NO.325  悪霊の知恵

”テキスト:ヤコブ3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
11 泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。
12 私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。
13 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。
14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
16 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。
17 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。
18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。”

本日は「悪霊の知恵」という題でメッセージします。

上記テキストにある「そのような知恵は、..悪霊に属するものです」とのみことばを考えてみたいと思います。

順に見ます。

”1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。”

この箇所は、教師及び、その厳しいさばきについて述べています。
ですから、「悪霊による知恵」という時、教師、メッセンジャーに関することがらであることが理解できます。


10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません

ここでは、同じ説教者を通して、「賛美とのろいが同じ口から出て来る」ことについて述べています。
そんなことがあってはならないのは、誰でも知っていることですが、しかし、わざわざ聖書がこのように警告している以上、他人ごとと思わず、謙虚にそんなことがあり得るかもしれないと
危険性について考えてみることが大事と思われます。

「同じ口」とは、説教者の口のことでしょう。普通、説教者は良いこと、賛美を語ろうと志してはいるはずです。しかし、結果として会衆にとって、呪い、益にならないことを語ってしまう、そのような
危険性があるのでしょう。聖書がそういう以上、その可能性があるのです。そうならないように祈りましょう。

”11 泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。”

水は霊のたとえです。
甘い水、聖霊の働きが説教者の口を通して流れることは幸いです。しかし、問題があります。
同じ口を通して、苦い水、すなわち、聖霊と反対の霊、悪霊の働きが流れるなら、それはあってはならないことです。

「そんなばかな、そんなことがあるものか」という人もいるかもしれません。
しかし、他のことば、人から出たことばなら、無視、軽視してもよいかもしれませんが、
しかし、他ならぬ神のことば、聖書がそういうなら、一考すべきことがらと思えます。
聖書は明らかに説教者を通して、苦い水、すなわち、悪霊の働きが人々に及ぶことについて述べているように思えます。

"
12 私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。"
 

ここでは、「いちじくの木がオリーブの実を」ならすことはできないこと、「ぶどうの木がいちじくの実を」ならすことができないことを述べています。

これは明らかにメッセンジャー、説教者に対する警告であることを知るべきです。
教会で受けられるもの、与えられるものは、ひとえに「メッセンジャー」が何であるかに
かかっていることを述べているのです。
何をいっているのでしょう?

「何故私の教会では、オリーブの実、聖霊の油に満ちた人々が育ってこないのか」と疑問に思う人がいるかもしれません。しかし、聖書は、「いちじくの木がオリーブの実をならすことはできない」ことを述べています。

オリーブの実、すばらしい油に満ちた実はオリーブの木からしかならないのです。
逆に木がオリーブの木なら、すなわち、メッセンジャー、働き人が聖霊の油に満ちた人なら、
たとえ、ほんの少しの実しかならないとしてもその実は、オリーブの実となるでしょう。

ですから、その教会でどのような信者が育ってくるのかはひとえに、ひとえに
水をわきだす泉である、メッセンジャーのありようにかかっている、そのことをこの箇所は述べているのです。

これは、よく日本の説教者が、何かというと、重視する、「注解書どおり説教する」ことなど、
全く意味していません。
むしろ、このさる知恵だか、人の知恵だかよくわからない、愚かな注解書を優先して、
聖書のことばを放り出す愚か者にこの手の「オリーブの実を決してならすことのない」木が
多いのです。

”塩水が甘い水を出すこともできないことです。”

ここで再度、聖書は、強調しています。
私達がいくら甘い水、聖霊のすばらしい恵みを教会に期待しても、
その水を出す位置にある、神の器が、塩水しか出さない器なら、それは無理だとこの箇所は語っているのです。

今の教会では何かと知識のことが強調され、(どうでもいいような)知識、細かい、瑣事を
語るのが立派な説教だと思う人もいるようですが、しかし、聖書はそうとばかりいわず、
むしろ、教師、メッセンジャーは水を出す泉のようなものだと語っていることを知りましょう。
人々、会衆は説教を通して、単に知識だけでなく、水、霊を受けているのです。
これは、聖書的には、常識、基本に属することがらなのですが、あまり教会ではいわれません。

そして、この水、霊が甘い水、聖霊なら、会衆はそれを通して恵みと助けを受けるでしょう。
しかし、逆に別の霊、悪霊を受けるようでしたら、恵みどころか、教会の集まりが、災いとなるでしょう。
以下のように書かれている通りです。

”コリント人への手紙第一 11:17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。”

次をみます。
 

”13 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。”

さて、ここで知恵に関して、書かれています。
これは、聖霊の知恵、神から来た知恵のことと思われます。
もし、我々が聖霊から来た知恵を持つなら幸いであり、「その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示」すべきです。これは、教師のあるべき姿です。
 

”14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。”

しかし、ここに教師としてあるべきでない姿が書かれています。すなわち、もし、教師に「苦いねたみと敵対心があるならば」問題をひき起こす可能性、危険性があるのです。
それは何か?「真理に逆らって偽ること」の危険性です。
もっと具体的にいえば、このような教師により、聖書の真理が曲げられ、変型される可能性があるのです。

このことはあってはならないのですが、しかし、今の教会でひんぱんに起こっていることです。
「地獄は実際には存在しない」「仏教徒やヒンズー教徒のようにキリストを信じない人さえ救われる」などと、「真理とぶつかる」「真理を曲げる」教えとはまさにこのことです。

また、
愚かな教師が悔い改めることもなく、盲信している2回に渡って再臨するキリスト、艱難前だの艱難中携挙だの、愚か者の空想話はまさにその「真理に逆らう恐れげもない愚か者たち」によってあいも変わらず、
語りつげられています。

これらの「子供だましの教え」に疑問を感じつつも、
神のことばに堅くつくよりも、自分の保身や、利害を優先するようなら、それは牧師というより、
御身大事、保身優先みことば放棄の茶坊主といわれるべきであり、恥ずかしいことです。
 

”15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。”

さて、ここでもう一つ、もう一種類の知恵について書かれています。これは、「地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」。ですから、聖書は、知恵に関しても聖霊による知恵とともに、
悪霊に属する知恵に関しても語っていることを知りましょう。

聖書の一つの特徴は、2種類の相反することがらについてよく語るということです。すなわち、
父について: 天の父と神と悪魔である父とがいます。
麦について:良い麦と毒麦があります。
エレサレムについて:古い裁かれるべきエルサレムとみこころに沿った新しいエルサレムがあります。

他にもいくつもありますが、同じ意味あいでここで2種類の知恵について書かれているのです。

さて、今迄の記述の流れに沿ってこの「悪霊に属する」知恵ということを考えてみましょう。
今迄の記述がずっと、教師に関するトピックで続いていたのですから、この「「悪霊に属する知恵」ということがらも教師に関連したことがらであることがよくわかります。

ですから、この章の冒頭にも書かれているように、「多くの者が教師になるべきでない」「教師への裁きは重い」ということは確かであるとわかります。
教師は、場合によっては、講壇で「悪霊の知恵に満ちた聖書メッセージをする」危険性があることをはっきりととらえましょう。

私の理解が間違いでなければ、教会においては、知恵、知識、を追い求める風潮があるように思われます。
しかし、かつてエデンの園において、神が「賢くする=知恵を与える」「知識の木の実」をとることへの警戒を語られた事、そして食らうこと、それをとって食べる時、必ず死ぬと神が命じられたことを思い出しましょう。
このことは、我々が教会において、この世の知恵、知識を警戒することを語っているようです、いやそれらは我らに結果として
死をもたらすと語っているように思われます。

この世の知恵、知識に満ちた、某法皇が「進化論は科学的なので、否定できない」(創世記で、神が人間を造ったなどとの記述は非科学的)と語った時、このようなことばは、
確かに知恵にみちているようですが、しかし、「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するもの」であることを知りましょう。

このようなことば、知恵こそ、聖書や神に対する信仰をぐらつかせる悪魔来の方策、知恵に満ちたことばなのです。

ですから、再度再度繰りかえしていいます。メッセンジャー、説教者は、
水を出す、泉のようなものです。
水がでてくることは良いようですが、聖霊ばかりが出てくるとは、限らない、神の知恵に満ちた
ことばのみとは、限らないと明らかに聖書は述べているのです。
この任にあたる人は決して、決して悪霊を注ぐ泉、悪魔来の知恵のことばを語ることのないよう、
主に求める必要があるのです。

多くの悪魔来の知恵から出てきた教理、メッセージがあります。
私の理解では、中東の地にイスラエル民族(と称する)人々が再度、国を構えたのは、
神の約束の成就であり、これにより、教会の時代は終わり(?)、終末の時代、イスラエル民族の時代に入るというデイスペンセーション主義はまさしくこの悪魔来の知恵に満ちた「よくできた造り話」です。
彼等はこの考えを、艱難の前に(使命の終わった)教会は挙げられるという
艱難前携挙説の「大嘘」の根拠としています。

また、この教理をもって、パレスチナ人を虫けらのように殺す某民族を「クリスチャンは何が何でも応援しなければならない」などと意味不明な「人殺し加担」に誘う理由として用います。

しかし、このデイスペンセーション主義は、終末の日の「みことばを行わない」哀れな盲人クリスチャンのために用意された
大嘘の教理です。アブラハムの子孫と称する某民族は、セム族にしては、やけに色が白い、
どうみても白人種なのに、「我々がその民族だ」と無理に強弁する「白を黒と言いくるめる」というより、「白を黄色といいくるめる」詭弁上手な嘘をつく民族です。
聖書は彼等、嘘をつく民族の出現を預言したかのように、黙示録の中で、
「ユタヤ人であると嘘をつく悪魔礼拝者」と名指しで警告しているのに、
聖書よりは、某民族の宣伝を優先する愚か者たちは、真実を見ることができません。

このデイスペンセーション主義が「悪魔来の知恵」だと
私が理解する理由は以下の通り:

1. この「嘘の教え」のために、中東の地で、幾多の国連決議や、非難にもかかわらず、
前から住んでいたパレスチナ人の土地、家、命を奪いつづける
某凶悪な民族が「神の民」であり、クリスチャンは彼等に賛成しつづけなければならない
(すなわち、人殺しの罪に荷担し、同調し続けなければならない)という
トンデモない論理に行き着く。

2. この「嘘の教え」のために、「終末の時代には、時代が変わり、教会時代が終わり、
別の時代、イスラエル民族の時代に入る。黙示録やマタイ24章に書かれている終末の裁きは皆、
イスラエル民族のこと。従って、教会には裁きは来ない。教会は携挙される(高みの見物だ)」
というとんでもない論理にいきつきく。
結果として、主があのように強調し、ことばを重ねて聖書が警告している
終末の日の備え、用意は「意味のない」ものとかえられてしまう。

”16 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。”

説教が「ねたみや敵対心」の中でなされる時、教会内に「秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ない」があることを知りましょう。

”17 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。
18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。”

悪霊からの知恵による、説教があります。それとともに「上からの知恵」による説教があります。
その特徴は、「第一に純真であり、次に平和、寛容、温順」であり、この説教を聞く人々は、
そのように育ちます。また、「あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないもの」であり、これにより育つ人はこのような実をみます。
また、そのような説教者により、「 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます」
 

ですから、くり返しますが、この箇所には、2種類の説教、教師が書かれており、
その差、生み出す結果は天地程も違います。

いかにこの働き、メッセージの働きは貴いことでしょう。また反面、責任の重いものでしょう。

しかし、主が明らかに召しておられるなら、この召しに従いましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー
 
 
 
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