NO.317 行いに応じてさばかれる

テキスト:”ヨハネの黙示録 20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
 

本日は、「行いに応じてさばかれる」という題でメッセージしたいと思います。
終末の日に「行い」により、さばかれることを見ていきたいと思います。

我々クリスチャンの間で、ずっと教会時代で、強調され、大いに喧伝されてきたことは、「信仰により義とされる、行いではない」ということです。

行いが大事などというと、「行い主義」「恵みに逆らう人、主義」「神の愛と許しを無にする人々だ」というように
あんまり評判がよくないようです。
さて、「行い」について語ることが今、クリスチャンの間で人気があるか、受け入れられるか、
ということはとりあえず置いて、別の視点で考えてみましょう。

神の視点で考えてみたいと思うのです。

たとえば私達が、美術学校へ入学しよう、試験に受かろうとするなら、いくら数学が大好きでも
こればかり、勉強しているのは無意味です。美術学校なりは、たとえば絵を書く試験があるので、
これがちゃんと書けないと合格はおぼつかないでしょう。その勉強が大事です。
試験官はやはり、ちやんと美術の素養、技術のある人を入学させようと思っているので、
馬を描いたはずが、ブタにしか見えない絵しか描けない人を合格させないでしょう。
同じことは、音楽学校の試験でもいえるでしょう。音楽大学のピアノ科へ入るのに
英語ばかり勉強するのは、まとはずれです。ピアノ科に入りたければ、やっぱりピアノの練習を
しなければ、試験合格、入学は不可でしょう。

試験に合格したければ、その学校で要求されることを満たすことが大事なのです。
同じ意味あいで、私達は、神が我々のさばきを何を基準にして、裁くかに目をとめなければなりません。

上記テキストを見ると、死後の裁きにおいて、「自分の行いに応じてさばかれた」と書いてあります。
決して「信仰に応じてさばかれた」とは書いてないのです。

黙示録のこの箇所には、聖書の中では数少ない「死後のさばき」について書いてある箇所です。
そして、この箇所に、「行いに応じてさばかれた」と書かれている以上、私達は、
行いに目をとめなければなりません。

学生生活をどのように送るのも自由ですが、しかし、最後に卒業試験に合格できなければ、
卒業はできません。
もし不合格になれば、今までの学生生活は無意味なものとなってしまうでしょう。
同じ意味あいで、クリスチャンが何を信じ、主張するのも自由ですが、
しかし、死後のさばきの時、滅びの宣告を受けるなら、それまでのクリスチャン生活は、
はっきりいって、無意味、また失敗です。
そして、
裁きは私達の希望や、望み、好みに基づいて行われるものではなく、神の定めた方法により、行われるものです。
そして、そのさばきに関して、聖書が「行いに応じて」と書いてある以上、このことに目をとめるべきなのです。

このこと、「行いに応じてさばかれる」ことは、黙示録の中で、再度記述されています。

”ヨハネの黙示録 20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。”

ここでも「自分の行ないに応じてさばかれ」ることが、明確に記されています。

ピアノの練習を全くせず、どれがドだか、ミだか鍵盤の場所もわからないのに、
ピアノの試験を受ける人は失敗しますし、恥を見ます。
同じ意味あいで、明確に聖書が「行いにおうじてさばく」と記しているのに、行いを
軽視したクリスチャン生活を送る人々はその日、恥を見ることになるでしょう。

ルターが「信仰による義」を見たのは確かですし、彼のいうことに理は確かにあるのですが、
しかし、信仰のことばかり、強調しすぎるあまり、「行い」が全く不要かのように主張する人々は、わなにかかり、「健全な教え」から、離れ、「片寄った教え」に入っていることを知りましょう。
何でもバランスが必要なのです。
 
 

明らかに聖書には、”おのおの自分の「信仰」に応じてさばかれた”とは書いておらず、
”おのおの自分の「行ない」に応じてさばかれた”と書いてあるからです。

終末における主の御心を行いましょう。

ー以上ー