NO.328 終末の2つの教会(2)

テキスト:
”ヘブル9:6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、
7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。
8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。”
 

本日は、「終末の2つの教会(2)」として、終末に起きる2種類の教会に関してもう少し見ていきたいと思います。

かつて主が「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」とサマリヤの女に言われた時、それは明らかに今迄にない教会の区分、種類に関していわれたのではないでしょうか。また、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。」と言われた時、主は明らかに「真の礼拝者たち」が起きるある特定の時に関して預言していたことがわかります。
本日はそのことをヘブル書を通してさらに見ていきたいと思うのです。
かつて主がヨハネの福音書でサマリヤの女に「父を礼拝する時」というように「礼拝」について
語られました。

さて、ヘブル書の中に2種類の礼拝が記述してある箇所があります。冒頭のテキストです。
この箇所は、この2種類の礼拝と似ていると思われます。
この箇所を順に見ていきましょう。

6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、”

前の幕屋とは第一の幕屋です。神に仕える場所、礼拝場所である、幕屋の構造を考えると、
それは、第一の幕屋と第2の幕屋から出来ています。
この2つの幕屋は2種類の礼拝を表しており、これらは対照的です。

「前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なう」

前の幕屋、すなわち第一の幕屋には、「祭司たちがいつもはいって礼拝を行な」います。
対照的に、第2の幕屋はそうではありません。ですから、
第2の幕屋こそ、かつて主が「今がその時です。」といわれた、終末の時にならなければ、
あらわれない特別な礼拝を表しているように思えます。
これは、「霊とまこと」をもって礼拝する、真の礼拝者に相当するのでしょう。
それに対して、前の幕屋(第一の幕屋)は、「前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なう」と記されているように、いつもある礼拝、「真の礼拝者」でない礼拝をさすと思われます。

”7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。”

第二の幕屋、またの名を至聖所は、「真の礼拝者」に相当するようです。
これは、「年に一度」というようにめったに行われない礼拝です。
この真の礼拝は、かつて一度、ペンテコステの時、行われました。
また、「そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。」と書かれています。
血は霊のたとえであり、「霊とまこと」による礼拝に関連しています。
真の礼拝は、血、すなわち、主の霊によるのです。

”8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。”

「前の幕屋」とは第一の幕屋のことであり、「まことの聖所」とは、第二の幕屋のことです。
すなわち、ここで言われているのは、「第一の幕屋が存在している限り、第二の幕屋への道は開かれない」
そういっているのです。
逆に終わりの時には、「第一の幕屋」は存在しなくなる、過ぎ去っていきます。
黙示録に「天地が過ぎ去る」記述があるのは、このことを示します。

”ヨハネの黙示録 21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。”

この黙示録の記述の中に「古い天地が過ぎ去る」記述とともに、「新しい天と新しい地」が出現が描かれています。これこそ、「前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていない」とのことばの成就です。

すなわち、第一の幕屋とのことばで表される古い礼拝、奉仕が堕落、変質し、その位置を外れ、存在しなくなり、過ぎ去る時がある。その時、第二の幕屋で象徴される、真の礼拝が起きてくる、そう
聖書は語っているのです。
もしかすると今がその時かもしれません。
教会が「天地が過ぎゆくとも過ぎゆくことはない」と明言された、神のことばを
変えようとしつつあるこのときこそ、第二の幕屋、すなわち、真の礼拝者が現れる、
その時かも知れません。

尚、上記みことばの「まことの聖所」とのことばは、KJVでは、holy of holies(
聖の中の聖)と訳されています。日本語では、至聖所と訳されます。
それと対照的に第一の幕屋は、Holy(聖所)と訳されています。
holy of holies(至聖所)とHoly(聖所)との違いは何でしょう?
至聖所とは、聖の中の聖であり、聖いものの中でももっとも聖いものをさします。

春になると選抜高校野球大会が始まります。野球の「強い高校」は日本にいくつもあるでしょうが、
この選抜野球大会で優勝する高校は日本でたった一つの「もっとも強い高校」ということになります。
このように、野球の「強い高校」と、「もっとも強い高校(選抜の優勝校)」とは、異なります。
同じ意味あいで、「聖所」と「至聖所」とは異なるのです。

至聖所(Holy of holies)ということばの暗示することは、クリスチャンの選抜、よりわけ、
です。全てのクリスチャンは「聖なる者」(Holy)です。しかし、この時代、主は
クリスチャンの中に選抜、よりわけを行い、「もっとも聖なる者」を御自分のために、
選ぼうとしておられるのです。

何故そんなことをするのか?その理由の一つは、「聖なるもの」が聖ではなくなったからです。
 

汚れや罪や偶像と分離されているはずのクリスチャンが聖でなくなり、汚れたものとなり、
この世と変わりなくなってきたので、神は「もっとも聖なるもの」を選ぼうとしておられるのです。
この世と変わらないといえば、怒る人もいるかもしれませんが、しかし、児童虐待の神父や、
進化論信望の神父、牧師ははっきりいってこの世の人と変わりありません。
それから、仏教の像をアッシジの教会に入れたり、異教徒と「親しく」交わる、某法皇も
偶像崇拝者となんら変わりありません、よって聖なる者ではありません。
もちろん、このような冒涜者に従い続け、「ことばは神である」といわれた方を投げ捨てている
ような信者も同罪です。

繰り返すようですが、「もっとも聖なるもの」(Holy of holies)にみこころがあり、
第二の幕屋にみこころがあることを知りましょう。

”9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。

「この幕屋はその当時のための比喩です。」とは、KJV訳では、「この幕屋は今の時代のための比喩です。」と訳されます。すなわち、現在の教会礼拝をたとえているというのです。

”それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。”

現在の教会の礼拝には、礼拝の規範に従った、「ささげ物といけにえ」があることは、あるが、
しかし、それらが、肝心の用をなしていない、参加する者の良心が完全にならないと述べているのです。パン(みことば)もぶどう酒(聖霊)も本来の役割を果たしていないというのです。
これは不完全な礼拝であり、みこころにかないません。

”10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだ(肉的)に関する規定にすぎないからです。

これらは、霊的、聖霊によるというより、肉的、人の考えに基づいた奉仕、礼拝であると
聖書は語ります。
そして、これらは神が最終的に目指しているものでもないのです。「新しい秩序の立てられる時まで課せられた..規定にすぎない」と書かれています。
みこころは、ここで書かれている、「新しい秩序」すなわち、至聖所、すなわち、「霊とまこと」による礼拝にあります。

ですから、このヘブル書においても、「霊とまこと」による、礼拝について書かれており、
そこに重要なポイントがあることがわかります。

この聖所、至聖所の区分は、イエスの時代にありました。ある意味、イスラエルの民全体は、
この世の民族から、選び分かたれた聖所、聖い群れなのです。
しかし、この群れは主イエスの時代に変質しており、神はその中から、選びの民を選抜しようとしました。その選びは、たとえば、12弟子の選びであり、神にかたくつこうと志している人々は、主により、
選ばれ、神の奉仕、働きをになう(これが真の礼拝です)働き人として、召されたのです。
この時代、聖所、至聖所は、平行して存在し、神の栄光は、至聖所、すなわち、主の弟子達にあらわれました。

同じことが、終末にも起きるでしょう。神の聖所、至聖所の区分は今なされつつあります。
至聖所として選ばれる人々は神の働き(これが真の礼拝です)をにない、神の栄光と祝福を
見るようになるでしょう。
聖所は、礼拝する場所としての教会の型といえるでしょう。
ですから、この2種類の聖所は、すなわち、2種類の教会の型ともいえるでしょう。
それは、具体的には終末にあらわれる2種類の教会、ラオデキヤとフイラデルフイアとに対応するように思えます。どちらが聖所、どちらが至聖所に相当するかはいわずもがな、誰でもわかるでしょう。

世の中は、ますます、聖から離れ、混沌とした歩みをするでしょうが、
しかし、私達にあっては、ますます聖からんことを
求めましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。
 

ー以上ー