No.319 人のこころと神のみこころ

”テキスト:”マタイ15:
13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。”

終末の日に私達が知らなければならないこと、大事なことは、私達が神のみこころを行うということです。
何故なら、主は明らかに「神のみこころのわざは残ること、そうでないわざは残らないこと」を語っているからです。

テキストを見ると、ここで明らかに主は、「天の父が植えた木」と「天の父が植えなかった木」という2種類の木、神の民がいることを語っています。
そして、ここで話題になっているパリサイ人は、宗教的に熱心ではあったが、「天の父が植えていない」、すなわち、神の意志と全く関係ないことを「自分で思い込んで」なしとげていることがわかります。
彼等は熱心であり、食事の前に手を洗うこと等を厳守していたのに、何と主は、彼等は「天の父が植えなかった木」であり、いずれ、「根こそぎにされる」と語っているのです。

このことは何とも皮肉、悲しいことがらです。
一生懸命、神に仕えていたつもりなのに、肝心の神様から、「自分が植えたものではない」「いずれ根こそぎにされる」などといわれたのでは、たまったものではありません。

しかし、このこと、この悲劇は、現に主イエスの時代に起きたことがらであり、また終末の日にもっと大きな形でくり返されることが予想されます。

ですから、神に奉仕することは、もちろん大切なことですが、しかし、その前に大事なことは、
「何を神が望んでいるかを知ること」だということがわかります。
そして、もう一つ、神のみこころを知ることは結構難しいということです。「絶対、神のみこころ」と
思い込んでいても、違っていることがありえることがわかります。

神のみこころに関して知らなければならないことは、以下でしょうか。

1. 神様には神のみこころ、方法、考え、意志がある。
2. そのみこころは真に求める人々には明らかになる。
3.求める気のない人には明らかにならない。
4. 神のみこころを行う者の働き、奉仕は残り、また行う者は神からの祝福、栄光を受ける。

さて、神のみこころに関して以下のような箇所が聖書にあります。
 

”ペテロ4:1 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。
2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っている(諸国がしたいと思っていること)ことを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。
4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。
5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。”

この箇所は、第一義的には、異邦人のような歩みをしてはいけないとの教訓ですが、しかし、
その中にもう一つの意味あい、神のみこころを離れた歩みをする神の民に対する警告が
含まれているようにも思われます。
 
 

この箇所を見ていきましょう。

1 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。”

「肉体」とは、勿論、手や足という肉体ですが、しかし、たとえの意味あいとしては、
キリストの体」としての教会をも意味するのかもしれません。

終末の日に、「肉体において苦しみを受けた人」すなわち、世界的な教会、ローマカソリックとのエキュメニカルな一致等にまい進する「からだなる教会」において、それに反対するゆえに苦しみを受ける人は、
結果として、これらの「罪とのかかわりを断ちました」、すなわち、罪ある教会との関わり、交わりが断たれるでしょう。

2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。”

このようにして、この「世俗的な大統一教会」から閉め出された人々は、「神のみこころのために過ごすように」なります。ですから、このようにして排斥、非難されることは、結果として、これらの
主につく人々にとって、祝福となります。

地上の残された時」

生まれたばかりの赤ちゃんに対して、「地上の残された時」すなわち、世命に関しては語りません。
また、青年に関しても同様です。しかし、年輩の人、老人の人の間では、「地上の残された時=余命」に関してよく話題になります。
ですから、このみこころの教会、人々は地上に残された時が少ない、すなわち、終末の時の教会、クリスチャンであることがわかります。

「もはや人間の欲望のためではなく」

「もはや人間の欲望のためではなく」との表現は、この教会、世界的な教会が、
人間の欲望、望みを追い求めた教会であることが類推されます。しかし、これは、神のみこころと
かけ離れています。

”3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っている(諸国がしたいと思っていること)ことを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。

「異邦人たちがしたいと思っている(諸国がしたいと思っていること)」とは、神のみこころ、意志と
は異なります。ここで新改訳で、「異邦人」と訳されていることばは、諸国とも訳されていることばです。

ですから、ここで語られているもう一つの意味あいは、諸国の民の「こころ」、思いなのです。

そして、これは上記「神のみこころ」とは対照的なものです。

「酔酒」

酒に酔って、人にからんでいる未信者の行いはもちろんよくないのですがしかし、ここには
もう一つのたとえの意味あい、「惑わしの霊=酒」に酔う人々への警告も語られているように思えます。

「宴会騒ぎ」

宴会騒ぎをおこすのは、酒に酔う人です。ですから、惡霊のリバイバルで酔ったり、踊ったりすることは、
主に嫌われることです。

忌むべき偶像礼拝」

陰で惡霊の印をつけようとする「器」に聞き従うことは、「忌むべき偶像礼拝」になります。

これらは、今の時代、諸国すなわち、多くの教団、教派が行っていることですが、しかし、
聖書はこれらに対して、「それは過ぎ去った時で、もう十分です」と語ります。

4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。”
 

このような惑わしの霊の響宴、すなわち、「度を過ごした放蕩」に走らない時、「不思議に思」われ、
また、カルトだとか、「悪口を言」われるかもしれません。
しかし、どちらが正しいのでしょうか。

”5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。”

このような惡霊の宴に加わり、その酒を飲む者達、偶像を拝み、神を退ける人々は、「生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければな」らないことを知るべきです。

くり返します。
終末の時代においては、多くの点で当初の教会から外れた歩み、間違った道を歩むようになります。
この「みこころを行う」という点においても同じです。
多くの教会が神のみこころといいながら、神が全く語っていないことをするようになるでしょう。
しかし、黙示録に何度も繰り返して書かれているように、「耳のある者は御霊が諸教会にいわれること」を聞くべきなのです。聞く者、みこころを行う者に祝福があることを知りましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー