No.321エジプトと神の民

”テキスト:マタイの福音書 2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、
15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。”
 

本日は、「エジプトと神の民」という題でメッセージしたいと思います。

かつて神は聖書の中でこの世に関して、こういわれました。
 

”ヤコブ4:4貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。”

”1ヨハネ2:15世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。”

ですから神の子が、この世を愛し、それを教会に取り入れることには、みこころがないことを
知らなければなりません。聖書では、「この世」をエジプトという表現で語っているようです。
エジプトに関する記述を通して、神がこの世に関して語っている警告を見ていきましょう。

テキストを見ていきます。

マタイの福音書 2:
14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、
15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。”

この時、主がエジプトを出ることについて語られています。
またこのこと、エジプトから、「私の子を呼び出す」ということは、預言者が前もって語り、預言していたことだということがわかります。

「ヘロデが死ぬまでそこにいた。」

ヘロデはユダの王であり、ユダはプロテスタントの予表だと私は理解しています。
ヘロデが死ぬ、すなわちプロテスタントが死におおわれる日が来ます。
それは、終末の日であり、その時、プロテスタントの教会の中に罪、霊的な死がまんえんし、
誰も、義には生きなくなります。そして、その日こそ、エジプト化した教会から「我が子」と神が呼ぶ人々が、出てくる日なのです。

”これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。”

さて、このこと、終末の日に、神の選びの民が、エジプト、この世化した教会から出てきて、この世のあらゆる、汚れや惑わしから、免れて来ることは、実は、以前から、預言者により預言されていた特別なことがらであることを覚えて下さい。
モーセが神の民を出エジプトさせたことは、終末の日の「出エジプト」の型であり、また、
この主イエスの「出エジプト」もそのことの型なのです。
また、黙示録に「ソドムやエジプトといわれる都」が描かれていることもまた、終末の出エジプトを暗示する預言なのです。
ですから、聖書は、実はその記述のあちこちでこのことがら、終末の出エジプトに関して示唆し、暗示していることを読み取らなければなりません。

次の箇所を見てみましょう。
 

”創世記 12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
14 アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」”

順に見ます。

”創世記 12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。”
 

この時、ききんが激しいので、アブラハムはエジプトへ下りました。ヤコブも同じ理由でエジプトへ下ります。
多くのクリスチャンは、ききんのゆえ、すなわち、神のパン、水に飢えるため、この世のものを求めることがあるようですが、しかし、基本的に、エジプト、この世に下ることは神のみこころではありません。
 

”11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。”

アブラハムの妻、サライは美しい女でした。女、妻は、キリストの花嫁、妻としての教会のたとえと
思われます。教会も神の前、またこの世にとっても美しい、魅力的なものであることを知ります。

”12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」”

ここで、エジプト人は、夫であるアブラハムを殺し、しかし、妻であるサライは生かして置くと語っています。サライ、妻が教会のたとえなら、夫、アブラハムはキリストのたとえかもしれません。
この世が妻である、教会の美しさはほめそやすが、夫である、キリストを殺すとはあり得る話です。

この世は確かに教会の美徳、貞潔、道徳、信仰、信心を何か優れたものとして、人間的な標準にそって、
その美しさをほめそやすものです。教会や、キリスト教の歴史は西洋の美術、音楽、文学の中核をなしており、彼らはその美しさをほめそやしているのです。しかし、夫である、キリストを殺すとは、また事実であり、この世の人は教会のもっとも大切な事柄である、聖霊に触れること、キリストにより新生する等は、骨抜きにし、抹殺しているようです。

14 アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。”

アブラハムの妻たるサライは何と、エジプト王の妻として召し入れられてしまったのです。
たとえとして見れば、教会がこの世の妻となるということでしょうか。そして、「それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった」と書かれています。この世につくことにより、教会の信者数が増加、発展するということでしょうか。

17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」”

しかし、このこと、この世が教会を妻とすることには、みこころがありません。
それゆえ、主は「パロと、その家をひどい災害で痛めつけた」のです。

ですから、私たちはこの記述を通して知らなければなりません。主は
教会がこの世の妻となることを決して望んではいないということです。そうなるなら、むしろ、それゆえにひどい災害が臨むということを知るべきです。
 
 
 
 
 
 
 
 

”使徒の働き 13:17 この民イスラエルの神は、私たちの先祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。”

教会は、エジプト、この世に住む間に強大になり、教会数も信者の人数も増えました。

今、多くの教会では、この世が入り込んでいます。心理学やら、文献学やら、多くのこの世の学問、
方法が入りこんでいます。このような教会を聖書は「エジプトにいる」と呼んでいることを知るべきです。
しかし、ずっとこの世に住み続けることにみこころがあるのではないことを知るべきです。
終末の日に、このことに気付いた神の民が、この世から離れる、出ていく日がきます。
これこそ、終末の日の出エジプトであり、聖書の出エジプト記の記述はこのことの予表です。

”ヘブル人への手紙 11:29 信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。”

しかし、残念なことに全ての神の民が出エジプトするわけではなく、「エジプト人」と聖書が呼ぶ人々は出エジプトできず、逆に裁きに会います。彼らはこの世につく神の民の別名です。
多くの人々は、自分はクリスチャンという名前で呼ばれていると思っています。それしか名前はないと思っています。しかし、
聖書的にいうなら、この世につく神の民に関して、一つ別の名前が用意されています。
それは、「エジプト人」という名前であり、出エジプトする神の民とは、異なる名前であることを知るべきです。

そして、終末の日、出エジプトしない神の民、この世との分離を行わない人々は、
紅海の水、すなわち悪霊のリバイバルに飲み込まれていくことを知るべきです。

終末における主のみこころを行いましょう。

-以上-