NO.327 終末の2つの教会

テキスト:”ヨハネ4:20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」”

本日は、「終末の2つの教会」という題でメッセージしたいと思います。
終末の時には、今迄と異なる2つの教会が起きるということを見ていきたいと思います。

かつて、主イエスの時代に主は神の民の間の新しい2つの区分、集まりについて語りました。
上記テキストの箇所です。

この時代の神の民、イスラエルの國の人々は2つに分かれていました。
すなわち、北イスラエル及びユダの人々です。このことを考えてみましょう。
順に見ます。

”20 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」”

サマリヤの女は「私たちの先祖は、この山で礼拝」したといいました。
この山とは、サマリヤ、 北イスラエルの首都の山です。彼女が「私たちの先祖は、この山で礼拝した」という時、そのいわんとしていることは、「私たちの先祖は、この山で礼拝した、だから私達は、
先祖達の習慣、教え、しきたりに忠実に歩み、私達もこの山、道、礼拝方法から離れるべきでないと思っている」そのようなニュアンスがあるでしょうか。

この旧約の北イスラエルは新約の カソリック教会の型ではないかと私は思っています。
もしそうなら、今のことばでいえば、「私たちのカトリック教会の歴史的な先祖は、この教会の型に従って礼拝した、だから私達は、
先祖達の習慣、教え、しきたりに忠実に歩み、私達もこのしきたり、礼拝方法から離れるべきでないと思っている」そのように言っているいうことでしょうか。

”あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」”

今のカソリックの人たちの言い分と取るなら、このことばは、「(我々はカソリックの方法、
信仰スタイルこそ、真のキリスト教会だと思っている。)しかるにあなた方は、
プロテスタント(エルサレム)こそ、真の教会、このスタイルで礼拝すべきと主張しています。
(とてもそんな考えには同調できないのですが)」というニュアンスがあります。
 
 
 
 

”21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。”

さて、このこと、全ての神の民は(北イスラエル、ユダの)2種類に分けられる、この2種類の区分しかない。ということは、この当時の神の民の「常識」でした。また、全てのクリスチャンは大きくいえば、カソリック、プロテスタントのどちらかの分類に入るということは現在の「常識」です。

しかし、ここで、主は「わたしの言うことを信じなさい。」といいながら、それらの「常識」とは、懸け離れたことがらについて述べました。別の区分、について語られたのです。
何故主はこのことを述べる時、「わたしの言うことを信じなさい。」などと付け加えたのでしょうか?
それは、このこと、イスラエル、ユダ以外の神の民の区分が起きるなどということは信じがたいことだからです。

しかし、このことは実現しました。この主イエスの時代には、神の民に関して新しい2つの区分が
設けられたのです。それは、後で書かれている「真の礼拝者」と「真の礼拝者でないもの」との区分です。

「真の礼拝者」は、主イエスに従ったペテロ、ヨハネ、ヤコブを始めとする真に神に仕えようとする人々であり、「真の礼拝者でない者達」は彼等に反対した律法学者、パリサイ人達を始めとする人々といえるでしょう。この時、主イエスを中心にして、神の民はこの2種類の区分のどちらかに分類されるようになってしまったのです。

”22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。”

「救いはユダヤ人から出」る、今でいえば、救いはプロテスタントから出ます。ですから、終末の日の回復の働きもプロテスタントから出てくると思われます。
ですから、プロテスタントの声に耳を傾ける謙虚な心を持つカソリックの人々は幸いです。
 

「わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」とユダ出身の、
イエスはサマリヤの女にいいました。今で言えば、カソリックの人々に対して、「あなたがたは(真の神を)知らないで礼拝してい」るというようなものです。
こんなことをいわれればカソリックの人は怒るでしょうが、他ならぬ主イエスのことばなので、
耳を傾けて欲しいと思うのです。

私はカソリック出身の作家の本を読んだり、またカソリック信者と話して思うことは、
これらの人々は、「真の意味で神を知らない」という感想です。
彼等は神がどのように思い、何を忌み嫌い、何を喜ばれるのかーはっきりいいますがー何にも知りません。
だからこそ、あの神に忌み嫌われる悪霊マリヤの像を拝したり、また、神に忌み嫌われる人間崇拝、法皇崇拝に興じているのです。彼等は確かに何も知らずに礼拝しています。

”23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。”

主が「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。」と言われた時、
今迄なかった、神の民の間における「新しい区分」について語られたのです。
そしてその区分は明確なものであり、
以下の2種類です。
-真の礼拝者
-真の礼拝者でないもの

真の礼拝者は、「霊とまこと」によって礼拝します。
しかし、ここで疑問がわきます。どうやって、この「霊とまこと」を区分するのでしょう?
たとえば「ある人」が、ここでいう「霊とまこと」をもって真に神を礼拝しているのか、それとも
口先だけであり、「霊もまこともない」のかどうか、どうやって区分するのでしょう?

私も詳しくはいえませんが、しかしこのヒントもやはり、主イエスの時代にあると思われます。
何はともあれ、その区分はこの時代になされ、「真の礼拝者」は、主イエスとその教えにつき、
そうでない者はそれに反対することにより、明確に区分されてしまったのです。

同じことが終末にも起きるのでしょう。

「今がその時です。」

今迄決してなかった区分が神の民の間にもたらされる時が到来し、その時に関して主は、
「今がその時です。」と明確にその到来を告げました。
終わりの時にもその区分の時がやってくるでしょう。
それは、「フイラデルフイア」「ラオデキヤ」という終末の2つの教会のどちらかに全ての
神の民が「区分」されるその日です。
私達は聞かなかったでしょうか。その「区分」の到来を静かに語る声を。
私の確信では、もうその時は来ており、その区分は始まりつつあります。
 

「父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」

何故そのような区分がなされ、新しい神の民が召されるのか、その答えがここに記されています。
それは他でもない神御自身がそれを望んでおられるからです。

神は真の礼拝者を旧約時代、長い間、求めておられ、その願いは、主イエスの時代に実現しました。
主の弟子であった、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてパウロの下で、
初代教会において、いかに真の礼拝、従いが行われたかは、使徒行伝に詳しく、
また教会史はそれを伝えます。

さて、それから2000年の時が経過し、終末の時にこのことがらはくり返されるようです。
すなわち形骸化し、形だけの礼拝者ではなく、神は世の終わりに再度「真の礼拝者」を求めるようになります。それこそが、終末の時代に忽然として、フイラデルフイアの教会、神のみこころの教会が
出現する理由なのです。

”24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。”

この時、主は「神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」といわれました。
ところで、何故主はそのような言い方をしたのでしょう?それは、その当時の神の民には、「霊」による礼拝がない、
「まこと」=真理による礼拝がない、そのためそういわれたのではないでしょうか。

「試験で、クラスの平均点くらい取れるように頑張りなさい」と母親にいわれるなら、その子供は、
どうも平均点もとれなかったようだと推測できます。
また、「学校を休むのは月3日以内にしなさい」と母親にいわれる時、その子供はどうも
月に3日以上休んでいるなとやはり推測できるのです。同じ意味あいで、主が
「神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」といわれる時、
神の民の間に、「霊とまこと」すなわち、聖霊による礼拝、真理による礼拝がないことを暗示しているといえないでしょうか。

確かにこの時代には、霊、すなわち、聖霊によるところの礼拝はなくなっていた時代です。
祭司、パリサイ人は、外側、人の見えるところだけを清め、実際は内側が、あらゆる偽善に満ちた
「白く塗られた墓」といわれる状態でした。

しかし、この時代に起きた「真の礼拝者」すなわち、主の弟子であるペテロ、ヨハネ、ヤコブ、パウロ
達の礼拝、主に仕える方法は、彼等と異なり「霊」による、すなわち聖霊の導きに頼る礼拝、奉仕でした。
彼等の行動を記した使徒行伝は別名「聖霊行伝」と呼ばれ、彼等が「聖霊」により、奉仕していた、
すなわち、「霊による礼拝」をしていたことがわかります。

以下のようにこの使徒行伝の書は「聖霊」の働き、霊による礼拝、奉仕に満ちています。

”使徒の働き 1:2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。

使徒の働き 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
使徒の働き 1:16 「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。
使徒の働き 2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

使徒の働き 2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
使徒の働き 4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
使徒の働き 4:25 あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。
使徒の働き 4:31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
使徒の働き 5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
使徒の働き 5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」
使徒の働き 6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
使徒の働き 7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
使徒の働き 7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
使徒の働き 8:15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
使徒の働き 8:16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
使徒の働き 8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

使徒の働き 8:19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。
使徒の働き 9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
使徒の働き 9:31 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。

使徒の働き 10:44 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。
使徒の働き 10:45 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。
使徒の働き 10:47 「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」
使徒の働き 11:15 そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。
使徒の働き 11:16 私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。
使徒の働き 11:24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
使徒の働き 13:2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。
使徒の働き 13:4 ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。
使徒の働き 13:9 しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、
使徒の働き 13:52 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
使徒の働き 15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
使徒の働き 15:28 聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。
使徒の働き 16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
使徒の働き 19:2 「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。
使徒の働き 19:6 パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。
使徒の働き 20:23 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。
使徒の働き 20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
使徒の働き 21:11 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています。」と言った。
使徒の働き 28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖にられたことは、まさにそのとおりでした。”

神はどんな奉仕、礼拝も聖霊の油がなければ空しいことを旧約聖書の中で、
度々述べています。今はこまかく挙げる時間がありませんが、
「油の混ざった小麦粉」等の旧約の記述はまさにこのことを語っています。

そのことばは、この時代、イエスの弟子である使徒達により、成就したのです。
これらの使徒行伝の記述の中で、確かに「霊」による、奉仕、礼拝がなされていることを
私達は見ます。

さて、「霊とまこと」と書かれている2つのことばのうちのもう一つ、「まこと」について考えてみましょう。このことばは、「真理」ということばです。
真理とは、抽象的なことばですが、要は「本物」というニュアンスです。
偽りではないということです。
主がわざわざ「霊とまこと」というように、真理、本物について語られた時、主イエスの時代には、
偽物、偽りの教えが大手をふって横行していたことを暗示しないでしょうか。
聖書、福音書を読むとき、この時代の神の民の間には、確かに偽り、誤った教え、教理が横行していたことを見ます。
聖書の律法は変型され、人々に重荷と圧迫を与えるために用いられていました。
安息日の教えは、過大解釈され、「安息日に人をいやした」ということで、主イエスは非難されたのです。
しかし、この時代に、「まこと」すなわち、真理をもって神に仕える一団の人々があらわれました。
誰か?それは主の弟子であるペテロ、ヨハネ、ヤコブ、パウロ達です。

彼等を通して多くの聖書の真理は回復され、神の真実の教えは開かれました。
彼等の手による新約の書簡を見る時、その中にこの真理の光があふれていることを私達は
見ることができます。彼等は、いや彼等こそ、真理、聖書の真理、正しいまっすぐな神の
教えに立った人々です。

さて、今迄見てきたように主イエスの時代、使徒行伝の時代は、それ以前の形式的な
人間的な礼拝と異なり、「霊とまこと」による礼拝が復活した時代なのです。

かつては、そのような礼拝はなかったのですが、この時、主イエスの時代にこの礼拝をする人々が現れたのです。「今がその時です。」とは、そのことを表しています。そして、
このような礼拝者が現れることを他でもない神御自身が切望しておられ、それゆえ、
そのような人々が現れたのです。
「父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」と書かれている通りです。

さて、このことは、終末に更に大きな形で、世界的規模で繰り返されることを知って下さい。
すなわち、終末にも必ず、「霊とまこと」による礼拝が繰り返されます。
聖霊の声に聞き従う奉仕者達、またかたく真理に立つ人々が、あらわれるのです。

皆さんはその働きのうわさをまだ聞いていませんか?私達はそのことの噂を聞いており、そのはしりを見つつあります。もうその時は来つつあることを知りましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー