NO.323 食べもの

 

”テキスト:ロマ14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」
12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。
14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。
15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。
16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。
17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
20 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。
21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。
22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。
23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。”

本日は、「食べ物」という題で メッセージしたいと思います。
ロマ14章の「食べ物」に関する記述について見ていきたいと思うのです。
順に見ます。

”1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。”

今回のテキストの箇所の基本的な主題、問題は、「信仰の弱い人を受け入れ」る、「意見をさば」くなということです。

”2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。”

信仰の強い、弱いと関係して、食べることが出てきます。食べることは、パン=みことばの例からも
わかるように、聖書のことば、教理と関係したことがらを表すようです。
「何でも食べてよいと信じている人」とは、それではどんな人をあらわすのでしょう。
これを説明するのは、例のヘブル書の「かたい食物、乳」といった表現でしょうか。
乳は乳児、幼児の食べ物であり、堅い食べ物を食べられない人、いわば信仰の初心者、
またたとえを理解しない人の受け入れる教理です。

彼等には食べられる食物に制限、限界があり、かたいものは無理です。
それとは対照的に、かたい食物を食べられる人は、信仰、また奥義、啓示の開かれた人々であり、
たとえを理解します。
 

「何でも食べてよいと信じている人」とは、聖書の表も裏も読む、文字通りにもまたたとえをも読む人でしょうか。聖書は黙示録では「表にも裏にも文字の書いてある巻き物」にたとえられています。

どちらが良いか、望ましいかといえば、勿論、食事制限のない人、かたい食物を食べることの
できる人の方が望ましいのですが、しかし、それをもって、たとえを理解できない、奥義を
理解できないからといって、軽率に人を裁くな、と聖書は言っているのです。

「弱い人は野菜よりほかには食べません」

また別の考え方をすれば、弱い人、野菜しか食べられない、いわば偏食家のような人は、
だされた料理の全てを食べられない、すなわち、聖書に基づく教理の全てを受け入れることの
できない人といえるかもしれません。

例としてたとえば、1コリントの手紙に書かれている、
「御霊のたまもの」の解釈があります。ペンテコステ、カリスマ派の人々は、さかんに
これらのことばを受け入れ、すなわち、食べ、異言、預言等の御霊のたまものを追い求めています。
一方、福音派の人々は、もう
御霊のたまものの時代は終わったとして、御霊のたまものを受け入れません。
どちらが正しいのでしょう?

私個人としては、現在、もう御霊のたまものの時代が終わったとは思えません。ですから、
福音派の人々の主張は「食わず嫌い」「偏食家」の主張のようにも思えます。
しかし、もし万一彼等、福音派の人々が「
食わずぎらい」であっても、それをもって裁いてはいけない、そう聖書は語っているのです。
 
 

”3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。”

食べない人、すなわちみことばの一部分しか、受けいられない人であってもそれをもって、
兄弟を裁いてはいけない、何故なら、「神がその人を受け入れてくださったから」なのです。

”4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。”

私達クリスチャンはお互い、兄弟姉妹ではありますが、反面それぞれが、主のしもべでもあります。
そして、しもべである時、彼がどのような仕事をしているのか、奉仕をしているのか、
それは、主人しか、正確にわからないことがあるのです。
ある人はちょんまげのかつらをつけ、きゃはんをつけ、手にはタイコをもってたたきながら、町をまわります。しかし、それだけを見て、「あんな格好をしてなんて、非常識なやつだ」と裁くのは、早計です。
彼は、「チンドン屋の仕事」を得たのであり、この格好をして、町を歩くよう、主人(社長)に命じられたのです。

同じ意味あいである人のしている事が、私達の「クリスチャン常識」から外れているとしても、
実は「主に命じられて」その奉仕をしているクリスチャンが確かにいる、その可能性があることを知りましょう。

しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。」

「御霊のたまものに関しての聖書のことば、教理を受け入れない、クリスチャンなんて
ろくなクリスチャンではない、信仰をいつかなくすぞ」なんて、熱心な人はよけいな心配をするものですが、しかし、主は、
「しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。」と述べます。ですから、これはよけいな
お世話なのです。

"
5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。"
 

この「日」とは何をいうのでしょう?ペンテコステの日やクリスマスの日を他の日より、
大事だと思うことでしょうか?
そんな意味あいもあるかも知れません。そして、またこれは、一週間の中で、特別な日、
日曜日のことを言っているのかも知れません。
この日、日曜日は特別な日であり、何の仕事もすべきでない、礼拝と奉仕に捧げるべきだ、これは
もちろん良い考えです。

しかし、これを厳格に適用し、日曜日に仕事を休まない人は神の律法を破っていると断言するようになると問題があるかもしれません。何故なら、世の中には、デパート、スーパーの店員のように、
日曜日は仕事が休みでない人もいるからです。
そのような人は日曜日の礼拝の代わりに月曜日の礼拝に出る、すなわち、「どの日も同じだと考える人」なのです。どちらが正しいのでしょう?

聖書は、「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。"」と語ります。
ですから、どちらが正しいとも、またどちらが間違っているともいっていません。
自分のことに関しては、神に示されたようにするべきであり、しかし、自分の方法
をもって他の人を裁くべきではないのでしょう。

6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。”

「日を守る人は、主のために守っています」すなわち、日曜日を聖なる日として、聖別している人は、主のために守っているのです。ですから、このことをもって兄弟を裁くべきではありません。
 

「食べる人は、主のために食べています」

食べる、すなわちあるみことば、「使徒、預言者等5職の復活」等の教理を受け入れる人は、主のために受けているのです。「これは確かに主の語られたことばだから受け入れよう」と思っているのです。
このことを軽視してはいけません。

「食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」

しかし、その同じ教理を受け入れない、すなわち食べない人々も主のためなのです。
「5職の復活?このような聞いたことのない教理をすぐ受け入れるのは、主の聖徒にあるべき姿ではない」とあくまで、主を中心にして考えているのです。

”7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。”

クリスチャンの歩みはそもそも自分のためというより、主のために生きているものです。


9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。”
 

そんなわけで、食べ物(みことばに関わる教理)のことをもとに、「自分の兄弟をさば」いたり、
「自分の兄弟を侮る」のは良いことではありません。何故なら、「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです」すなわち、私達に行き過ぎた「兄弟をさばくこと、侮ること」があるなら、
後の日に主の前で、裁きを受けると言うことなのでしょう。
そんなわけで、クリスチャンの間で、往々にして起こりがちな「みことば、教理に関する論争」「安息日を守る、守らない」という論争も余程気をつけないと、思い掛けない結果、すなわち、このことで
主に裁かれることがあるということを知りましょう。主を恐れましょう。
 
 

”11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」
12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。”

今はどのような論争も許されているようにさえ、見えるのですが、しかし、私達の今の行いをもとにその日、「おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることにな」ることを覚えましょう。
 

”13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。”

「妨げになるもの、つまずきになるもの」とは何でしょう?
これはやはり、みことばや教理と関係していることなのでしょう。たとえば、
異言や預言は確かに聖書に書かれている聖霊のたまものであり、「熱心に追い求めるべきもの」なのですが、しかし、その相手の人が「それでつまづく」なら、我々はその人のことを考慮しなければならない、
そんなことでしょうか。

14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。”

それ自体で汚れているものとは何をさすのでしょう?やはり、みことばと関連したことがらなのでしょうか。神のみことばは聖く、何一つ汚れているもの、拒否すべきものはありません。
「聖霊のたまもの」に関することばも同じであり、どのことばも汚れているわけではなく、
拒否する理由はありません。

テーブルのまん中においしそうなカステラが手付かずで残っています。
「あれこれは?」
「このカステラには赤痢菌がついていて、汚れていると聞いたので食べないの」
「もったいないな」
そんな風にして誰も食べずに捨ててしまったカステラですが、後でパウロおじさんに聞いたら、
「汚れたものなど何もなかったのに」とのことです。勿体ないことでした。

さて、あることばを「受け入れるべきでない」と強く主張している人びとは神のことばに対して
同じ過ちを犯しているのです。
「私的解釈をすべきでない」(このことばの原意は「そのテキストのみから解釈すべきではない」であり、私的解釈とは誤訳)、「霊的解釈をすべきではない」(たとえを解釈すべきでないということ)
などと語っている人々は、実は聖書のある部分をさして、「この部分は汚れている」と言っているようなものです。しかし、パウロのいうように、「それ自体で汚れているものは何一つない」ことを知りましょう。

「ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです」

すなわち、「このことばは排除すべき、受け入れるべきでない」と信じ、認める人々にとってのみ、
それらのことばはそのまま受け入れるべきでない、排除すべき、すなわち、汚れているものなのです。
しかし、聖書の主張、パウロの主張は、「それ自体で汚れているものは何一つない」すなわち、どんなことばも排除すべきではないのです。

”15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。”

教理、またみことばの解釈は大事ではあります。しかし、そうであっても私達はこのことの置かれている位置、しかるべき重要性や、順番というものを知らなければなりません。
何が何でも教理優先というわけではないのです。

聖書は、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」と述べます。ですから、教理は大事、我々にとっては、非常に大事であるかも知れませんが、
しかし、その大事さには、自ずから限界があり、これをもとに兄弟を滅ぼしてはならないのです。
何故なら、彼のために、「キリストが代わりに死んでくださった」からです。
ですから、たとえば、浸礼、とか滴礼とか、教理の区分はあり、それは大事なことでしょうが、
しかし、それをもって、滅ぼす、すなわち、救われているとか、永遠の命を持っているいないということではないのです。

また、このこと、教理の違いをもって、兄弟を攻撃し、それにより、「兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。」
 

16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。”

「良いとしている事がら」とは何でしょう?
一生懸命、みことばの教理を守る、そのためには、安易な妥協をしないということでしょうか。
そんな人々のことが福音書に記されています。
安息日のみことば、教理を破った主イエスを殺してでも神の義をたてようとした律法学者、パリサイ人がそれです。そして、安息日に麦の穂を食べた弟子達を責め、また安息日にいやしを行った、
主イエスに怒りをいだいた彼等がそうです。

彼等は「良いこと」をしているつもりなのですが、しかし、彼等の義のきわみ、「神の律法を犯す
異端者イエスを十字架につけること」は逆に彼等にさばき、そしりをもたらしたことを知りましょう。
たしかに彼等は「良いとしている事がらによって、そしられ」てしまったのです。

”17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

飲み食いは、聖餐式のパンとぶどう酒、すなわち、みことばと聖霊の働きに相当します。
しかし、聖書は、「神の国は飲み食いのことでは」ない、これらのことではないといいます。
逆に「義と平和と聖霊による喜び」だといいます。
ですから、私達は知らなければなりません。教理こそ大事、これこそ死守しなければならないと、
多くの人はいいます。

しかし、それよりも大事なことは、「義と平和と聖霊による喜び」だと聖書はいっているようなのです。
それで、私達は、ささいな教理の違いで大議論をすることより、
私達が実際に義の道を歩んでいるのか、それを神は重用視されることを知るのです。また、ちいさな重箱のすみをつつくような教理の論争より、私達が神と人との間に「平和」をもっているかどうかに、神は関心をもたれていると語るのです。

”18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。”
 

「このようにキリストに仕える人」は、キリストを安息日のこまかい、規定や、言い伝えに基づき、
裁き、非難した人とは、正反対な人々です。このように教理やみことばをもとに人を非難することは、みこころと異なります。逆に、「私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」
すなわち、みことばをもって互いに成長できるよう努めましょう。

”20 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。”
 

「食べ物のことで神のみわざを破壊」することの最たることは、「安息日の教理」に基づき、神の子を十字架につけたことです。これは最大の悲劇、破壊ですが、しかし最後の悲劇ではありません。
今も教理、解釈のゆえに自分の兄弟達を非難する人々は多いのですが、しかし、聖書は、「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません」と述べます。

「すべての物はきよい」のです、ですから、神のみことばはきよく、そしてそれをもとにした、
たとえば、浸礼主義もきよいでしょう。「しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。」ですから、そのきよい、浸礼に関するみことば、教理をもとに人を非難、追放、
つまずかせ、排斥するなら、それは、「悪いのです」。
携挙説を厳格に定めるのもよいですが、しかし、そこには、限度があるでしょう。

”21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。”

ここでも「兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。」と書かれています。
ですから、逆にいかに教会内において、みことばをもとに「兄弟のつまずきになることを」する人々が多いかが伺いしれます。

22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。
23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。”
 

「疑いを感じる人が食べるなら」とはどういうことでしょうか?

疑いをもちながら、教理を受け入れるということでしょうか。
聖書には、預言に関して、1コリントに「御霊のたまもの、特に預言することを熱心に求める」よう書かれているので、私個人としては、教会で、預言のたまものを活用することは良いと思います。
それで、私はその教理を食べる(受け入れる)わけです。
しかし、皆がそう思っているわけではなく、「預言や異言を求めるべきではない」と信じている人もいるのです。そう思い、受け入れるべきでないと信じているのに、回りに妥協して、異言を受け入れるなら、その場合は、「疑いを感じる人が食べる」ことになりますので、それは「罪に定められます」

結論としては、このテキストの箇所は、教会における教理や教えのあるべき位置、しかるべきところを述べたところでしょうか。教理、解釈に厳密、忠実なことは大事でしょうが、しかし、そうであっても
そこには、限度があります。
安息日等の教理をもとに、自分の兄弟である、主イエスを滅ぼそうとした、律法学者らは、確かに
その位置を踏み越えており、我々はその蹉跌をふんではいけないと思われます。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー