

”9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。”

さて、この教会においてこそ、「ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」達との戦いがあります。
7つの教会の中で、もっともすばらしい主のみこころに沿っていると多くの研究者が口をそろえていう、フイラデルフイア、スミルナこの2つの教会においてのみ、「ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」に関する記述があることは暗示的です。

何故でしょう?その理由はこの2つの教会としか、彼等「ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」が
接触、妨害をもたないからではありません。そうではなく、どの教会も彼等の偽りの教え、
霊に影響され、妨害されるのですが、しかし、「対抗する」ことができないからでしょう。

たとえば、テアテラには、彼等、「ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」がしかけた多くの偽りの教えがあります。進化論は科学的だの、マリヤに祈りましょうとか、地獄はないとかの教えがあるのですが、
悲しいことには、彼等テアテラの人々は、彼等「ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」の敵ではありません。
一方的にやられて、相手にはならないのです。

同じことは、サルデス、すなわちプロテスタントの教会にもいえるかもしれません。彼等のうちには、獣のリバイバルの霊、また空想話である、2段階携挙説等、あらゆる「ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」達のしかけた偽りの教え、怪しい霊があるのですが、彼等はそれに気付きません。かえって、自分達こそ、命にあふれていると誤解しています。

しかし、聖書は彼等を「生きているとされているが、実は死んでいる」と明言しています。
彼等はキリスト教会に入り込んだ蛇のような偽教師、「ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」の
甘言にだまされ、堕落させられた者であり、真実の命からは遠く離れた者達です。
彼等も、キャサリンクールマン、ベニーヒン、ビリーグラハム、ビルブライト等の「ユダヤ人だと自称する悪魔礼拝者」を盲信、盲従する者であっても、彼等の偽りをあばくことのできる目は持っていません。要するに彼等の敵ではないのです。

テアテラもサルデスも基本的には、彼等の偽りを見抜くことのできない盲目の教会なのです。
その点で、フイラデルフイアとは異なるのです。
 
 

「見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」とのことばは、この終末の時代において、重要な、非常に重要なことがらであることを知るべきです。
何故なら、教会の歴史とは、「悪魔礼拝者に愚ろうされ、侵入され続けた歴史」だからです。
悪魔礼拝者の巧妙な偽りのため、教会の中には、あらゆる種類の誤った教え、神からのものではない
霊に満ちるようになってしまいました。

クリスマスは、異教的な起原を持ち、イースターも異教的な偶像、アシュタロテに起原があると
研究者は述べます。このような異教の教えが教会内に堂々と持ち込まれるようになったのです。
これらのことが許されたその理由は、この教会の不信にあります。

「彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ」とは、要するに、悪魔礼拝者達の働き、試み、偽りが、
このフイラデルフイア教会において、壊滅させられ、暴露され、また、倒されてしまうのでしょう。
永年の間、偽りにだまされていた教会はその日、これらの偽りをもちこむ人々に勝利することができるようになります。

この日は、また蛇と女の戦いの最終決着がつく日でもあります。
蛇は、知恵をもって女、教会を惑わす悪魔であり、また具体的には、黙示録7つの教会で
語られているユタヤ人だと嘘をついている「悪魔」礼拝者達のことです。
エバが蛇の知恵に対抗することができず、偽りにうまうまとだまされ、命の木から
引き離され、永遠の命を失ったように、教会と蛇、すなわち悪魔礼拝者達との戦いの緒戦は、残念ながら、蛇の勝ちでした。蛇は勝利し、女はだまされ、エデンの園から追い出され、命の木、すなわち永遠の
命の木から引き離されるようになったのです。
しかし、神はこの女のすえ、すなわち子孫に対して、「蛇の頭を砕く」、すなわち悪魔の働きに
壊滅的な敗北を与えると預言されたのです。

このことは、イエスの時代、主イエスを通して、成就しました。そしてこのことは、終末の日、黙示録12章の勝利者を通して最終的に成就します。
 

このフイラデルフイアの兄弟達の勝利の別の表現は、下記黙示録12章における兄弟の勝利です。

”黙示12:7 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
8 勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。”

この日、蛇の働き、彼等悪魔礼拝者が持ち込んだ偽りは、真の教会から一掃されてしまうのです。
 
 

ですから、もし私達が、日本の教会において、この「教会に入り込んだ悪魔礼拝者達の偽り、働き、
惑わし」を告発、反対する人々を見ることができるなら、かねてから預言されていたあの働き、「フイラデルフイアの働き」がもう既に始まりつつあるのだということを知らねばなりません。

フイラデルフイアの勝利は、「ユタヤ人だと自称する悪魔礼拝者に対する勝利」と密接に関連しているよに見えます。そして確かにこれらは関係しているのです。
彼等に勝つ者はフイラデルフイアでいう勝利者であり、彼等にだまされる人々、もしくはいまだに
だまされていることすら気付かない人々は、勝利者では決してありません。

ですから、この終末の時代に彼等をみぬくことのできない人々は、神の前の勝利とは何の関係もなく、ただただ、「彼等にだまされ、偽られたゴミのような教理や悪霊のリバイバルを後生大事に抱える愚か者、敗北者」に過ぎないのです。

この蛇、黙示録で預言された「ユタヤ人だと嘘をついている悪魔礼拝者」達との戦いは、もうとっくの昔に始まっており、欧米においても「目の開かれた人々」「命を惜しまない勇士」は戦いに加わってきています。

さて、フイラデルフイアの教会は、このような教会、悪魔礼拝者が持ち込んだあらゆる教理、偽りに勝利する教会です、それゆえ、この教会が起きる時には、あらゆる教理、教え、霊の見直しが起きることを心得て下さい。

この日は神の前には輝かしい回復の日です。しかし、盲人達の目には、「異端がばっこする日」と見えるでしょう。しかし、この日見ることのできる目を持つ人は幸いです。「あなた方の目は見るゆえ、耳は聞くゆえに幸いだ」ということばはこの日成就するでしょう。
 

10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。”

ここには、この教会、フイラデルフイア教会が、終末の試練の中で守られることが書かれています。
終末には4つの教会が存在し、そのうち、3つの教会は、終末の試練の日をたえられるかどうか、
はなはだ怪しいことがわかります。
 

しかし、このフイラデルフイア教会は異なります。ですから主は終末の日に、この教会すなわち真の礼拝者を守られることを知りましょう。

11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。”

ここでは、主はこのフイラデルフイアの教会に関して、「すぐに来る」との励ましのことばを
与えています。そして、既に持っている「冠」を奪われないこと、しっかりと持っていることを
語っています。何故か?
それは、この教会が艱難を通り、そして、その中で、冠を取られてしまう可能性があるからです。
この教会が艱難を通らない、愚かな盲人がいうように、キリストの再臨が(聖書には書いていないが)二度もあって、艱難の前に既に挙げられ、主のそばにいるのなら、どうしてこのようなことばを書く必要があるのでしょうか?

夜道を一人で帰って来る娘には、「すぐ迎えにいくから」「気をつけてね」というものです。
しかし、そんなことばを家でくつろいでテレビを見ている娘にはいわないものです。
毋「すぐ迎えにいくから」
家にいる娘「えっ?何のこと。あたしここにいるよ」
毋「気をつけてね」
家にいる娘「えっ?何ていったの。この番組面白いね、ははは。」

こんな風に全くまともな会話にはなりません。
同じ意味あいでこれらのフイラデルフイアの教会への主のことばは、「艱難を通る教会への励まし」と見て始めて理解できることばであることを知りましょう。

「あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」とのことばは、要は現状維持しろ、
現在到達しているところから、ずらされるなとのことばです。
この教会こそ、神のみこころの教会、あるべき所にいる教会であることがわかります。

ですから、この教会こそ、聖書の中で度々預言されている回復の教会、復活の教会なのです。
この教会こそ、エズラ、ネヘミヤで預言されている回復された宮、都であり、黙示録で
新エルサレムとして語られている教会なのです。そして、それは、別の面からいえば、
かつて主が預言した「霊とまことによる」礼拝者の教会なのです。
 
 

”12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。”

この教会の上に「わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名」を書きしるすと書かれています。ですから、黙示録に記されている主の花嫁であるみこころの聖徒、新エルサレムの実体は別名、フイラデルフイアであることがわかります。そしてそれはまた別名、「霊とまこと」すなわち、
終末の日に真理に立ち返る教会のことです。
真理に立ち返ると言う以上、現在教会にまんえんしているあらゆる偽りの教義、2段階携挙説を始めとする偽りから自由になった教会であることがわかります。

そしてこの教会こそ、「父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」との
かつて語られた主のことばを成就する教会なのです。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー